第百六十三話 黒ノ魅セル怪眼ト末
「ウィンちゃん……」
泣き晴らした目を、師に向ける少女。それをどうすることもできずに、困惑する師。
二人の間には、大きな壁でも立ったかのような重圧感が漂う。
どう励ませば良いものかと、師も戸惑いながら気に掛ける。言葉にはならない。少女の隣で、その頭を数回、触れる程度に撫でる。
こうした状況に、自身もついていけていないということが、事実、師を苦しめていた。
「ソム教育師……私……二人の力になりたくて……自然魔をたくさん教えてもらってたのに……」
─その自然魔では、彼を救えなかった。消えていくのを、見ることしかできなかった。
続く言葉は容易に想像がつく、と、師は苦い顔をする。
「うん……」
「私、ラオを助けられなかった……! ザイのことも、助けられなかった……! 弱いままだったから、私……!」
「……ううん。……だめ、ウィンちゃんは、自分を責めちゃだめ……っ。あなたは頑張ったの、頑張ったんだよ。援護として、役目は十分果たしてた。助けられなかったのは、私たちの方……本当に、ごめんなさい」
「ひっく、ひ、ううう、あああ……っ」
込み上げてくる涙は、思わず抱きしめて支える師の衣服を濡らす。
それを見た師も、また、肩に入る力を必死に抑えながら、涙をこぼしていた。
△ ▼ △ ▼
「落ち着きましたか?」
のそりと体を起こし、被っていた布団から顔を出すと、腰を下ろした瞬間から分かっていたその人物が、俺に背を向けたままそう言った。
合わせる顔がないのか、はたまた、俺の方がそうなのか。それは、わざわざ口に出すことではない。
「……何で、逃げ場がないって思ったの」
「……八つ当たりというのは、どうしようもなく堪え切れないものが、他人に零れ出てしまうものです。一人では解消できない苛立ちがあるんじゃないかと、そう思ったまでです」
「そ、……っか……。……ごめん、気を遣わせた」
「僕にできることは、本当に小さく、形にすらならないものです。ここからは、ザイ君自身がその足で乗り切らないといけません。時間はかかると思います、難しいことだと思います。でも、それを一人で抱える必要はありません。同じ悲しさは、あの場の全員が感じています。だから、……僕を、僕たち教育師を、使ってください」
合わなかった目が、合わさった。その目からは、今までに見たことのないほどの悲しさが伝わってきた。
また泣きそうになるのを必死で堪えて、思い切り目を擦った。
「うん、……ごめん。ありがと……」
立ち直るにはまだ足りないけれど。こうして、底から支えようとしてくれる人がいる。穏慈も、同志を失ったにもかかわらず、俺を気にしてくれていた。
いつまでも、閉じこもっておくわけにはいかない。
「それで、どうです?」
「うん……少し、落ち着いた。もう、目を瞑るのはやめる。ラオは、俺を守ってくれた。ラオの分を、俺が返さないと……」
俺を庇って死んだ友人のことを、悼んでも足りないのはもちろんだ。ずっと一緒にいて、これからだってウィンも入れた三人でいられるものだと思っていたものが、突然崩れ去ったのだから。
それだけではない。俺たちと違ったのは、「教育師になれる」とガネさんから言われていたこと。まんざらでもなさそうだったラオは、きっと、生きていれば目指したはずだ。
それが叶わなかったことは、無念でしかない。
「あの時……ラオに教育師になれるって言ったのは、何で? ラオがガネさんから一本でも取れたから? それとも、もっと別の理由?」
「え? どうしたんですか、突然」
俺の発言に驚いたガネさんは、少しだけ目を丸くした。これだけ落ち込んでいる時に、その質問かと思っただろう。
ただ、あの時のラオの想いが、力が、ふと心の中に芽を出した気がした。
黙って答えを待っていると、ガネさんは一つだけ息を吐いて、続けた。
「それは、きっかけに過ぎません。成績も優秀ですし、優しさも、導く力もある。多面的に見て、その器があると思ったから言いましたけど……もしかして」
「ラオは、そうなれるのに、俺のせいでなれなかった。……ラオに及ぶとは思わないけど、俺、そうでもしないと、ラオを背負いきれないと思う」
「……なるほど。ザイ君の中で、彼を救おうとしてるんですね」
ずっと、俺たちのことを守ってくれていた。自分の身よりも、俺とウィンのために動いていた。
そんなラオが、死に際にまで“救われていた”と、掠れる声で言った。
「……ただのうのうと過ごすだけじゃ、報われないだろ」
ラオの姿を思い出せば、それに引かれるように胸が熱くなる。渇きに変わっていた目元で、また湧き出る潤いが視界を歪ませる。
「……うん。そうですね。彼と親しいザイ君がそう思ったのなら。その心は間違ってないと思います。ザイ君のその器量、僕は認めてますよ」
「……見、んなよ、見ねーって、言っただろ」
ふいと、ガネさんは顔を逸らして頬杖をつく。組んだ足についた肘は、まっすぐにガネさんの頭を支えている。
それなのに、その腕は僅かに震えていた。
その理由を聞くほど、野暮なことはない。
隣で肩を震わせる師に、俺はまた、感極まってしまう。
「あー……やっぱり、まだ、だめだな……っ」
