第百五十八話 黒ノ摘ム青ノ芽
終焉編
─俺、頼みがあるんだ。
僕が、人知れずラオ君と向き合った時。
あまりにも真剣で、深刻な彼の表情に、思わず息をのんだ。そこで発された言葉は、彼自身の大きな覚悟。
─俺が、ずっと守ってきた信念を。ガネさんに託したい。
それが何を意味しているのか。答えに辿り着くのに、少し時間を使った。その、まっすぐすぎる堅い瞳と、一定の呼吸。荒むことのない、落ち着いた口調。恐怖すら感じさせる、冷静さ。言葉通り、ぞっとした。
彼にとっての大きな決断と、全てを懸けた僕への委託に繋がった僕は、絶句した。
「あいつらが俺を必要としたように。俺にしてみれば、あいつらが生きることが、俺の救いになる」
「……だからと言って、ラオ君がそこまでの重荷を背負うことはないでしょう。彼らは、間違いなく苦しむことになります」
一人の若き生命が辿り着く決心にしては、あまりにも酷で。そう至らしめた強力な能力を、恨むことしかできない。
〈暗黒〉で最も有力な存在だとしても、こちらでは、僕たちと何ら変わらない人間。
その運命としては、納得のいくものではない。
「でも、だからこそ世が崩れず、全てを終わらせられる手だから。言った通り、〈暗黒者-デッド-〉は本体と制御に分かれて、俺たちの奥底にいる。俺だってどうなるか分からない。もし、俺が本当に消えるなら……」
「だから、ラオ君の信念を継いでもらいたい、と?」
頑なに考えを揺るがせない。
いつから、どんな気持ちで覚悟し、友人と接していたのか。
見当が全くつかないわけではないにしても、僕の中で、その選択は許されない。
「……気持ちとしては十分ですが、そう弱気でどうするんですか」
「他に手がないと思ってるから。穏慈も薫も、違う手を探そうなんて言ってるけど、〈暗黒〉で色々聞いて、雰囲気で察するよ。失敗の危険性が大きい共鳴なんて無理やりやって世界ごと崩れたら……。俺は、俺の覚悟で救えるならそれで良い。だからガネさんに頼みたい。あの二人を、守ってほしい」
「そう簡単には聞き入れられません。もしそうなれば、君は彼らを裏切ることになりますよ。それを見てきた第三者の僕も、納得できません」
何を言っても、どう揺すっても、ラオ君は変わらない瞳で僕を見る。これほど僕が反対しても、捻じ曲げることのできない思いは、少し羨ましくも、疎ましくも思う。
どうあっても、この命一つを素直に投げ出させるには、至らせられない。それは、僕の答えとして、揺るがすことのできないものだった。
「だったら、俺の想いだけでいい。俺だって、死ななくて済むなら、それ以上に満たされることはない。でも、本当にもしものことを考えて……その時は、受け取ってほしい」
「……大前提は、覆せません。犠牲になる必要はないんですから。でも、ラオ君の想いは、分かりました」
僅かに顔を歪ませ、唇を少し噛んで力む表情。ここにきて、やっと崩れた強張りに、僅かに心の隙ができた気がした。
「……うん。でも、俺の大切なものは、はっきり言ってザイとウィン。これだけは譲れない。二人に何かあるようなら、俺は迷えない。そういう性格なんだよ」
「嫌という程分かりますよ。今まで散々感じてきました」
「だから、ガネさんが動こうと何だろうと、俺も足を止めない。俺の手がある限り、俺が手を伸ばす。失いたくない。その先に俺がいてもいなくても、こんなこと……ガネさんにしか頼めないから。お願いします」
その気持ちが、痛く分かってしまったこと。それが、ラオ君の息を守る条件で、僕が折れるきっかけになった。
言われなくても、守りたい命だ。どういう未来があっても、そんな残酷な使命と覚悟をもって戦に参加することは、あってはならない。
「ありがとう」
「その言葉は、戦いが終わってから聞きたいですね。取っておいてください」
「……そうだね、分かった」
