第百七十話 黒ノ世ノ表裏ニ
少年は、未だに眠っている。もう、どれほど時が過ぎてしまったか。
再の三時、という表記が目に入る少女は、次第に落ち着きを失くしていく。
また、いなくなってしまうのではないか。と。それでも、「待ってて」と言われた少女は、信じ続けている。
「貴様は、ザイヴやラオガが怖くはなかったのか」
「……それ、ビルデさんが言いますか?」
困ったような表情を浮かべる人型魔界妖物は、同様に、困った表情で静かに笑う少女に戸惑う。
ほとんど接点のない二人が、腰を並べて座っている。ある程度の距離はありながらも、そうして一人の少年を、ただひたすら待っている。
仕事を進める医療担当の師は、そんな二人に見向きもせずに書をまとめ続ける。
「初めは、怖かったです。でも、聞いたことは全部事実で……受け止めたら、次は私も何かできないかって考えるようになって。……結局、支えることくらいしかできなかったけど。今では、ザイたちが凄く頼もしくて、私も頑張らなきゃって思ってます。本当は、こうして終わる頃には、並んで戦いたかったんですけど……」
力が及ばなかった、という後悔が、少女の胸を締め付ける。俯いた目は、胸で作られた拳を悔しそうに見た。
「……女のくせに、そうして格好つけるんじゃのう……。まあ、貴様の言い分は悪くない。それに、そうした心は、必ずザイヴを導けるはずじゃ。……ふ、吾らしくもない、こんなにも人に言をくれてやるとは」
「ビルデさんは、ザイたちのこと怖かったんですか?」
「まさか、質問を返されるとは思わんかったな……。怖いとは思わぬ。しかし、奇妙じゃった。人のくせに、魔に味方し、関わり、助けるなど。肝が据わっておる分、本当に気味が悪かった。……ただ一つ。奴らが持っていた寛大さには、惹かれるものがあったのう」
頬杖をついた男は、呆れるような表情で笑んで見せた。
そして、少女は顔を上げる。潤む目を必死に隠しながら。
「……助けに来てくれて、ありがとうございました」
それを聞いた医療担当の師は、思わず手を止め、一人微笑んだ。
......
闇に倒れる体を認識できる。意識の中で、〈暗黒者-デッド-〉が俺に語りかけてくる。
横にいるのは、穏慈ではない。〈暗黒〉にいれば、いつも穏慈が支えとなってくれていたのに。あの大きな、化け狼のような体は、どこにもない。
虚無感に苛まれ、体を動かすことができなかった。
「……俺、は……」
─ザイヴ=ラスター。君を選んで良かったと思う。俺はこれからも、君の中に眠り続ける。けれど、違えないでほしい。俺は、〈暗黒〉に存する〈暗黒者-デッド-〉。君に憑きながら、〈暗黒〉で静かに息をする。君の邪魔はしない。
まるで人としている俺の、これまでのような、二世界に同時に存在する者。そうして、〈暗黒者-デッド-〉は存在していくことになるという。
この存在だけは、本質そのものと言っていただけあって、どちらか一方に偏ることはないようだ。
「そう、か……うん……。穏慈は、ちゃんと、帰ったんだよな……こんなところでじっとしてたら、心配する、よな」
その本人はいないけれど。〈暗黒者-デッド-〉の力がかかっているとはいえ、このままここにいるわけにもいかない。こうして虚無に潰されている様なんか、見たくないはずだ。
「……お前には、助けられもしたし、腹も立ったし、大変だった。俺をこんなに追い詰めた。でも、お前がいたから、他にはない時間になった。そう思うことにする。……帰るよ」
─そうか。……人よ。本来関わることのないモノに、よく最後まで逃げずにいてくれた。君を待つ仲間の元へ……俺が届けよう。
声が遠くなる。気配が消えていく。
これで本当に、〈暗黒〉とはお別れだ。
「さよなら」
俺が役目を終えた世界は、真っ暗なのに、温かい気がした。
──〈暗黒〉の世に、人の存在は許されない。その理に従って、能力を手放した少年は、闇から姿を消した。
......
