第百六十四話 黒ノ描ク刻マデ
無為に一日が過ぎ、また一夜を明かした朝。
丸一日一人で考え、何とか動揺だけでも押さえ込むことができていた俺は、改めて鏡に己を映す。
やはり、昨日と変わらない眼だ。
その異変を、食い入るように見る。恐らく、これまでに〈暗黒者-デッド-〉が表に出てきた時も、こうだっただろう。その予想はつくが、今、俺が俺としている中でのこの変化は、現実をそのまま俺に突き付けていた。
目元に手を添えて、皮膚を引っ張りながら角度を変えて見る。それでも、やはり幻覚の類ではなかった。
(……穏慈も、ガネさんも、見た……?)
俺を気にして、部屋に来た二人。本来の存在とやらになってから、時間は経過しているはずで、二日前の時点で変化があってもおかしくはない。
ただ、この状態を、事情を知らない屋敷生や教育師が見て、どう思うだろうか。
(……ガネさんの眼なんか、まだ優しい方だ。俺の、は……)
まじまじと見ていると、元々の青い瞳が怪異に似た形をとり、その中心には黄色に近い色で、筋のようなものが入っていることが分かる。
背が凍るような色合いと、不気味さが、一気に襲い掛かってきた。
「っ……!」
軽率に屋敷内をうろつけば、きっと誰かがこの状態を目にする。
すると、どうなることが予想されるだろうか。ガネさんから聞いた、ガネさんの過去を、こんな時に思い出してしまう自分がいる。
俺を魔として見る者が出てくれば、俺は間違いなく、ここにいられなくなるはずだ。
(どう、しよ……)
そこに、扉のノブが動く音が小さく聞こえてくる。俺の部屋に誰かが来たことだけが明確だ。
事情を知っている者とも限らない。誰が来たのか、確かめてみようと恐る恐る顔を出す。そこには、穏慈が立っていた。
『そこにいたか』
「お、穏慈……」
何から話すべきかまとまらず、口のみが音を立てずに開閉を続ける。その様子を、すでに察していたのだろう。切れそうな目は、異常なほどの穏やかさを見せた。
『……本調子、とまではいかんだろうが。気付いて、狼狽えているといったところか』
折れた腕は僅かに動き、回復していることが窺える。というよりも、すでに完治したかのような動きだ。
「もう、いいの、腕」
『痛みこそあるが、まあ大した問題ではなくなった。……あの時は、何もしてやれずにすまなかった。こういう時、人に何を言えば良いのか分からん。その点、ガネはうまくお前を導いたようだな』
「……うん。でも、どうしても、頭に焼き付いて、離れなくて。信じたくないし、頭ん中ぐちゃぐちゃだ……それに」
俺の目の前にまで歩み寄ってきた穏慈の存在で、俺は陰る。
はるかに高い位置にある穏慈を見上げ、その眼を直視すると、どうしようもない感情が込み上げてきて、反射的に目を逸らした。
『その眼の意味は、分かるだろう……ザイヴ』
「分かる……これが、全ての証拠を語ってる……もう、ラオがいないことも。穏慈がもうすぐ、俺の横からいなくなることも。……全部、分かる」
身近な存在がいなくなる。それは、そう頻繁に起こることではないがゆえに、必要以上に鼓動を早める。数日前の出来事さえ、俺にはまだ乗り越えるに値しないのに。
『……気の利いたことは言えんが、怪異と人とは、そう深入りしあえるものでもない。〈暗黒〉でも見たはずだ。お前がより苦しむというなら、ただ通過点にいただけの存在として、見方を変えてくれ。これ以上潰される必要もなかろう。お前が持つのは、ラオガの存在のみで良い』
世話焼きな性格でも、やはり怪異は怪異だ。人とは情のもち方も、捉え方もまた違う。
「……今更できないだろ、そんなこと。こんだけ一緒にいて、俺の性格忘れた?」
『ああ……そうだったな。関わったものを無下にするなど、そう冷たい奴ではない。知っておる。ならば、どうする。全てを抱えるつもりか?』
「ガネさんが言ってた。“一人で抱える必要はない、教育師を使え”って。そうしたら、こんなに落ち着かせてくれるものなんだって、少し分かった気がする。独りになるわけじゃない、だから、全部見る」
そう言った俺に、穏慈は真剣な表情を向ける。
思うところは多々ある。それに潰されそうであることも事実だ。悼んでも悼みきれない、それはあの時に思ったまま、俺に残っている。しかし、それでは前進することはできない。
『……ふ、この短期間で、そう意識を持つことができているとは。やはり、お前は強いな』
「強くねーよ。……八つ当たり、なんかしちゃったし。ごめん」
