第百六十九話 黒ノ通ノ人ト怪
「ガネ。……元気ない、よね」
屋敷は、異例の事態を終息させるべく、長期休暇を取り入れた。異例のことに、僕たち教育師も、どこか落ち着かない。
屋敷生は事の全てを受け止めきれず、中には屋敷を脱したいという者も出てくる始末だ。それはそれで仕方がない。
今回の事は、やはりそれなりの傷を残していた。
自室で考え込んでいる中に訪ねてきたソムは、僕の様子を窺っていた。
「応用生に事情を説明した後。彼らに、ラオ君の遺志を聞きたいと言われて、話した。正直、話す僕自身が、違う人格に取り憑かれたみたいに、どうかなりそうだった……。本当は、あの場をひっくり返せたんじゃないかと思うと、自分を責めずにはいられない」
「うん……。直接ラオガ君にはなれないけど、その遺志には共感できるから。余計に辛くて。それに、ウィンちゃんもザイヴ君も、耐えているんだよね」
自分が死ぬことになっても、二人を守る。そのためなら自分は足を止められない。そう言ったラオ君の心は、あまりにも寛大でいて残酷な、生きる理由の一つだった。
それを、自分に代わって僕に頼んだということ。あの時点で、何と言われようとこうなる結末を覚悟していたのだろう。
「その遺志を渡された。二人を守る、そのラオ君の生を僕が聞き入れ、受け止めることは、彼の中では迷いなく消えられる理由になったはずだ。そんなの、酷いだろ」
「きっと、それだけの信頼をもって、託せる相手だったんだろうね。ガネなら、自分と同等に二人を守ってくれるはずだって。……私も一緒に守るよ。大切な仲間だもん」
─あいつら二人だけは、失いたくない。俺がいてもいなくても、……ガネさんにしか頼めないから。お願いします。
また、頭に浮かんでくる。強く刻まれた言葉は、更に深く、僕の心に亀裂を入れた。
これほどまでに、僕は弱かっただろうか。僕に委託したラオ君の気持ちを考えると、どうも苛つきを覚えてしまう。
「イライラしてる顔してる」
「え、いや……そうだな。隠せないなら、隠す必要もないか。……でも、僕たちがこうしていたら、屋敷生はもっと不安になる。気を紛らわせた方がいい。こっちはこっちの仕事に取り掛かろう、手伝ってくれ」
無理矢理見ないようにするしかない。事実がかき消されるわけではないけれど、屋敷が完全に落ちてしまう前に。
(……約束だ。ラオ君の気持ちは、僕が背負う)
ソムには知られないように、僕は強く、その先を見据えた。
......
ガネさんたちに残す言葉はなく、穏慈は『そもそも人とは関わらぬ存在だから』と、別れもせずに消えると言った。
(別れくらい、すればいいのに)
鎌は、二色の繋を捉えて、白く輝く。その強い光は、暗い中で俺をも包み込んだ。
不思議と体が、心が、楽になる。俺の瞼は、自然と視界を遮った。深く、より深く息を吸い、時間をかけて吐き出す。
そのうち、また、自然と視界は光へ届き、両手は鎌の柄をしっかりと持つ。
「……俺は、〈暗黒者-デッド-〉を背負い、ここに立つ。俺に答え、表裏を断つ」
いつも通り、敵対する者に斬りかかる要領で、腰を落として鎌を後方に引く。
穏慈は一言も発さない。俺がそれを斬るのを、静かに見守っているようだ。
(逆にやりにくいって……まあ、でも)
かける言葉が、うまく出ないのかもしれない。俺も器用なことは言えないけれど、せめて、屋敷にいるみんなの言葉として、かけられる言葉を探す。
「穏慈」
『あ?』
多くの面で、怪異の力をもって、人を支えてくれた。時に乱暴だったけれど、だからこそ乗り越えたこともある。
「お前も、大事な仲間だよ。繋がなくなっても、俺たちはは、穏慈のこと、怪異のこと、……絶対忘れない」
『……ふ、馬鹿者が。お前のその器は、認めざるを得ん』
怪異の姿で笑みをこぼす穏慈に、初めに会った時の穏慈を重ねる。印象は、がらりと変わった。それこそ、穏慈の人への関心を認めざるを得ない部分だ。
『我はお前を主とする者。そして、お前の役目を見届ける者。また、互いに会う前に戻るだけのことだ。お前はその器量を棄てず、先を掲げて進め。お前が成し得ることは、お前にしかできんただ一つの力であり結果となる。……まあ、一つ懸念し、伝えることがあるとすれば……時には弱みくらい、あいつらにはぶちまけることだな』
「……かっこいいこと言ってんなよ」
『ふん。……さあ、もう言葉を交わすのも終いだ。別れの時だ、ザイヴ』
摩擦の熱を感じるほど、鎌を握りしめる。
穏慈に出逢って、〈暗黒〉を知って、色々なことが起きて。時には過去を見たり、呼吸を整えたり、屋敷生として全うしたり、本当に詰まりに詰まった期間だった。