ふわりとした明るさが、瞼越しに俺に降ってくる。通う血液が、うっすらと見える。ここは、きっと。
細く目を開けると、見慣れた景色が視界に入った。白く、綺麗な天井と、電光と、そして、匂いも。
腕で光を遮りながら、瞼をゆっくりと、上げていく。その様子を見たのだろう。ルデとウィンが、同時に俺に歩み寄ってきた。
体を起こし、その顔を見る。ウィンは笑って言った。
「おかえり」
ずっと待っていてくれたのだろう。ルデも俺を見て、一度別れをした時と同じような、笑みを浮かべた。
「……ただいま。……お、れ……全部……終わらせた……」
「ああ、貴様ごときが、よく世を背負っておった。よう励んだ」
「ザイ泣かないでよ……つられちゃうでしょ」
当然だ。
異常に変わってからの俺たちの日常にあったものの多くが、姿を消した。それは何度でも思うように、虚無でしかない。こんなにも寂しくなるなんて、思わなかったから。
「ごめ、でも……」
そこに、ゲランさんが歩いてくる。いつも通りの、悪そうで、それでいて人をよく見る目が、俺を捉える。
「ガキはガキらしくしとけ。大人ぶる年でもねーだろ」
その言葉は、俺の中に溶けるように入り込んできた。
思わず、解放感と静寂感に耐えきれないものは、零れてきた。
すでに夜も更けてきた頃、ガネさんとソムさん、加えてオミが医療室に入ってきた。
俺が起きているのを見るなり、迎える言葉を、優しく紡いだ。首元の紐にも目が行ったようで、「終わったんですね」と、どこか寂しそうに言った。
「穏慈くんは?」
「……何か、かっこつけてたよ。もともと人とは関わらないものだから、別れの時も黙って消えるって」
「そっか……残念。私は別れくらいしたかったのに。たくさん助けてもらったんだから」
「そうですね……でも、怪異らしいといえば、らしいですね」
各々が、全ての終息に安堵し、呼吸を落ち着ける。俺も、そろそろ立ち上がるべきだ。呆然と過ごしているだけでは、何も進まない。
「こっちで、何か変わったことあった?」
「いいや、何もねーぞ。本当にその繋ってやつを切ったのか聞きたいくらいだ」
「……繋は、俺と怪異にしか見えなかったみたいだから、俺以外には、分からないのかもね」
「あ……ザイ君、眼見せてください。それ……」
「え?」
俺の眼を見ようと、ガネさんは俺の間近にまで寄ってくる。じっと見るその眼は、やはり誰もが認める他人との差がある。
細い目が、両目を見比べるような眼の動きに、違和感を覚える。また、俺の目に変化があったのだろうが、黙ったまま、話さない。
「ガネさん、何が……」
「……良かったですね。目の形、戻っていますよ。ただ、右眼の色……若干薄くなっている程度ですけど、少し変わりましたね。まあ、大きな差はありませんし、見え方も問題はなさそうですね」
咄嗟に言葉が出ない。視界は普段と変わらないのに、目だけ異様に変化したらしい。確認しようと、ゲランさんに鏡を出してもらい、見ると、確かに僅かに色が違っていた。
それでも、形が戻ったことだけが、俺の気を軽くした。
「……そっか。でも、これで……色は違っても、元通りだ」
前の日常に戻れるわけではない。異能が覚めた時点で、それは決まっていただろう。通ってきた日々は、間違いなく俺を変えたし、周りの人をも変えた。
それでも、叶うなら。
─もう一度、あの色の日常を。
「……少年、お前の器は、やはり変わらない。あの時から、ずっと」
「そうですね。……ザイ君、よくやり遂げました。君の師として、誇りに思います」
始まりがあれば終わりがある。表があれば裏がある。光があれば影がある。どんなものにも、必ず。
だから、それをモノとして見た俺は、それ以上を望めない。
「うん……ありがとう」
それから、自室に戻るときに、ルノさんとホゼに会った。
機能復元のために、動きを調整したという報告をしに行くところだったという。俺の目を見た二人も、ガネさんたちと同様に、俺を労わってくれた。
遅い時間ということもあってか、すぐに体を休めるようにと促したルノさんだったが、一つだけ、と付け足して、言った。
「すまないが、俺から話がある。また明日、医療室で」
「……分かった」
翌、快晴の空の下。
陽の差す、ある都市。復興は進み、人は十分に活気にあふれ始めていた。
空に例えられた魔石は、輝きを放ち続ける。そこに、彼らが施した守りは働いてはいなかった。青い光を纏っていたそれは、白を基調にしたような青に変わっていた。
(……強すぎる。痛いくれーの眩しさ……こんなこと、今まで……)
少年は、ハッとして笑う。
─ケリがついたのか。そう察したように。魔石に背を向け、少年は人の中に紛れ込む。
光は次第に、息を潜めるように彩度が落ち僅かな青が揺らめいていた。