第百六十五話 黒ノ歪眼ヲ呼ブ
ウィンの部屋を出て、まっすぐ向かうのは医療室。集まっていることは考えにくいが、確実に教育師が一人、そこにいることは間違いない。それを踏まえて、ようやく自分の足で歩きだす。
ここで挫けていては始まらない。ここで俺のせいだと嘆いても終わらない。
ただ一つ、やるべきことに向き合うことこそ、俺の覚悟だ。
「ザイヴ……」
俺の訪問に驚いたのか、ゲランさんは扉を開けて立つ俺を見て、しばらく苦い顔をしていた。それが意味していることは、聞くだけ野暮というものだ。
「……もう、決めたから。……大丈夫」
俺の眼は、知っている。俺の存在は、全てを終わらせる力を持っている。それだけで、今の俺には十分だ。
「……なるほどな。ったく、ガキが一丁前に腹くくって、何事もねーように立ちやがって」
「これで、最後なんだ。だから、応えないといけない。世界に。〈暗黒〉に。どれだけ負担があっても、それが俺を試しているっていうなら、乗っかってやる」
「はっ、言うね。てめーだけの覚悟じゃねーだろ。俺たち全員、最後までてめーを支えてやるつもりだ。まずは何をする? 今なら俺からの大サービスだ、何でもすぐに取り掛かってやるよ」
俺たちがやるべきこと。屋敷の機能再建や、屋敷生のバックアップ。細かく言い出せば、復権には不可欠なことは切りもなく出てくるだろう。
しかし、俺の立場で言えば、再建に時間を割くほどの余裕までは、ないの。
「教育師を……ガネさんたちをここに呼んでほしい。話は、それからだ」
「りょーかいりょーかい。そんじゃ、すぐ呼んでやる」
手を伸ばした内通機で、各部屋に連絡を入れて、静かに切る。これを幾度か繰り返し、全ての教育師に伝わった時、ゲランさんは俺に、目の前にある椅子に座るよう促した。
「今更遅いかもしれねーけど、手当てしてやる。出しな」
「……もう痛まないよ」
「バカ、俺にも仕事させろってんだ。治りははえー方がいいだろ」
「じゃあ、……分かった」
すでに閉じかかっている傷から、深めの傷まで、全ての怪我に消毒を塗布していく。その少し冷たい液は、少しだけ沁みた。
教育師が集まる中、ルデや穏慈にも話が伝わったようで、一緒になって医療室に入ってきた。
穏慈は、一度は眼を気にして同行させた俺が、ウィンの部屋からここまで、一人で移ったことを意外に思ったという。
『ふ、本当に、どこからどこまで気にすればよいのか分からんな』
「何だよ」
『いや……その眼を見れば、言わずとも分かる。我らが棲まう世へ、行く覚悟が固まったのだろう』
俺に協力してくれていた、集まった教育師たち。穏慈の言葉で、場が緊張した。
強張る表情から、俺を気にするような表情まで様々で、思わず、立ち上がった。
「きっと、俺がこうなった時から……その最初から決められていたんだ。ラオのことは、本当に辛いし、逃避したい気持ちでいっぱいだ。でも、俺を守ってこうなったのなら、次は、俺が守るために、鎌を手に取る。俺なんかに手を貸したから、凄くかき回したと思うし、負担もあったと思う」
俺以外は、誰も口を開かない。固く口を閉ざしたまま、目だけは、強くこちらを見ている。
そう、これまで、俺たちを思って動いてくれた教育師や友人。対立したことはあっても、互いに助け合おうとした魔族。そして、最初から俺を守り、俺を導くためにいた、怪異。
見れば、こんなにも多くの仲間がいたことが身に染みる。
「ありがとう」
これで縁が切れるわけではないけれど、言うべきだと。心の底から思ったから。
「……ふ、何か、少し気が抜けましたね」
嫌味のように笑むガネさんの表情に、安心感を覚える。それにつられて、周りにいた者も、肩の力を抜いていた。
少しずつ、笑みも、言葉も漏れてくる。
『……ふん、やはり、分からん。しかし、お前の器の大きさは嫌という程見えたな。だからこその〈暗黒者-デッド-〉、というわけだ。……我は、もうしばしの間、お前の傍でお前を守ろう』
「頼んだよ。……じゃあ、行ってくる」
俺の言葉に、教育師たちは首を縦に振る。ルデも、ウィンも、俺の決心を受け止めてくれる。
後は、俺が俺として、帰ってくるだけだ。
