第十六話 黒ノ昔歳ト名染
罠に潜んで獲物を待つ陰は、気配を消していた。不覚にも察することができず、お陰でザイヴは飲み込まれてしまった。陰がどこかへ連れて行ってくれたわけだが、探すにも手の施しようがない。陰には縄張り意識があるものの、獲物を捕らえ、それに我がついているとなると、そこにいるとは考えにくい。ならば、不本意ではあるが虱潰しに行くしかない。
陰の気配がないものかと、陰を見かけたことのある近辺をあたりながら急ぐものの、簡単に収穫は得られない。
『そう簡単には見つけさせてくれんか……』
落ち度があるのは認めるが、厄介なものを引き寄せてくれたものだ。
『……無事でいろよ』
気づいたときには、俺はよく知りもしない〈暗黒〉に放り出されていた。辛うじて見えていた視界を完全に塞いだあの暗闇の中で、何かに襲われたらしいことだけが明確だ。幸いにも足は自由で、周囲を警戒しながら、恐る恐る足を進める。
穏慈がいる気配は全くない。その代わりに、違うものがそこで蠢いた。
─ク クク……
不気味で、ノイズのように途切れる笑い声が後方から届いた。咄嗟に、そこにあるものを目に入れるべく振り返るが、何もいない。
─デッド……デッド……!
ぞくりと身が震える。今度は、先程まで意識をしていた方向から、声。向き直すとそこには、一目には収まりきらない影に似た靄の体を持つ化物がいた。
『クククク……。デッド……ニガサヌ!』
「ひっ……!?」
一瞬見ただけで、穏慈が半狂乱だと言っていたことが頭を過ぎる。その怪異だと判断がつくほど、歪に目元が揺らいでいる。
「なんっ……」
『ケケケケケ……イブツハデッド……! クエヌノカクエヌノカ……!』
このままでは、間違いなく喰われる。俺の頭は、逃げなければ、という意識で独占された。足を踏み切って、そこを離れる。勿論、そんな俺を怪異はすぐに追ってきた。
『ドコヘイクデッドォォオオオ!』
「っ……!」
悪寒すら感じる暇もないほどの圧を背に受ける。体は正直で、速さが衰える。逃げないと殺られる。そんな思いで、視界の悪い中を必死に走った。
『ガァァアアアアッ!』
「っくそ! 【解化】ぁぁああ!」
やけくそで鎌を解放し、変わらず重い鎌を振ろうと必死になるが、思うようには振れない。俺には、重すぎる。
『ククク……ツカエネバオソレルモノデハナイ!』
「ぅううっ……!」
相変わらず耳障りなノイズ混じりの声が、俺を焦らせる。最低限の抵抗をと、鎌を前で構えたその瞬間、怪異は突進してきた。少し遅かったら、直撃していただろう。勢いに押されはしたものの、何とか踏ん張りの効いた足は痙攣に似た痺れを纏っていた。怪異はといえば、尚も俺を捕らえようと、非常に強い力を加え続けている。
足に次いで痺れてきた腕の力を入れ直そうと、鎌を握り直した一瞬。
「ぅわっ!」
怪異の力で、俺は軽く押し倒されてしまった。
『ニゲルナデッド……旺ガモウソコマデキテイル』
その怪異が旺と言ったことに、違和感を覚える。違和感、とは言っても、知っているようで知らないような不思議な雰囲気だ。
「旺……?」
『……アァ、ソレニシテモハラガヘッタ……ハラガヘッタゾデッド!』
「! やめっ……!」
人一人余裕で丸呑みできる大きな口を、更に裂けるほど開けて迫ってくる。影のような身なりのくせに、牙だけは立派なものが四本、存在感を主張していた。
「ふぅっ……! このっ……!」
右手に持っていた鎌の柄を両手で握りしめて、渾身の力で振った。
『ガァアアアアアッ!』
怪異に直撃し、怯んでいる隙に俺は再び走り出す。その中で、先程までの重力がかからないことに気づき、目をやると。
「え……」
引きずっている鎌は、僅かに光を帯びていた。これには驚かざるを得ない。その意味を考えるほどの余裕は、もちろん持ち合わせていない。
『デッドオオオオオ!』
「!」
振り返ってもう一度鎌を振ろうとするが、その隙を、奴は無理やり作って埋めてきた。
「ぐあっ……!」
左足に牙が食い込み、一気に力が抜けて倒れ込む。成す術がなくなる、という言葉通りの状態だ。
「はぁっ……ぁ゛っ……」
『貴様ぁぁああああ!』