「……こういう時は、素直に泣くべきですよ。“守れなかった”こと後悔しているのは、僕たち教育師も同じなんですから」
そう、声を震わせて、ガネさんはそっぽを向いたまま、また静かに俺が落ち着くまで待っていた。
そうして、各々が悲しみに暮れる中。
その一日はまた、過ぎていった。俺たちの中の時間は、進むことも戻ることもなく。
正確に進んだのは、理通りに刻まれる、大きな星のみだった。
翌朝。意に反して残酷に進んでいく時に、腹立たしささえ感じながら、俺は重たい瞼を擦って体を起こした。
丸二日間眠っていなかった分、体に疲労は残ったままで、自分でも腫れぼったく感じる瞼と、引きつった顔の皮膚をどうにかしようと、顔を洗いに向かう。
このままではいけない。落ち込んでいて、ラオが戻って来るわけではない。理解したくなくても、これは現実で、決して覆らない過去。
悔しくて、辛いけれど。
「……あ、……れ?」
鏡に向けた目が、俺をそのまま映す。その、眼に違和感がある。視界に何の変わりもないけれど、きっと、俺の中の存在がそうしているのだろう。
眼の形が、怪異と同類のものをとっていた。
△ ▼ △ ▼
「……集まってもらってすみません。ちょっと、言っておかなければならないことが」
早朝に自室で目を覚ました僕は、特に関係のある教育師と人型魔界妖物、穏慈くんを集めた。
事が終結を迎え、落ち着いた矢先の呼びかけに、彼らは何事かと真剣な顔で揃ってくれた。
「本題の前に……ウィンさんは?」
「うん、多分、もうちょっと。私も泣いちゃった。でも、閉ざしきってはない。ちゃんと、立ち直れると思う」
ウィンさんも、恐らくはザイ君と同じ。ソムという寄り添ってくれる者の支援で、何とか持ちこたえようとしてくれている。心に大きな傷ができてしまっただろう。
屋敷生の身である以上、僕たちは師として、気遣わなければならない。
「そうですか。それなら、良かった。……話に入ります」
「また深刻そうじゃな。貴様はザイヴについておったらしい。であれば、奴に何かあったということか?」
「全く、歪な輩に先を越されるのは不本意ですが、あなたの言う通りですよ」
「誰か歪じゃ貴様」
「穏慈くん、ザイ君の眼を見ておいてほしいと、そう僕に言いましたね」
『ああ、確かに言った。それで』
昨日、僕が彼と目を合わせ、動揺してしまった光景。それは、まるで僕を映しているかのようなそれだった。
「……彼の眼は、僕同様。少し禍々しさを加えて、確かに、異質になっていました。〈暗黒者-デッド-〉の存在が関係している、そういうことですよね」
『やはりか……眼に現れたということは、すぐに能力も完全になるだろう。……時は、来る』
「一つ、いいか。ガネ同様の眼と言っただろう。ガネのことはどう説明できる? 偶然生まれもった眼、というには些か落ち着く説明がないように思うが」
『我はそこまで分からぬ。ガネの眼は確かに、〈暗黒〉に関わる重大なそれだ。しかし、実際〈暗黒〉に行けるわけでもないところを見れば、人として支援できるようにと、もしかしたら、〈暗黒者-デッド-〉が図ったことかもしれぬ。それは、奴に直接聞くのが良いだろう』
ザイ君の眼が変わったこと。それだけであれば、僕もここまで乱されることはなかったが、僕と同様の形をとっているそれを見れば、思わず身の毛が立つものだ。
あんな異質な目を、あんな少年が見せていたら。
それは僕の過去を、蘇らせる。
「……これ以上、大事にならなければいいんですけれど。もし、彼が僕と同じになったら……」
あの目に、奇異の目を向けられたら。今の彼がどう壊れるか、分かったものではない。慎重に対処するべきだろう。
「そうね、ただでさえ弱っているところに……とりあえず、その大きな役割が果たされるまで、彼は表に出ない方が良いのかもね。もしかしたら、役目が終わって〈暗黒〉が離れたら、戻るかもしれないし」
「期待はしないでおくのが良いかもしれないな。だがとにかく、状況は分かった。今は屋敷中が落ち着かない、少し早いが、長期休暇を取り入れても良いか。……一応、屋敷長には伝えておくか」
「……そうですね。すみません、彼らのために、ここまで協力してくれたのに、こんな重荷を共有させてしまって。もう少しだけ、付き合ってください」
「ふん、無論じゃ。まあ、吾はさして協力もしておらんが……あいつに免じて、というところじゃな」
その発言に、僕たちは耳を傾けた。
彼に免じて、というだけあって、本当に、ザイ君は人の温かさに恵まれている。それはきっと、彼がもつ根底の賜物だろう。
「魔族である吾がこう発言しておるのじゃ、人の貴様らも、否定など考えてもおるまい。その表情を見れば分かる、貴様らの、一人の少年への想いというのは。全く、そのような器量をどこで持ったのか……」
その言葉は、少しだけ場に穏やかさをもたらした。
ここにいる全員が共有し得ている事実と、起こる未来で、彼らが報われるように。無為にならないように。
それは傲慢とも思えるだろうが、膨れ上がった責任を分けることができるのならば。
魔物だろうと、人だろうと。彼が受け入れ動かした全てで、僕たちが彼を最後まで守っていく。
「では、そういうことで。その時に向けて、僕たちは僕たちの力をもって、土台を整えましょう」