第百六十八話 黒ノ陽ヲ待ツ闇
屋敷生全体への説明が行き渡った頃。
屋敷長は、重い腰を上げて本部長を訪ね、教育師室に備わる小部屋で向かい合わせに座っていた。
今回起きた事件を、本部長と共に整理し、重大な事項として記録しておきたいと、直々の提案だった。
「……本部長にも苦労をかけたのう」
「いや、俺の仕事の内だ。……苦労したのは、あいつらだ」
「ザイヴ=ラスター君と、ラオガ=ビス君、か。何度か顔を見せていたが……。本部長、彼らに何があったのか、その詳しいところは、やはり言えないか?」
何度でも言えることだ。言ってしまえば簡単ではあるが、そうもいかない。表裏の均衡を保つ要であり、裏の世界で怪異と共に暗躍する、という、今ある世に対しての非現実感は否めない。
その点から、どんな憶測と偏見が飛び交い、心を折られるかも分からない。
怪異の言い分、裏の世のことは最低限守られなければならないとすることは、間違っていない。裏として禁じられているということも、人の立場から見ても同様に思う。
これは、彼らを守るために、必要な秘密だった。
「……もし、このことがどこからか公になれば、それだけでザイヴ君は他人との接点を切ってしまうだろう。今回のラオガ君のことがあれば、余計にそうするだろう。そして、第三者から伝えるのも、何か違う気がする。だから、知りたいのであれば、ザイヴ君に直接聞いてほしい。その時は、一対一で。他に人がいない状況を作ってやってくれ」
「なるほど。そういうことなら、本部長に見張りでも頼むかのう。事情を知っているのであれば、それくらい守ってやった方が良いだろう」
そこまでの配慮があるのなら、きっと、彼も口を開くだろう。許された範囲で、怪異との約束を破らない範囲で、屋敷の一員として事象に向き合うために。
「……ザイヴ君が戻ってきたら、伝えておく」
「そうしてくれ。……それと、本部長よ。もう一つ話がある。お前の病を、皆知っているのかい?」
二人で話すとなれば、出てくると予想はできていたことだ。
俺のもつ奇病は、治らない。以前少しだけ、ガネには話したものの、ガネがそれを他に言ったとは考えられない。
「いや。……でも、この前のあの場で言ったタイミングは酷かったな。お陰でガネに問い詰められた。……ちゃんと話すつもりだ。全部終わってからな」
「いやあ、時間も経っておったから、気になってしまってな? 話す気があるのなら良いんじゃ。知らんまま、本部長がいなくなると、悲しいものだからのう」
「ああ、気遣ってもらえるだけありがたい。……おかしな病気だよなあ。外傷を治すために命が削られるって。外傷なんか治らなくても、生きてるだけいいのにな」
「……そうして、生をもったというだけに過ぎないのかもしれん。世がそれを受け入れ、苦を与えた。それが、本部長。お前が足掻いて生きるためにとな」
「はっ、とんだ世話を焼く世界だ」
何が好きで、命を削られなければならないのか。そんなものの答えは出ない。ただ、屋敷長の言葉通り、俺はただ、その病を受け入れ、生を全うすることしかできない。
いや、それでも。俺の苦悩なんか、世を背負う彼らには及ばないだろう。少年の体で、そんな重荷を抱えるには、どれほどの覚悟が必要だっただろうか。
─計り知れないものに、今更興味が湧いた。
......