「ザイ君の帰りを待っています。ザイ君が裏の仕事をするなら、僕たちはこちらで手を打たなければなりませんね」
「そうだな。……まずは、屋敷生への説明が必要だな。全て、話そう。ああ、安心しろ。ザイヴ君たちの力のことは伏せる。俺が回る。クラスごとに広間に集めろ、今日中に行き渡らせる」
何も知らず、巻き込まれていたことも知らず、屋敷生は普段と変わらずに過ごしている。
応用生にとっては、痛ましい知らせもあるけれど、大きな事件となった今回のことは、忘れてはならない。知らなければならない。
「そういうことですので、オミ、ソム、行きますよ。ゲランはここを頼みます。機能回復の仕事は、後に回して構いません」
「そのつもりだ、そんなくそみてーな仕事より大事だからな。ついでに事のあらまし全部纏めてやってもいいぜ」
「何だと。そうか、そんなに仕事がしたいなら頼もう。持ってくる」
「てめー本部長のくせに生き生きしてんじゃねーぞ!」
ゲランさんの言葉は、颯爽と部屋を出て行ったルノさんに聞こえたかどうかは分からない。
医療室に残ったのは、部屋の主と、俺の友人だった。
「……待ってるね、ザイ」
「貴様が今、手を借りてそう強くいられるのであれば、心配はむしろ邪魔なものよのう。……行くが良い、吾もここで迎えよう」
ウィンとルデも、背中を押してくれる。ゲランさんも、椅子の背もたれに体重をかけ、いつも通りに煙草を口の端で揺らしながら、俺に笑いかけた。
「行ってこい、ザイヴ」
「うん。行ってくる」
穏慈の異様な空気に飲まれながら、〈暗黒〉へと堕ちた。
......
懐かしいとさえ思える圧と、闇と、そこに集うように揃った怪異の顔ぶれは、俺の視界を埋め尽くしていた。
開いた眼が映すのは、いつも以上にはっきりと見える空間と、黒に邪魔されない、存在の明瞭さだった。
『デッド……アア、来タカ……』
『でっど、でっど。くんが、ちょっとだけもどってきたんだよ。でも、きえちゃった……ひいとがんぎのまえで、しんじゃった……』
あの消えそうな状態で、〈暗黒〉に戻って来ていたらしい薫の、最期の様子を耳にする。
胸が熱くなり、ラオと同時に消えてしまった薫に、申し訳なさを感じる。
『……ソノ眼ハ、デッドノ証。ソウカ、友人ハ……スマヌ……デッドヨ……スマヌ』
この眼は、俺が全てを背負ったことの印。同時に、怪異は言わずとも、状況を把握できるということで。事実は怪異にも伝わった。
吟は、余程気にしていたのだろう。頭を垂れて、俺を見なかった。
「……覚悟を決めてきた。俺が持つ、最後の役目を遂げる覚悟。重すぎるよ」
『でっど……?』
『ヴァ、グルルル』
相も変わらず、顔擬の上にいる秀蛾は、事を掴み切れていないようだ。怪異が、俺の境遇を全て理解しているわけではないらしい。
「秀蛾。顔擬。俺は、俺の仕事をしに来た。この仕事が終わったら、……お別れだ」
『おわかれ……? あえなくなるの? でっど、すごくやさしくて、ひい、すきだよ? あいにきてよ』
「……違う。表裏として在る、世界の繋が絶たれるんだ。だから、着いてきてほしい。せめて、最後まで仲間として、一緒に」
時に、別れは良いもので。時に、別れは苦しいもので。
その情は、怪異も同様のようで、秀蛾は俺の提案に、食い気味に乗ってきた。
「吟、繋を切る。力を貸してほしい」
『……アア、ヨカロウ……デッドノ、力ニナレルノナラ、イクラデモ……貸ソウ』
『以前、闇晴ノ神石がある空間には行ったことがある。繋はその近くか』
『ソコニ行クノハ……容易イ……シカシ、ソノ先デハ、デッドト穏慈以外ハ、関与デキヌ……正念場ト……ナル……気ヲ、ツケロ』
恐らく、絶つための難関。俺が、〈暗黒者-デッド-〉の力を最大限に発揮して、立ち向かう壁だろう。
「……分かった。行こう」
─何度でも、何度でも、心を留めよう。
俺が、表裏の世を進めるために。覚悟も、不安も、全て包んで、全て受け入れて。
俺が、別れを恐れないように……今だけは。
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