第百六十話 黒ノ積マレル能ニ、拓ク
以前暴走してしまった時に比べれば、どうということはない。ただ荒れるだけの、情に感化されたものではない。
全てに繋がる一つの巨大な力が、集まるように底から這い上がってきている感覚だ。
枯れない涙をよそに、〈暗黒者-デッド-〉は、当然のように俺を押し込めて、出てきた。
─抗いきれなかった、か。それもまた、主のもつ命運だったかもしれないな。
頭に血が上る。
膨大な力だと言いながら、俺に潜むだけの〈暗黒者-デッド-〉。悼みきれないままに裏に押し込まれた俺に、そんな言い草を見せた。
この状況を避けるべく、必死でしがみついていたのに、それを無にされた気分だ。
「ふざ……けんな……! お前が、お前のせいで、ラオは……!」
死ぬでもなく、倒れるでもなく───消えてしまったのだ。
『何の用だ』
「酷いね、せっかく元の存在に戻ったっていうのに。……ああ、そうか。つまり主は、友人を失ってしまったと……。抗いきれなかった、か。それもまた、主のもつ命運だったかもしれ……怒るなよ。君の気持ちも、分からないわけじゃない」
恐らく、押し込めたザイヴ本人に語り掛けているのだろう。
このような状況で、よく悪びれる様子もなく言えたものだと、我の腹の虫が騒ぎ出す。
『何の用だ、と言っておる。お前の存在を守ってきたとはいえ、我の主はザイヴだ。その本人の、酷く嘆く様を見た矢先、お前のその言葉は癪でしかない』
「……それもそうか。謝るよ。もともと、本体と制御で分かれた時点で見えていた結末。つい薄情になってしまった。いや、それよりも、雪洋は消えたようだね。お前も酷い有様だけど。これで悩みの種はなくなったわけだ……どうする? 俺を」
周囲の目は、口は、我らの話を聞きながら動かない。
一人の人間を救えなかった事実は、どの者の心にも圧をかけていることだろう。
ウィンは顔を上げぬまま、ソムの腕の中で肩を震わせている。
『……やるべきことはある。それを終えたら、出る幕はない。ザイヴから離れてもらおう』
「それができれば、そもそも俺の存在は人にはつかないよ。人として、怪異の上に立つ。それが異端であり、冷静に見据える力として、俺のもつ最大の在り方なんだから」
『だったら、その後ザイヴを斟酌するべきだ。強いて出てくることは許さん。ザイヴにとって、お前はただ、友人を踏みつぶして出てきた“本物”。そうとしか見んだろう。今怒っているというのであれば、尚更だ。これまで散々ザイヴの横にいたのだ。それくらい、本人の代わりに察することくらいできる』
ザイヴの心情。強い部分と、弱い部分。
これまでに、幾度となく見てきたものは、我の情をさらに昂らせる。このまま、〈暗黒者-デッド-〉の好きにさせてたまるものかと、威嚇さえする。
「……一つだけ、確認させてください」
我々の会話に、やっとという面持ちで入ってきたガネは、その歪む顔で、〈暗黒者-デッド-〉に尋ねた。
─“ザイヴは、〈暗黒者-デッド-〉にとって道具であったのか”、と。
第三者から見れば、表でも裏でも、自身を含めて存在し、強い力を発揮できる都合の良さが窺える。加え、友人を抑止力として存在させ、それが失せることで本来の姿、力を取り戻す。
その必要性は、どうだったのか。
「……道具、かなり酷く言えば、そうともとれるのかもしれない。俺は、人の力を借りずしていることは難しいんだ。色々な特性上、ね。でも、穏慈。俺が、主の崩壊を、命を救うために動いた事実は覚えてるだろう? あれは、同情したからじゃない。道具なんて思っていれば、あの場で強制的に融合し、繋を断っても良かったんだから」
ガネの問いに答えたそれは、更に言葉を続けた。
まるで、沈黙の時間を作らないように、その静けさで、場が圧によって沈んでしまわないように必死になっているようにも見える。
ザイヴの姿で、そうしているからかもしれないと、我は何となく苦しくなった。
「俺の代わりに、俺の力をうまく引き出して、強くなってくれた。人の情というもので、多くのことに気付き、動いた。怪異を、労わってくれた。今は、苦痛に苛まれてしまっているけど。俺は、ザイヴの眩しいほどの強さ、人間らしくて嫌いじゃないよ」