風を切る音がした。同時に、足に食い込んでいた牙が綺麗に抜けた。それを合図にするかのようなタイミングで、鎌は自動的に小さくなった。
「あ゛っ……ぐぅ……! くそ……いっ、でぇ……っ」
『ただではすまんぞ、陰!』
その聞き慣れた声と、陰への怒りを露わにした態度で、穏慈がいることは確信できる。体に入っていた力が、一気に抜けた。
『すまなかった。……いいか、喋るなよ』
穏慈は俺のそばに来て、顔を覗き込ませて言った。勿論俺は首を縦に振る。呼吸をすることが精一杯であることに加え、足から脈打つように流れ出る血液の感覚が、気持ち悪い。
『クククク……デッドノチカラ……! クウ……!』
『……いや、我のものだ。引かぬなら貴様を喰うぞ』
穏慈を初めて見た時よりも遥かな恐怖が襲いかかっていたのは、この歪んだ空気のせいだ。妖気そのものと言っても、過言ではない。
『腹も空いておらん今のうちに去るんだな』
『フザケルナ旺! クワセロ!』
陰が呼んだ相手。その通り、穏慈が旺と呼ばれているのだろう。先程感じた違和感の正体は分かったものの、地に伏せたまま痛みに耐えるのに必死で、集中することはできない。
その直後。俺の体はぼんやりとした光を帯びた。
『キサマァア!』
『お前にはやらん』
穏慈も同様に光を帯びている。つまり、そういうことだ。それを認識して、俺の意識は途絶えた。
......
─……イ君!
誰かが俺を呼んでいる。安堵感を覚え、聞き覚えのある声を掴むように、重い瞼を上げた。
「ザイ君、大丈夫ですか?!」
「……ガネさ……」
俺の意識が戻ったことに安心したガネさんは、俺の血にまみれた左足に目をやる。この前聞いた失礼な発言を、嘘だと思わせるような顔だった。
「良かった、また怪我をして……こんなのが続いたら、大量出血で死にますよ」
「ごめ……あぁーっ痛ってぇえ」
「それだけ喋れるなら大丈夫ですけど……寿命なくなりますよ」
「俺だって想定外だよ……」
『迂闊だった』
「わ!」
人の姿をとっている穏慈はすぐ横に居たようだが、まるで気付かなかった。はあと溜息を一つ落とし、腕を組んで顰めた顔をしている。
その間にも、ガネさんは止血と消毒を施し、包帯を足に巻き付けていく。手際が良いため、痛みもほとんど感じないまま処置が終わった。
「ちなみに今何時?」
「未の四時です。明日が休み最終日なので、できる限り治しましょう」
「あぁ、うん」
「しっかりしてください」
ほっとして気の抜けている俺の額に、ガネさんは拳を当ててきた。それでも俺の、ひとまずの安堵感は大きい。再度ぼんやりとしていると、また目の前に拳が見えた。
「ご所望なら何発でも、と言いたいところですが……そんな場合ではないですし、寝てください」
「うん……」
ガネさんは僅かに笑むと、部屋から出て行った。そして、見渡して気づく。新鮮さを感じるここは、俺の自室ではない。ましてや、見慣れたラオの部屋でもない。
「もしかして、ガネさんの部屋?」
『そうだろうな。あいつの臭いが強い』
どういう経緯で、ガネさんが俺を部屋で預かっているのか気にはなるが、それはさておき。もう一つ、穏慈のことで気にかかることがある。
「穏慈。旺って何……」
その名を出した途端、がらりと顔色を変え、睨みを利かせて俺を見た。触れてはならないものだっただろうか。その緊迫感で、咄嗟に体が硬直する。
『陰か』
「うん……陰が呼んで……っ!」
言葉を言い終わらない内に、穏慈は突然俺の額を力強く押して体を倒し、その力のまま押さえつけた。
「いって……何っ……!」
『……以後その名を出したら、どうなるか分からんぞ』
穏慈は、獣の存在を隠しきれないほど虫の居所が悪くなっているようで、俺のことすら捻り潰してしまいそうだ。
「……俺は、そう呼ぶつもりも、否定する気もない!」
『……ふん。良いだろう』
穏慈は俺の頭から手を離し、ベッドの端に腰をかけた。穏慈がかけていた力の名残で、多少の目眩を感じながら、俺は再度体を起こした。
『それは、我の昔の名だ。ある事を境に、我は名を改めた』
─遡ること、六百年ほど前の話だ。
......
