第百六十一話 黒ノ悼ミニ在ラヌ希
一頻り泣いた少年と、少女と、それが崩れ切ってしまわないように受け止めていた教育師たち。
そして、呼べど待てど、決して現れることのない者たちへの眼。
友人を失った少年たちだけではない。
怪異として、同じ道を辿った者が、すでに消え去ったこと。それはここに立つ怪異にも、察しがついていた。
何も残らない。そういう意味で、腕を折った怪異は嘆く。
長らく身を騙りながら在った、多様に彼らを追い込むよう謀ったともいえる巨大な怪異も、もういない。
それが残したものは、虚無と、解き放たれた大きな力。
後に残る、全てを断つ役目だけが、埋もれるように存在している。
そして、それもまた、世界の存続のため、別れを意味するものである。
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「……出ましょう。ここは、毒気が多すぎます」
俺を何とか立たせたルデの横で、ガネさんは言う。
その表情は、見えなかった。
それでも、その大きな背中、肩から重しを下ろすかのように落ちる腕は、俺と同じような傷みを語っている。
「……ザイ、ね、私……」
目を向けると、虚ろな目をしたウィンが、ソムさんに支えられながら立っていた。
俺を、俺の目を、見ることはない。
何かに頼ろうとしても、それがまた同じ苦を持っていて、折れかかっている。それを分かっているのだろう。
俺に身を寄せることは、無かった。
ルノさんも、ゲランさんも、オミも、ソムさんも。
俺たちを守り、助力していた教育師たちは、皆、口を閉ざしたままだった。
どう声をかけるべきか。どう接すれば、救われるのか。
俺が師の立場だったとしても、同様に、無言に徹するだろう。
今の俺が、一番知りたい答えだ。
「ザイヴ」
それを破るルデは、俺を支えながら、前を見た。
「……立ち直れ、などと酷なことは、今は言わん。事実、貴様はそれほどの負をも背負ってしまったのじゃ。現も虚も、貴様は全て見てしもうた。そして、未だ見ねばならんものもある。しかし間違っても、そんなもの、すぐに叶えようなど思わぬことじゃ。また、貴様を追い詰めることとなろう。貴様を、立たせることができなくなるやもしれん。……そうじゃろう」
俺の目を見ないのは。俺の心を見せてくれるのは。
「吾自身が、過去に見た己。今の貴様は、貴様たちは、違えようもないそれじゃ。吾には何もできぬ。……すまん、ザイヴ」
励ます言葉はないけれど、気持ちを受け止める意思だけは、痛いほどに伝わってくる。
前を向け、折れるな、掛ける言葉は多々あっても、そんな無理強いのものではない。
─また、俺の頬は、濡れた。
「……しばらく、一人にして。ごめん、ちょっと、……無理。……ウィン、ごめんな。今力になれれば、ウィンも辛くないだろうけど……ごめん」
地下を出て、まず出た言葉はそれだった。
こんな時に、泣いている友人の手をとって、横にいることができれば、開けるものがあるかもしれない。
しかし生憎、そんな精神状態を保てるほど強くはない。
「……いいの。私も、一人になりたい、から……。すみません、ソム教育師。部屋に、戻ります……」
俺よりも先に、ウィンの足は進んでいく。とぼとぼと、力なく、自室の方へと向かう姿は小さくなっていった。
見届けるつもりはなかったが、俺の中で、時間という概念は止まっている。
それが長いものか、短いものかなど、どうでも良い。
「ザイヴ君、この状況に不慣れですまない。どう励ませば良いか分からない、本部長として失格だ」
「……俺のせいなんだよ。俺が自分で、あそこから脱せなかった。それだけのこと」
俺に関わったせいで、俺の周囲がそうした悲劇に立ち会ってしまった。俺が非力だったせいで、大人たちに気を遣わせてしまった。
何て、身勝手なことだろうか。振り回してばかりで、情けない自分に腹が立つ。
「……ありがとう、今まで、助けてくれて」
その言葉を残して、俺は、自室へ走った。
穏慈ですら、その場に残して。
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「教育師として、屋敷生を守れなかった事実。重く、受け止めなければなりません。……過程がどうでも、結果彼らは、あの年で苦痛を見て、感じてしまった。あんな苦に染まった顔、僕だって、見たくなかった」
あれから、残った面々は、いつも通り医療室に集まって、この度起きた事案をまとめていた。
怪異、雪洋が企んだ、表裏の一体化は、崩れたこと。
怪異の力で侵されるかもしれない状態から脱し、世は平衡を保っていること。
かつ、全てを終わらせる力をもつ少年は、守られたこと。
しかし、その一方で、庇うことのできなかった、命があったこと。
「ああ、俺たちの力不足でもある。怪異相手に、屋敷生に頼るしかなかったというのも、そもそも屋敷の意義としては変な話だしな……ソム、こんな中にいさせて悪いな」