この子の深い想いは、清々しくも、毒々しい。しかし、それが伸ばす黒ずんだ未来は、僕一人にとどまらず、その友人の心をも壊しかねない。
どれほど強い心情でも、それほど、彼が彼らを守りたくても、守らないといけない──
△ ▼ △ ▼
「ザイ、よく聞け」
耳元で、はっきりと聞こえたラオの声。その言葉は、俺の鼓動を速めた。
耳に付く音が、体内を流れる血液の感覚が、俺を支配する。
─俺が囮になる。
「何で……!? 何でそういうこと……!!」
ラオの一言と、俺に対してかかる力。俺には簡単に、はっきりと分かった。
俺にしてくれたように、俺を助けてくれた彼を助けようとするのに、その瞬間は残酷にも、すぐに訪れた。
手を伸ばすのに届かなかった手は、雪洋の自爆で起きた刃の風でずたずたになった。そしてその荒れ狂う風に攫われ、さらに距離を作ってしまっていた。
「ちっ、さすがに吾も、入っていけぬか……! 自害など、一人でやってもらいたいものじゃな……ぐ」
その、ルデの悔しさの余る声色に、心が痛む。俺たちのために来てくれたルデが、そうして弱っていたのだから。
それがばねになったのか、気持ちが少し戻った。
何とか体勢を持ち直して、抵抗し、ラオを探して前進する。しかし、それは一人の教育師に止められた。
「ザイヴ君だめ!」
「ぐっ……!」
「ザイヴ君まで……!」
そんな言葉を聞いていられるほど、冷静にはなれない。背後からは、ウィンがラオを呼ぶ声が聞こえてくる。
いや、まだ、間に合うはずだ。
「離してソムさん!」
「でも!」
強引に振り解いた手は、さらに強く、大きな手で掴まれた。
「……あんたも止めるのかよ。離せよ!」
叫んでも、ガネさんは俺を見て、目を離さない。悲しそうで、重そうな瞼で、見たくもない現実を直視させられているようだ。
「ラオ君に言われたんです。……守ってくれと」
「だからってこの状況で!!!」
「だから、一人では行かせません。僕が先に行きます!」
俺の手は解放され、ガネさんは腹部から血を流しながら、【聖の針】を前方に放つ。それを追うように走るガネさんを、俺も続けて追った。
「もう一度自爆されたら、お前ら吹っ飛ぶぞ!」
「ガネ、行ったらだめだよ!」
ルノさんと、ソムさんの声が、枯れそうなほどの声量で届く。しかし、それでは止まれない。巻き込まれた友人を助けに行かないなんて、非道ことはできない。
「そんな安っぽい制止聞けるか! ザイ君、間違っても死ぬな、まだ助けられるはずだ!」
ガネさんの助けがあって、俺はまっすぐに伸びる軌道を確実に追えた。その甲斐あって、ラオの姿を目に留めることができた。
「ラオ!!」
けれど、ぐたりと血の気なく横たわるラオの姿で、察してしまう。雪洋の血や、肉塊に交じり、ラオから流れ出す僅かに色素の違う赤い血液が、ガネさんの物とは比にならないほど溢れている。
これまでとはまるで違う。後ろからいくつもの足音が聞こえ、少しでも自爆の中心から離れようと、ガネさんと共に、必死でラオを引き摺った。
ある程度離れたところで、力が入る体を解放し、何度もラオに呼びかける。その表情は、髪に隠れてほとんど確認ができない。更に近くで呼ぼうと、距離を縮めたその時だ。
『……ワタ、シ、ノ、セカイ……スベ、テ、……キエ、ル』
怪異の声が、細く聞こえて来た。自爆というものの割に、本能残存の力のためか、尽きてはいなかったようだ。
ただ一つ、その声の先に、違和感を覚える。
「……え」
「ザイ君離れて!」
一瞬目に入った姿は、にたりと不気味に上がる、彼の口角。その眼だけは、ラオのそれではなかった。
瞬間、罠だということに気付く。
ガネさんが俺を庇って、俺を押し退ける。同時に、彼の腕が鋭い刃に変わる。
(あの一瞬で、ラオに化けた……!? じゃあまさか、自爆じゃなくて、目くらまし……!)
