第百五十九話 黒ノ摘マヌ志ト、ソノ尊
「がふっ、はあ、っう……」
苦しそうな、いや、間違いなく苦しいはずのラオの表情。ラオの目は、俺を捉えることはなかった。
足掻こうにも、こうなってしまっては、自分ではどうしようもなくなってしまっている。
「あの怪異……っ、まさかこれを狙ったんじゃねーだろうな……!」
ゲランさんが、俺とガネさんを押し退ける。
ウィンの自然魔を浴びるラオの状態をまじまじと、迫る制限に反発するように診た。脈の乱れ、呼吸の乱れ、意識の朦朧としている様。
そこまで確認したゲランさんは、言葉を飲み込んで、静かに身を引いた。
「ゲランさん……」
その、俺たちに申し訳なさを感じさせる歪んだ眉は、希望を見せてはくれなかった。
「……横に、いてやりな。お前を守ってくれたんだ。礼くらい、言わねーとな」
察するな、ということの方が難しい。思考が安定しきれないまま、抉られた傷口に目を向ける。ぞわりと身の毛が逆立ちながらも、目は逸らすことができない。
もう、尽きてもおかしくはないのではないか。そう思わずにはいられないほどの、滞らない血液の流動も、同時に目に入る。
「おい。友を残して、逝くつもりか。貴様は、強かろうに」
「ラオ起きろよ、頼むから……」
ルデの言葉も、俺の呼ぶ声も、届いているのか分からない。ただ、風が通るような音が、僅かにラオから聞こえてくる。
見た限りでは、ウィンの自然魔ですら、ほとんど効いていないようにも見える。
「ラオ、何で……」
俺の頭には、過去のある出来事が蘇っていた。まるで、あの時と同じような。
あの、ラオが俺たちの前からいなくなってしまった、数年前のこと。会えないという状況で、俺たちが与えられた虚しさ、寂しさ、状況的には似ても似つかないのに。
「何で、そうやって……」
涙が溢れて、視界が塞がれていく。俺の背を、優しくさすっている大きな手を感じながら。それでも、その本人が誰であるかなど、どうでも良い。
大きく零れていく熱は、ラオや、俺の顔を伝い、床に落ちていく。そこに溜まる、血液に交じって。
────────
──まだ、十歳にも満たなかった俺とウィンに、家を離れると告げた日。
悲しそうで、苦しそうな顔で、笑っていた。
「どっかいっちゃうの?」
「ごめんね、でも、俺……もう光郡にはいられないから」
たくさん貼られている、外部薬と布。それなりの怪我をしている何よりの証は、日に日に増えていた。
この時は、虐待を受けていたなんて、考えもしなかったけれど。
ただ、あの表情だけは、忘れない。
「ザイもウィンも、元気でね」
「……やだ、いなくなるの」
「……じゃあ、またねにしよう。これなら、いい? いつか、また会える気がするお別れの言葉だよ」
遠くに行ってしまう。
一生会えなくなるわけではなくても、物理的に見えてしまった距離が、俺たちには辛かった。
「……絶対?」
「……うん。ね、だから」
───“またね”
────────
思い出してしまった。
苦しい。酷く、身が震える。あれほどの沈む思いから、逃げ出したくて追ってきたのに。
目の前のラオは、まともに俺の声を聞くこともできない。
「何で、また……!」
あの時とは違う。けれど、あの時と同じ。
「置いていくんだよ……!」
止まらない涙は、止まらない血液の中に直接落ちた。どれだけ零れたか、分からない。
ラオの名を、何度も呼んで、何度も、顔を叩いた。
「ごふっ」
「! ラオ!」
「……そ、だね」
僅かな吐息に交じって、辛うじて発される細い声が、俺の脈音にかき消されそうだ。聞き逃すことがないように、必死で耳を傾ける。
瞼の隙間から覗く、途絶えかけの光は、まっすぐに、俺とウィンを見た。
俺の声が、聞こえていた。そう思うと、希望を抱けるのではないかと期待する。
「でも、ごめ……も、……一緒、に……いら、……な……」
絶え絶えの息で、荒くなりながらも紡いでいく言葉は、なおもラオらしく、優しく、穏やかに見えた。
それは、細く形どられた口元のせいなのか。それとも。
「……ザイ、は、へーき……? 守、れた……?」