変わらない闇の中で、導く光が俺たちを呼ぶ。もう、すぐ近くにあることが分かる。分からなかったものが、どんどん増大していって、血を騒がせている。
『……そろそろか』
「そう、みたいだね」
穏慈の足が止まる。俺の視線は、先の方へ向く。チカチカと痛めるほどの光は、薄く伸びていき、溶け込むように消えていった。
その直後。何か、世界が変わったような、足元から体が浮きそうな錯覚を起こす、例えようのない感覚が襲ってきた。
暗がりを進んだ先で目に映るのは、異様な光景。真っ黒な中に、鮮やかな白と青の光線が交じるように伸びている。その周囲には、亀裂のような跡が無数に散らばるように張り巡らされていた。
これが、世界を跨ぐ空間。〈暗黒〉にいるのに、そうではないような不思議な感覚。
「……う、く」
『大丈夫か? 顔色が……いや、顔色ではないな。その眼、気持ち悪いか』
「……頭がおかしくなりそうだ。ふわついて、眩暈でもしてるみたいで……」
俺の、最終目的の場所は、俺をかき乱そうとしてくる。気分が安定しない。均衡を保っているもの、というだけあって、逆にこの場は不安定なのかもしれない。
それを繋ぎとめる二色のそれは、それほど強靭なのだろう。
『……鎌を出せ。ザイヴ』
「え? あ、ああ……」
ふらつく頭を何とか持ち上げ、鎌を持つ手に力を入れる。すると、今まで無反応だった鎌は、すぐに白い光を帯びた。
─これで、繋を断てば終わる。
終わりが来て、俺は解放される。
それなのに、ざわついて落ち着かない。
『ザイヴ』
躊躇う俺を、急かすように呼ぶ穏慈は、鼻先で背を押してくる。
『今更戸惑うな。……断て』
「……何で」
顔を向けて、分かった。
その行動の意図は、その表情に完全に表されている。俺を見る目の、何て寂しそうなことか。
「何で、そんな顔してんの」
『……あ? 何のことだ』
「何で、そんな……」
鼻先で俺を押す穏慈は、そのまま首を垂れて、俺にすり寄ってくる。行動と矛盾した、白を切る穏慈の言葉は、余計に俺を躊躇わせる。
「……俺を見つけたのが、穏慈で良かったよ」
『当然だ』
「最初は、喰うなんて言ってたのに」
『ふん。強い情に揺らいでしまうなど、我としては屈辱なものよ。……それはあの時に、怪異のことを話した時にそれとなく言っただろう』
よく覚えている。怪異の多くは、〈暗黒者-デッド-〉と契約することを望んでいる。
そして、喰うことでその力を得られると考え、襲い掛かってきた怪異もいた。
「それが、こんなにも俺を守ってくれて、俺を救ってくれた」
『……お前は、あの時から変わらぬ。恐怖を見ながらも、何も反れることはない。我を我として受け入れ、怪異を幾度となく救った。我の、いや……怪異の期待以上だ』
「切ったら、もう、会えない?」
分かり切っている答えを求める俺は、酷いだろうか。
そのためにここに来たのに、それを覆せないかと考える俺は、都合が良いだろうか。
『……さっさとやってくれ。我が再び情に侵され、お前を喰ってしまう前に』
穏慈のその言葉は、優しさに他ならないから。日常を得るためでも、こんな結末は、正直耐えられない。
「……馬鹿だなあ。素直に寂しいって、言ってくれないのか」
『言ってたまるものか。我は怪異だ。そもそも人と関わらぬ化け物が、人との別れに寂しさを感じるなどあってはならん。……いや、お前は、そう思っておるのか』
「……はっ、こんな化け物にこれ以上会わなくて済むって、普通は嬉しいものだけどな。お前が世話焼きで、心配性で、優しいから。馬鹿みたいに寂しいって、……俺は、そう思う」
それでも、俺に与えられた役目だから。世が崩れてしまう前に、この不気味な空間で、必要のなくなったものを廃棄する。
そうして、表は表として。裏は裏として、在り続けられるように。
今回のような、互いが互いを壊す、そんな恐れを招かないために。
『……そういうことなら、我のせいにしておけ。お前の無茶にも付き合ってきたのだ。それくらい引き受けよう』
「ほら、そうやって優しいだろ。……ガネさんたちには、何も言わなかったな」
『言っただろう。そもそも人とは関わらぬ存在だ。ならば、別れの時であろうが、何も残さずに消えよう』
そういうものか、と言えば、穏慈はふんと鼻を鳴らす。再度俺を押し、二色の繋の前に立たせた。
別れくらいすればいいのに、と心底思うも、もう、鎌はその繋ぎの目の前に向けられていた。
「……俺は、〈暗黒者-デッド-〉を背負い、ここに立つ。俺に答え、表裏を断つ」
そして、〈暗黒〉を、発つ。