第百六十二話 黒ノ虚ニ兆シ有ル者
暗い部屋で落ちる夢は、俺を先へと誘う。前の見えなくなってしまった先へ。
呆然と、整理のつかない頭を、現実へと引き戻そうとする。浮かぶ友人の姿は、すでに幻想でしかないのに。
「……っ、くそ、俺が……!」
俺が、一人でどうにもできなかったから。それが、俺に残った感情。
しつこく付きまとう雪洋に、太刀打ちできなかった俺のせいだと。力の及ばなかった己を憎らしく思う。
憤りと、哀れさと、後悔と。許容を超えてしまう感情は、熱くなる目元で何度も引っ込めた。
『……ザイヴ』
穏慈の声は、部屋の扉が開く音と、ほぼ同時に聞こえてきた。
薫のこともある穏慈も、何も感じていないわけではないだろう。
「……腕」
『すまん。少しの間、使い物にはならん。三日ほどあれば、元には戻ろう。……明かりくらい、つけたらどうだ』
これほど堕ちた気持ちで、部屋だけ視界を良くしたって、俺の気持ちは晴れない。
むしろ、同様の暗さがある方が落ち着くような気がして、穏慈のその言葉には、首を横に振って応じた。
『その様子からすると、寝ていないのか。疲れた顔のまま……ザイヴ、眼を向けろ』
彼の目に、自分を映してしまったら、どうなるか分からない。
いや、それ以前に、そんな気力はないと断言できる。
その言葉を無視した俺は、顔を隠すように立てた膝の間に落とし、腕で頭ごと覆った。
『……まだ、一人が良いか』
「……整理できない」
『そうか……すまない、何もできぬ』
「お前のせいじゃ……」
もやりと、悪意が込み上げてくる、と言うべきか。
俺は俺を責めてばかりで、逃げ場を全て潰そうとしている。
その中で、穏慈という怪異が、もしも能力を発揮して戦うことができていたら。もしも、腕さえ折られなければ。
たらればを思い始めると、責任を転嫁してしまえば楽になるかもしれないと、徐に顔を上げた。
『……何だ』
「お前が……もし……俺たちを絶対的に守ったら……こうはならなかった……?」
叫んだつもりもない、ただ、自分でも分かる低い声で、穏慈に言い放った。その一言は、場を張りつかせるのにもってこいのそれだった。
『……そうかもしれんな』
そう答えた穏慈は、ふいと顔を逸らし、静かに扉を閉めて出て行った。
(……ただの八つ当たりだ……穏慈だって薫が弱ったのを、あの目で見ていた。俺と同じ立場なのに、俺は、俺を擁護して……)
焼き付く光景は、夜が明けても離れない。ただ、睡魔が襲いながらも、脳が覚醒していて全く眠れない。脳が麻痺している、そんな感覚だった。
△ ▼ △ ▼
「穏慈君、ザイ君は」
痛むだろう腕を力なく下げて歩いている怪異を見かけ、すぐに声をかけた。
彼の部屋の方向から歩いてきた。恐らく、様子を見てきたということだろうと推測したわけだが、その通りだったらしく、ため息を吐いた。
『今は、我では無理だろうな。八つ当たりをするくらいだ、気持ちが全く安定しない。……まあ、致し方ないがな。我もらしくなく、動揺して冷たくあしらってしまった。……行くのか』
「……彼が一人で感情を出すというのなら、それでいいでしょう。でも、八つ当たりが見られた……きっと、今の彼に、感情の逃げ場がないんですよ。一人でそこまでは辿り着けたものの、昨日穏慈君が言ったその先に行くには、手が必要だと思います」
自分で全てを潰して、潰して、見失って。そんな時に都合の良い者が現れれば、そうしてしまうのも人の情だ。
防衛本能が働く人間は、逃避、転嫁、投射、あらゆる方法で、無意識にでも自己を守ろうとするものだ。
もちろん、それは彼に限ったことではない。
『そうだろうな。任せよう、怪異よりも、お前の言葉の方が届くだろう。……もう一つ、確認しておいてほしいことがある。……あいつの眼、はっきりとは見えんかったが……元の存在を容れたことで、その形をとっているかもしれん』
「……分かりました。できれば、確認しておきます」
彼に秘められた、いや、堂々と存在している〈暗黒者-デッド-〉。それは、間違いなく彼を蝕んでいく。
彼らの言う、ザイ君の最後の役目のその時まで。
目的の部屋の前まで出向いた僕は、少々躊躇いを感じながら扉を数回叩いた。中から、人の気配は感じられない。
しかし、扉は鍵が掛けられてはいない。押すと、通路とは反した色が視界に入った。