間違いなく、俺の糧になったはずだし、生きるはずだ。
静かに、静かに。音を切る。
すべてが闇に溶け込むように。
俺が捉えるのは、繋のみ。
これが俺の、終着点。
「っせえええええあああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!」
金属同士が激しくぶつかるような、響く音がした。振りきろうとした鎌は、繋に引っかかり、輝きを増していく。
繋を追うように広がるそれは、俺が掛ける力を表すかのように順調に伸びていった。
そして、青い光が広がる。綺麗で、澄んだ、陽に反射した空のようなそれは、白を辿っていく。
電気を帯びているのかと錯覚するほどの痺れが、腕に響いてくる。不安定な空間で、強い繋は、今。
「あああ゛あああああああ゛あ゛あああああ!!!!!」
俺の、力を込める喚声に応えるように。
─ギイイイイイイン
─キィィィイイイ……
鎌は振り切られ、青と白は、砂が舞うように薄れ、消えていった。同時に、持っていた鎌も、空間に溶け込むように、俺の手からなくなった。
「はあっ、は、……っはあ……っあ!?」
繋を切る。つまり、俺はこの場にいられない存在となる。地響きのような、心をかき乱される音が聞こえる。
体内を抉られている感覚。脳を捻られている感覚。血液が冷たくなるような、凍る感覚。
多くの異常が、一気に俺に押し寄せてきた。
それに耐え兼ねた俺は、意識を手放すことしかできなかった。
(……どう、なったん……だっけ)
意識を戻した俺が見たのは、辺り一面に広がる真っ暗な闇。視界が遮られている錯覚さえ起こすほど、光が全くなかった。五感が通じず、情報を全く取り入れることができなかった。
──
そんな中、はっきりとしない音のような、声のような、不可解なものが聞こえてきた。
そういえば、初めて穏慈に逢った時、こんな感じだった。そう思うと、懐かしく感じる。
(俺は、繋を……切ったんだよな……?)
びりびりとした感覚は、まだ腕が覚えている。気持ちが悪い感覚も、まだ体に残っている。ただ、苦しさはない。
ガネさんがつけてくれた、鎌を下げるための首紐に触れると、そこに、鎌はなかった。
── ─
それなのに、なぜ。この、不気味な音を耳が捉えるのだろう。
不思議でたまらない。
─ヴ
あの時と同じだ。音が、次第に声に変っていく。
穏慈、なのか?
いや、有り得ない。アーバンアングランドと〈暗黒〉の接点は、なくなった。穏慈が俺の前に現れることは、不可能なはずだ。
─スター……─れ
聞き覚えがある。穏慈ではない。徐々にはっきりとしていく声の主の正体は、分かった。
(……〈暗黒者-デッド-〉、だな)
─ザイヴ=ラスター。少しだけ、俺の力で留めさせてもらっているよ。……繋は、安全に断たれ、表裏の要である君の仕事は終わった。まずは、礼を言うよ。
(穏慈は……)
─彼は、繋を断った君を最後まで見守った。そして、消えていった繋と、鎌と、そして君を見て……闇に帰ったよ。『またな』って、言ってたかな。
......
鎌が繋を切った。色が溶けていく。ザイヴの持つ、鎌が溶けていく。
ザイヴが、苦しみだした。当然だ、この場は人にそぐわぬ。役目を果たし、鎌を失した今、ザイヴは表に帰る他ない。
思ってもみなかった。ここまで、情を揺さぶられるとは。
そもそも人と怪異は関わらぬ存在。だから、そこまで踏み込むつもりもなかった。別れも、分かり切っていたことだ。全て分かった上で、ここまで来たはず。
それでも、この情を言葉にするならば。
これが寂寥感、という奴だろう。
いや、なかなかに充実を味わったものだ。
─素直に寂しいって、言ってくれないのか。
─お前が世話焼きで、心配性で、優しいから。馬鹿みたいに寂しいって、……そう思う。
─お前も、大事な仲間だよ。
ああ、こんなにも苛つく。何が嬉しくて、ここまで信頼をくれる奴と離れなければならんのか。
ザイヴの言葉は、我にはとっくに毒だったようだ。
『……またな、ザイヴ』
言葉は見つからない。ならば、ザイヴが少しでも先を見ることができるように。その言葉を最後に渡そう。
(何と言っていたか……。いつか、また会える気がする言葉、だったか。ふん、そんなものに縋るなど、怪異として失格だな)
もうここに用はない。ザイヴは、在るべき場所へ帰っただけだ。
我も帰ろう。我々を見送った怪異が待つところへ。
─我も、忘れることはないだろう。
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通ノ人ト怪