大きな力を得たために、大切な友人を失ってしまったという、受け入れる許容を越えた大きな罪悪感。
一つの存在を解放したために、もともとなかったかのように扱われた一つの存在。
もしも、友人ではなく、醜く憎らしいものであれば、こうも感じなかったのだろうか。
いや──ザイヴは、我ら怪異を人と同等に見て、気遣い、頼った。
どういう存在であれ、関わりをもち知った以上、それを無下にはしない。
ザイヴは、そうした存在が抑制としていたところで、悲しまぬことは決してないだろう。
それほど、温かく、その通りの光を持った人であることは、我がよく知っておる。
ふと、ザイヴの顔に目をやると。その顔には、一筋ずつ伝うものがあった。
『……何のつもりだ』
「…この本人に強く惹かれ、この者であれば俺を正しく使えると、そう確信して中立者になってもらった。……しかし、初めからこの体に全ての力をもたせれば、崩れてしまうことは必至。であれば、分けた力で能力を制限すればと、そうして選んだのがあの友人だった。俺が引き寄せられるくらいの、強い繋がりがあることが見えたから。仕方がなかったとはいえ、そのせいで、こうなってしまったのは覆しようもない事実だ」
「今更、そのものに罪悪感をもっているんですか? これほど掻き乱して、身勝手に存在して」
ガネの口調が強くなる。冷静さを見せようとするも、その表情と、血液の流動が滞っているのが分かるほどに握られている拳が、その心を語っていた。
「……得れば失すものがある。それが俺の、存在そのもの。表裏一体を握るその本質だと、嫌でも分からされるよ」
「表裏……そう、ですか。密接に関わり、足掻こうとも切り離すことは絶対にできない。それそのもののあなたは、裏の存在である以上、通常表側とされる世で主体的に生きる僕たち人間に頼るしかない。だから、〈暗黒〉にも人は不可欠だと。そういう意味で、〈暗黒者-デッド-〉は怪異の上に立っているんですね」
「ああ……。表があれば、返せば裏になる。そして、それはまた表へ戻る。そんな存在が必ず必要なんだよ。それが、俺だったってだけ。主には、本当に頑張ってもらった。それなのにこの仕打ちだ。穏慈の言う通り、俺は役目を終えたら、静かにしておくよ。一度返そう。その最後の役目を果たすときに、今一度……」
眼の色が、形が、ザイヴのそれに戻っていく。完全に戻る直前に、その体は崩れ落ちた。腕の利かぬ我に変わり、その体を支えるのはガネだと思いきや、人型魔界妖物だった。
「……こんなガキが、それほど重く逃れられぬ命を背負っておったか。どう言を繕おうとも、納得がいかんものじゃ……。いやしかし、本当に、あれほど強力な奴を秘めておったものじゃ……」
眠りながらも、その頬には滴の形がとられていく。
悼む間もなく、意識が取られ、それは怒りに狂っても文句はない。
人型魔界妖物も、その境遇に何を思うか。ザイヴから目を逸らした。
「この痛みは、嫌という程分かる。息も詰まろうて。そして、人であればまた特別強かろう。……こいつは、吾の力となり、吾を救った。その恩恵をと思っておったのが、こんな形で何も叶わぬなど、……どれほど己を憎もうか」
「……何を言おうと、この状況下では何もできない。一人の命を惜しむ中で、無として消えてしまっては、俺もどうしようもない。待っているのは、虚に遺る過去。……俺たちでは、確かな力不足でしかなかった」
小さく、低く、掠れるように届く声は、地底まで落ちていくかのようだ。
指揮を執った者も、それについてきた者も、それ以上語ることはない。ウィンの嘆きが、ただただ耳に届くばかりで。
「……ぐ、っう……、俺……っ」
『ザイヴ、すまん。我は、お前を守れなかった』
意識を戻したザイヴも、その顔を腕で隠して、泣いた。
自分のせいで、と。自ら追い込んで。
いたはずの者が、今ここにいない。
その実感がひしひしと湧き、伝わる我らもまた、目を逸らさずにはいられなかった。