暗順応に僅かに時間をとられたが、静かに扉を閉じて、備え付けのベッドの上で岩のように膨れている布団の横に腰を下ろす。
何と声をかければ良いものか。この状態のザイ君に何を言ったところで無駄だろうが、壊れる前に、取り返しがつかなくなる前に、留めなければならないと。
緊張しながら言葉を選んでいた。
「……出てって。俺に構ってる暇ないんじゃないの」
僕だと分かって言っているのだろうか。
その淡々とした発言は、僕の心を少しだけ濁した。
「……出てけよ」
動かない僕に苛立ってきているのか、口調が変わっていく。
余裕のない今、思い通りにならない事態に、我慢もしきれないだろう。
「出てけって言ってんだよ!!」
「……ザイ君。少し、話をさせてください。僕も、逃げ場がないんです。……一番大切な約束を、守れなかったから」
籠った声の怒声は、すぐに止まった。
「だから……怒ることができるなら、泣いて、全部外に出して良いんですよ。その気が、その熱で済むことはないかもしれないけれど」
丸く型どられた布団に目を向けないまま、言葉だけを独り言のように呟く。
どう伝わるかも分からない、ザイ君がどう捉えるかも分からない。
ただ、抱え込むには重すぎるからと、その思いだけで。
「穏慈君は、ザイ君のことを本当によく見て、知っていますね。君は、自分から弱みを見せることはほとんどありませんでした。……だったら、出てこなくて構いません。見られたくないなら、絶対に見ません。だから、今思うことを、僕に投げつけるつもりで、言っていいですよ。全部、受け止めます」
纏まらない言葉でもいい。
ただ、彼が前に続いていけるように、僕ができることは、彼の心を受け止めること。
──例え大粒の想いをこぼしても、願いが叶うことはないけれど。
抱えた苦しみを分けることは、できるはずだから。
どうか、一人で蓋をしないで。どうか、懐いに閉ざされないで。
籠る嗚咽交じりの声は、しばらく止まらなかった。
俺が助けられなかった。
俺のせいで死んでしまった。
こんな強い力なんて、いらなかった。
あいつの性格は分かってたはずなのに。
そんな言葉が次々と並べられ、心苦しくなる僕もまた、唇を噛みしめて、ただザイ君が落ち着くのを待つばかりだった。
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教育師室にて。ガネを除く教育師が顔を揃え、事の顛末を耳に入れた。本部長の口からは、厳しい現実がほぼ全て伝えられた。裏の世界のことは、もちろん、省かれている。
屋敷生が戦に加担し、命を落としたという衝撃は、教育師の心を抉る。ただ、そんな大きな敵を相手に特殊な能力を得ているとはいえ、屋敷生が参戦していたことは、屋敷としての機能に大きく関わることになった。
「今回、俺は本部から、ホゼ=ジートの行動を確認次第、資格の剥奪を目的に屋敷に来ていた。しかし、途中からそれが覆ったことで、この事件に大きく関与してきた。俺の力不足も、もちろんだ。屋敷生の……特に、応用クラスの混乱も予想されるだろう。今回の全てを謀った前屋敷管理官のことは、機密として本部に報告する。それから、利用されたに過ぎないホゼは紛れもない被害者。よって、ホゼの資格剥奪も白紙に戻す。警師のもとにいるゼス=ミュシーにも、再度事情の聴取を行い、雪洋の名を持って帰ってきた前管理官の大罪の完全確立と崩落をもって、事態を終結させようと思っている。屋敷長には報告済みだ。以降、発言のある者は俺に直接言いに来い。以上だ」
長く気の滅入る話で、その場で発言する教育師はいない。解散させた後、本部長は一人の女性教育師に声をかける。
「ウィンの状態は確認したか」と。
それに対し、首を横に振って返すその目からは、涙が伝い始めた。
「……可哀相なんて、そんな感情は出てこない。ウィンちゃんの息苦しさが、直に伝わってくるから、本当に辛い……力になりたいのに、私の力は及ばないの……ルノ、どうしたらいいかな……う、うう……」
本部長も顔を引きつらせて、彼女の頭に手を乗せる。
静かに泣く姿を見た、関係してきた教育師たちも、しばらくその場から動けなかった。
まだ、全ては終わっていない。
残された大役が完遂された時こそ、一連の終結と言える。
─主よ。それを支えた者たちよ。
俺は、怪異は、世界は。
全て見届け、全て記憶し、全てを結んで消え去ろう。
願わくば、死による確立を起こさぬように。