『どけ貴様ら!!』
ガネさんが剣でそれを弾き、後方から穏慈と薫が大きな体で迫る。俺たちを守ろうとする怪異も、捨て身だった。自爆の体勢を解除したこの一瞬に、しっかりとフォローに来てくれた。
「支援するぞ!!」
ルノさんもその動きを見逃さず、後方からの攻撃を再開させてくれた。
ラオの姿を解いた雪洋はといえば、穏慈と薫に細い腕で対抗しながら、俺の首元目がけて同様の刃を向けてくる。
「チッ!」
「てめえもこれで終わりにしてやる!」
ガネさんが剣を振り始めたのと、ほとんど変わらない時。
遠方から鋼槍を構えたラオが、まっすぐに怪異に向かって突っ込んできた。
その姿に、生きている安心感が生まれるも、先程の間で全身が切り裂かれ、ぼろぼろになっていた。
「ラオ!」
ラオの鋼槍が、勢いよく怪異に刺さり、返り血がべたりと衣服に付く。それに何も感じない俺は、確かに感覚に麻痺を覚えているらしい。
鋼槍が怪異を貫いたことを確認し、荒い呼吸をしながら鋼槍を抜くラオに目線を向ける。
すぐに距離を取るべく、その姿勢を取った時だった。
「がっ、あ゛……!」
「!!! ラオ!!」
その、ラオの、心臓にほど近い胸部。背後から突き上げるように、あの刃が刺さっていた。
ラオの、至る所から出る、生々しい鮮血。俺のとは違い、汚れていない、赤だ。
みるみるうちに、ラオの上半身は胸部からの出血で染まっていく。
ラオに貫かれたことが効いたのか、怪異は身の刃のみを残し、極小の、肉塊の姿になっていた。
そして砂のように、刃も、肉塊も、時をかけずに、消滅していった。
「あ……っ、ラオ、おい」
力なく、ずさりと倒れ込む。今度こそ、正真正銘のラオが、目の前に倒れている。
説明しなくても、容態は歴然としている。止まらない液体。止まりかけの呼吸。止まらない俺の動悸と、止まりかける、思考。
ラオ一人が倒れているこの状態で、教育師たちはラオの救命のために駆け寄った。
「おい、ラオガ!」
「ラオ、ラオやだ、何で……っ」
「……ウィン頼む、自然魔で、ラオを……」
「! う、うん!」
俺の言葉で慌てて前に出てきたウィンは、迷わずに宝玉を手で覆い、自然魔を生じさせる。
ふらつく二体の怪異も、絶え絶えになりながらたどりつく。
穏慈の腕は、やはり目を塞ぎたくなるほどの痛々しさで、直視できない。
薫も、数度に渡りも吹き飛ばされたせいか、顔面は潰れ、その背からは骨が見えていた。
この状態で突っ込んできたことを思うと、足元から体温が奪われる感覚になる。
いくら怪異でも、全力での力添えなど難しかっただろう。
薫は、しばらく耐えていたものの、ラオ同様に、倒れ込んだ。
「く、薫……?」
『語らずとも……ああ、分かろう。主を失う怪異は、もう、……あとは、任せる、穏ジ』
『……主を守れぬ怪異に、立場はない……。ザイヴ、何とか、ラオガを……』
─このままでは、薫も消える。
そう言っているらしい。その言葉通り、薫の体からは蒸気のようなものが漏れ始め、こちらに出てくる際に現れる黒煙のようなものが、薫を纏った。
「……!」
「薫さん……!」
『すまん、何も、してやレん……私は、先に、還ろウ……』
消えていく薫は、ラオをそのまま見ているようで。縛られるように苦しくなった。
辛うじて確認できる呼吸は、少しずつ、確実に、弱まっていった。