「!!」
俺を庇ったせいで、こうなってしまったのに。彼はどこか、満たされているようで。
弱い声の癖に、人の心配をするラオを、どうにかして助けたい。
けれど、俺の持つ力量では、─叶わない。
「こんな時まで……俺の、俺たちの心配すんなよ!」
ウィンの手は、震えている。震えながらも、玉を手離すことはない。
光を纏い続け、正しい循環として術を発している。かに、思えていたが。
「……追いつかない、どうしよ……ど、したら……いいの……?」
ぼろぼろと落ちるものは、俺のそれよりも大粒で。止めどない苦しさを感じさせる。歯がこすれるほど食いしばった俺の口からは、俺の感情しか出てこない。
「バカ! こんな時まで、優しくなくていいんだよ!! 俺のせいで、こんな……! 待って、まだ、まだだめだろ!」
「……うん」
その一言。ただ、眠るような顔で、安らかにそう言ったラオに、全ての覚悟が見えてしまう。
それでも、それに抗おうと、ラオの覚悟を引き留める。懸命に、汚れた顔を、更に醜くしながら。
「ラオ、だめ……!」
「ごめ、ね……」
けれど、願う言葉は返ってこない。悟っているのだ。この、友人は。
「ダメだって言ってんだろ! 今度こそ、お前に追いつけなくなるんだぞ!!」
受け止めきれない大きな想いを、俺はどこに向ければ良いのだろう。溢れて、支えきれない重みを、どう踏ん張って上げれば良いだろう。
分からない。─分かることなど、易くはない。
「……ず、と。俺……お前たちに、救われ、て……た。だ、から……懸け……ら、た」
はっとする俺たちは、その瞼の内から出る、細く、忍ぶような滴を目に留めた。それは、俺たちの情を、余計に加速させた。
「やだ! そんなこと言わないで、ザイも私も、ラオがいなかったら……!」
「頼むから、離れていくなよ! こうなる必要なかっただろ! 待って、鎌の力なら、何とか……!」
鎌を持ち直した手が、小刻みに震えている。
─ああ、俺も、分かってはいるんだ。きっと。これ以上、何をしたところで叶うことはないと。諦められない気持ちが、申し訳ない気持ちが。そして、いなくなる事実を、かき消したい気持ちが。それを無にしている。
「ううん……。……ね、ザイ、ウィン……今度、は……もう、……っ」
「……今度……? 今度って何……!」
「覚……て、る……げほっ、ゔぇっ……っは、ま、またねは、……ね、お見送り……今度は、泣か、……で」
「!!!」
言葉は、音は、一瞬、止まった。涙を無理やり、奥の奥へと押し込んで。その一瞬で、ラオの涙も拭い去った。
そして、最期を互いに目に留めたが最後。
空気も、鼓動も、全て。
音もなく、その姿さえも。
塵のように、結晶のように、崩れて、流れていく。
─さよならだ。
後ろで立っている大人たちの情は、俺の背に伝わってくる。
消えていく肉体と、生命。目の前で消え去っていく友人を、守りたくて。
友人と、笑っていたくて、ただそれだけだったのに。
その願いは、儚くも、綺麗に白くかえっていった。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
これが、全て虚無で起きた出来事で。我に返れば、またその姿で笑ってはいないだろうか。
そう、痛む現実は、重すぎて。
壊れかかる俺たちに、大きな温もりが、被さった。
「……っ」
言葉に表すことのできない絶望感。
この時は、ガネさんと、ソムさんが、そして穏慈が、俺たちを必死で守ってくれていた。
けれど、分かる。
膨大になる、己の秘は、俺に友を慈しむ暇など与えてはくれない。
─大きく跳ねる、鼓動。
─大きく巡り出す、能。
─僅かに残された、その欠片。
「ぎ、う……ゔヴ……!」
『! 離れろ、出てくる!!』
「!!」
「あ゛あ゛……っ、ガアアアアアアアアアアアアアア!!」
─消えていく。見えてくる。
止められていた、その先が。
─〈暗黒者-デッド-〉。
その、大きな一つの存在は、俺の望まない形で、現れた。
タイトルの読み
摘マヌ志ト、ソノ尊