「ううん……何か、私は逆に、今一人になるのは、凄く辛くて。……そうだよ、ザイヴ君もウィンちゃんも、同じはずだよ。私たちはこうして一緒にいて、共有して、分け合っているのに。彼らこそ、その力が……」
『……人は情が強い。それは知っているし、見たことだ。しかし、一人でいることで出すことができる情もあろう。今は、そうしてやってくれ。ウィンのことはよく分からんが、ザイヴには、その時間が必要だろう。見てきた限り、もともと、ほとんど弱みを見せようとせん奴だ。不安を出すことはあっても、己が抱えたものは、抱えようとするばかりだった』
ザイ君の状態は、確かにかなり落ちている。以前話をしていた時とは、比べることができないほどに。
しかし、穏慈くんの言う通りだ。〈暗黒〉に閉じ込められた後、戻ってきたかと思えば、心ここに在らず。僕がその姿を尋ねなければ、言わなかったかもしれない。
だとすれば、整理する時間は、彼には必要だろう。
「確かに、そうですね。彼は、少しだけそっとしてあげましょう。ソム、ウィンさんの方を気にかけておいてください。僕たちよりも、あなたの方が分かっているでしょうから」
「……分かった」
「……はあ、ったく、こんな境遇に立ち会っちまうなんてな。……状況が異例なのに、そんなケア知らねえっての……」
そうだ。そもそも、〈暗黒者-デッド-〉が属する屋敷というだけでも異例。
なおかつそういった戦場に屋敷生を出していた、ということにおけるリスクや支援など、教育師的には思わぬ事態だ。
「いいです、その面では僕が動きます。ただ、屋敷の機能的バックアップは、ルノを筆頭にゲランとオミで動いてもらえれば、助かります。もちろん僕も動きますが……さすがに、少し堪えてしまって……」
「というよりも、お前の怪我もさすがに酷い。今までにない出血量だ。よく平気で話せてるな……ゲラン、処置を頼む」
「全くだ……ぼったぼたと垂れやがって。痛くねぇのかよ。……ま、てめー考えてることも分かる。どうにかしようとしてんだろ。自分が守ってやれなかった、……顔、いつになく濁ってるぜ」
いつから、顔に出るようになってしまったのだろうか。
昔の僕なら、ここまで表情で悟られるようなことはなかったのに。
それが、本当にいつの頃からか、並行して動じるようになって。気に喰わないこの医療担当に、丸ごと見られているなんて。
「でもな、それはここにいる全員が思ってることだ。誰かの責任じゃねえ。いろいろと、似てるところがあんだよな。……てめーと、あのガキは。背負いこもうとするところなんかそっくりだ。だから、俺はその行動を止めねーし、てめえの言うバックアップも、代わってやってやる。俺の専門外だ、高くつくぜ」
処置の手を滞らせることなく、ゲランはいつもより饒舌に話す。
僕とザイ君の似ているところ。それは、実を言えば何となくでも自覚があった。
だから、見過ごせないし、力になれればと、必死だったのに。
─ラオ君と、深刻に話をした手前。自分が許せない。
消毒の痛みも、もはや僕には感じられない。
「……吾も、時折顔を出しに来るとしよう。あの友人の代わりにはなれんが……友を失う痛みはよく分かる。境遇は違えど、手助けに来ておいての始末にしては、あまりにも不格好じゃ。しばらくは留まらせてもらおう。一先ず、ザイヴが落ち着くまでじゃがな」
「うん、そうしてあげて。ザイヴ君も、その方が良いと思うから。……穏慈くんは、どうするの?」
『無論、あいつの横にいる。どう騒ぐかは分からんが……主を守る身として、全うする。“最後まで”は、な』
彼に待つ離別は、これで終わるわけではない。
表裏を断ち、アーバンアングランドが〈暗黒〉の絶対的支えなくして存するために必要な、別れ。それは、一気に押し寄せるだろう。
「それなら、今日はこのまま一人にしてあげましょう。明日、改めて訪ねます。何ができるかは、分かりませんけどね」
そう、人の死の上に立ってしまった彼に、僕たちが何を与えられるか。それは分からないけれど。
せめて、これが彼を壊すきっかけにならないように。
いつか、どれだけ先になっても、立ち直っていけるように。
そう導いていくのが、きっと、これからの僕たち教育師の役目になる。
──また明日、彼の疲れ切った眼に、僕は何を思うだろうか。
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時が止まる。風が止まる。音が止まる。
色々なものが止まった彼を、見ることは叶わない。
ああ、今は、弾けてしまったあの青が欲しい。俺に僅かに見えた、最後の光だった。
それを失って、光に届かなくなって、真っ黒く歪んでいきそうだ。
例えるなら、あの、禍々しい妖気の渦のように。
〈暗黒〉に満ちる、狂気のように。