『腹が減った……』
〈暗黒〉を歩いて食糧を探す。といっても、食糧となるモノは決まってある場所にある。しかし、いつもと変わらないと思っていたこの時は、どこか違っていた。
『旺』
名を呼ばれて振り返れば、そこには薫がいた。食欲を満たすべく、薫も同行するという。聞き取れるためあまり気にしないが、その言葉の発音はもう少しで完璧だ。
薫と出会った我は、そのまま共に穴場へ向かった。
薫は我とは違い、龍に近い体をもつがゆえに、それなりの巨体だ。龍ではなく、龍に何かが加わったような姿は、怪異から見ても不気味だった。
『そうイえば、お前ハ知っているカ』
『あ?』
『いや、もうジき起こるカモしれンな……』
『わけのわからん奴だ』
薫は、我が知らないことを握っている口調だった。だから、余計に思ってしまったのかもしれない。
“何かが変わってしまう”─と。
そんな話を交しているうちに穴場に着いた我々怪異は、ようやくだ、とそれを喰らう。
そこは妖気の渦や怪異の残骸があり、とてもではないが不気味とされる場所だった。
『今回は気揃エがよイナ』
『……そうか?』
先程の薫の話ではないが、この頃、ある不気味な噂が流れていた。“〈暗黒〉に異物の臭いが漂う”と。噂の独り歩きで、どうも腑には落ちていないが、薫はおそらく、それを警戒している。
それに、我も何も感じないわけではない。
『……先に戻る』
『ソウか。……気をつケろ、ヤハリ何かが迫っテいる』
あったはずの食欲は、枯渇してしまっていた。
......
『予想もしなかった事態が起こったのは、そのすぐ後だ』
俺の眉間には力が入っていて、穏慈が俺の様子を窺って覗き混んだタイミングで緩んだ。額の違和感は、物々しさを語っている。
「……辛かったら、いいよ。俺にうつるから」
『何を言うかと思えば』
「何か……伝わって来てて……」
怪異すら気味悪がっていることを、人間の俺が何も感じないわけがない。寧ろ、重すぎる。話だけで伝わってくるものは、確かな淀みを表している。
『……折角ここまで話したのだ、最後まで言わせろ。暇になるのは好かん』
「……そう、だね。……穏慈のことだもんな、聞くよ」
......
突然、〈暗黒〉が悲鳴を上げ始めた。さすがに何事かと驚いていると、そのうちその音は鎮まった。同時に、目の前には巨大なクリスタルの形をしたものが現れていた。これに警戒を向けていると、掠れた薄い声がした。
『オオ……カイイ……オウ……』
その声を不気味だと思うだけで、何故我が名を知っているのか、この時は考えもしなかった。
『オウ……ワタシノシハイノコ……サガシタ……サガシタ……』
『どういう意味だ』
『サガシタ……ワタシノ……!』
この異物が言うに、我はこの異物に握られているらしい。しかし、生憎とこんな異物は知り合いでも何でもない。
『確かに我は旺だが、貴様など知らんぞ』
その言葉に応えるように、気に触ったのか衝撃波のような圧力をかけてきた。『黙れ』と、そう言われた気もした。
『オウ……ワタシノ……』
『訳の分からないことを……』
意識が異物に向く一方、後方で何かが潰れる音がした。振り返ると、そこにあったのは潰れて中身が散らばる“怪異だったもの”。ただ事ではないことが窺えた。
『……何……っ』
そして再び。同じような生々しい音と共に、残骸が液体とともに落ちる。
『マテ……!』
ここを離れるべきだと察し、本能のままに走った。制止を促す相手は動かない。追う足は持たないことを好機とし、我は振り返ることをやめた。
『吟、これは何だ!?』
吟を見つけるやいなや、すぐに状況を尋ねる。吟も異変には気付いていたようで、我がこの場に来たことに安堵していた。
『旺……! ココ……ガ、侵サレテイル……! オマエヲ、トリコムツモリダ!』
奴が何者かはこの際どうでもいい。しかし、異物の言葉といい、吟の言葉といい、何もしないわけにはいかないようだ。