『気にしてはおらん。ああでもないと、逆にお前の神経を疑ったところだ。それほどのことがお前に起きた、それを受けとめただけのこと。ああ、受け売りにはなるが、そうして我を使っても良いのだぞ』
得意げに言う穏慈に、思わず頬の筋肉が緩む。自分でも、力が抜けたことがはっきりと分かった。
「……何それ。怪異のくせに、やっぱり世話焼きだな」
『そうか? ……怪異のくせにと言ったが、あの人型魔界妖物も屋敷に留まっている。世話焼きな人外は我だけではないぞ?』
「ルデが……そっか。ほんと、魔物っていうのも分かんないな」
落ち着いていく自分がいる。進もうと思わせてくれる仲間がいる。それは、俺に確かな力を与えてくれていた。
「ねえ、穏慈。ウィンのところに行こうと思う。でも、こんな眼になってるんじゃ、何も知らない奴がきっと混乱する。だから、一緒に来て」
『なるほど、ガードマンというわけか。いいだろう、誰の目にも触れずに導いてやろう』
あれから、顔すら合わせていないウィンのことが気になる。
ガネさんが俺を気遣ったところを見ると、おそらく、教育師が関わっているとは思われるが、俺にしか、できないこともあるはずだ。
目的の部屋を叩いて、部屋の主に来訪を伝える。ここまで、穏慈の宣言通り、誰にも会わずに来ることができた。
いや、それは運が良かっただけかもしれない。人が出回る気配が、まるでなかった。
「ウィン、……いる?」
応答のない部屋に、声をかける。扉は閉じたままで、ウィンの様子を窺えないかと思ったが、その声に応じて、クマのできた目元を見せたウィンが、少しだけ扉を開けた。
「……ザイ?」
「……穏慈、ありがと。悪いけど、二人で話すから」
『ああ』
断りを入れると、穏慈はすんなりと場を離れていく。それを見届けた俺は、部屋に入れてもらい、並んでソファに腰を掛けた。
「あの、ザイ、……えっと」
「ごめんな。あの時、ウィンを気遣えなかった。時間は空いたけど、様子を見に来たんだよ」
「! ううん、私、私ね、……う、っ」
潤む目に、俺もつられてしまう。ぐっと込み上げるものを堪え、俯いたウィンの頭を軽く撫でた。それこそ、ラオが俺たちにしてくれていたように、優しく。
「私、何も、できなかった、から……っ、ごめんね、ごめ……っ」
「何でウィンが謝るんだよ。ラオは俺を庇ってこうなった。……俺のせいにしていいのに」
「そんなこと思えない! あれだけ頑張ってたザイたちに比べて、追いつけなくて、何もできなかった自分が、許せなくて……」
「そんなこと思えない、そっくり返すよ。ウィンが何もできなかったなんて思ってない。……その目。ちゃんと、泣けた?」
もう泣くな。本当はそう言って、少しくらい頼れる存在としていられればいいけれど。困ったことに、俺はそこまで器用ではない。
「……うん、いっぱい泣いた。見た通り、腫れるくらい、疲れちゃうくらい、泣いたよ。ソム教育師がね、何度も私を気遣って来てくれたの。……でも、嬉しい。ザイだって、同じくらい苦しいはずなのに、私のところに来てくれた。お陰で、立ち直れそう……。少し、元気になったよ」
「……何か、俺が励まされてる気分だな」
「励ましてるの。だって、ザイが励ましてくれてるから」
鼻にかかる声で、必死で涙を拭きながら、ウィンは笑顔を見せた。多くの感情が入り混じって、ぐしゃりと歪んでいたけれど、何となく、救われたような気がした。
「……ねえ、あの……その眼って」
ウィンは、言いにくそうに、細々と尋ねる。
聞いてはいけないことかもしれないと、ウィンなりに配慮があったのだろう。部屋を訪ねた瞬間から、見て分かっていたはずだ。すぐに触れてこなかったところに、ウィンの優しさを感じる。
「うん……〈暗黒者-デッド-〉が元に戻った印だと思う。多分、もうすぐ全部が終わる。ううん、終わらせる。これ以上、今回みたいな対立が起きないように」
「そ、っか……じゃあ、ザイはまだ頑張らないといけないんだね」
「それが終わったら、日常は戻って来る。怖いことも、そう起きないと思う。青郡にも、解決したよって、報告に行ける。笑って、行けるかな」
「……っ、そう、だね……。きっと、笑って……っ」
全てが終わった時、俺はどう思うのだろうか。
全てを終わらせた後、俺は、どうなるのだろうか。
〈暗黒者-デッド-〉として、人として、ザイヴ=ラスターとして。
「最後の一仕事だ。ウィン、あと一回だけ、待ってて」