『……ちっ、何か方法はないか』
『旺、ナヲカエロ』
『名……?』
吟によれば、名というものについてくる妖というものはどんな生命にもあるという。つまりそれをなくしてしまえば、この危機は切り抜けられると。
『ワタシガ……授ケヨウ……オマエノ代ワリノ名ヲ。旺、名ガ意味スル、広大ナ輝キヲ継グヨウ……。ココガ、オマエ二用意シテクレタ……名ダ』
『……ふん。気に入った』
怪異は皆、気紛れだ。その気紛れに、任せてみよう。我が紡ぐ名は──穏慈だ。
『ドコヘイッタオウ……ニガサナイ……シンデイク……シンデイク……アァ、オウ……』
長くは〈暗黒〉に留まれないのか、異物は焦りだす。近くに来ている我にすら、気づいていないようだ。見る限り、雑に怪異を殺し、何とか体を保たせている状態だ。それはクリスタルの姿から雲のような姿に変わり、飛び回っている。
そこに、連続で潰れた怪異が落ちる。平らに近いその怪異は、苦しんだだろう姿で息絶えていた。
『おい』
その異物の前に、意を決してその身をおく。どんな反応がくるかと、僅かに期待したのは事実だ。
『この事態、どう収拾をつけてくれる気だ』
『オウ! ヤット……? ……ナンダ……オナジナノニ……ニオイガチガウ……!』
思った以上の錯乱に、名の大きさを知らしめられる。混乱しているそいつを放り、優位に立った我は続ける。
『何を撒き散らしたかは知らんが、これ以上見過ごすわけにはいかん』
『オウハドコダ! オウ……!! ガァァァァアアアアアア!』
空間が崩れていくように、怪異が上方から数体落ちてくる。潰れはしているが、血が飛び散る程度だ。血の色は様々で混ざり合い、異様な光景を見せていた。
『去れ! 〈暗黒〉を汚すな!』
『ギィィィアアアアア!!!』
そこに、一体の怪異が姿を見せた。まるで分かっていたかのように佇むのは、我に警戒を促した薫だった。薫が言っていたことは、これそのもののことだったのかもしれない。
『貴様、よくもコノ様なことをしてくレタな。お陰でほとンどの怪異ガ引っ込ンデおルわ』
目が螺旋を描き、勢いづいて回っている。それを見ているこちらも、目が回りそうだ。
『消えろ!』
浮きながら目を回している異物──化け物と言った方が適正だろうか。それに噛み付けば、霧のように散らばりながら、それはあっけなく溶けていく。
『グウゥゥ……!!』
口の中で、生温かいものが散る。血という名の、どろりとした液。それは〈暗黒〉からいなくなり、同時に事態は治まった。
......
「そっか、それで……」
そのものを見たこともないが、穏慈の記憶が鮮明に入り込んでくる。どういうわけか腕の震えが止まらず、俺自身どうすればいいものか分からない。
『……あのクリスタルは、何だったのか未だに分からない。あの時だけで、怪異は何十体も死んだ。我がその名を嫌うのは、その所為だ』
そこまで話し終えると、穏慈は俺を気遣い、肩を揺すった。
「大丈夫……って、言いたいけど、ちょっと重い……」
『……人間にしては、感受性が高すぎるな。……いや、それが器量というものか』
「そうかな。……いや、穏慈は乗り越えたんだよな。やっぱ、強いよお前は」
『当然だ。……お前も、そもそも強いだろう』
死なせるつもりはない、その言葉を付け足して、悪寒を感じる俺の背中を擦ってくれた。不思議と、濁った物が取り除かれた気がした。
「心強いね。……話を戻すけど、俺をラオの所に連れてってくれない? 足こんなだし、歩けねえ」
『構わんが、まだラオガは行かせんだろう?』
「うん。陰の件が片付いてからな」
部屋の主は戻っていないけれど、動ける内にと、部屋を後にする。まだまだ落ち着かない日は続くだろう。せめて歩けるまで回復するまでは、陰の件はお預けだ。
一つ、あるとすれば。
ラオに、〈暗黒者-デッド-〉の事実を伝えること。