第百四十九話 黒ノ妖ト解ク犠牲
薫の嗅覚を頼りに、業壺の存在を目視できる距離にまで歩みを進めた俺たちは、それぞれ怪異の背から身を降ろし、業壺に呼びかける。
「……業壺さーん」
しかし、すぐに反応を見せることはなく、何度か声を浴びせるものの、その気配すら見せなかった。
どうしたものかと、俺たちでできないのであれば、怪異に任せようと、穏慈に任せてみる。
『おい業壺。〈暗黒者-デッド-〉が来ている。返事をしろ』
その呼びかけに応じないのには、何か理由があるのだろうか。それとも、眠っているだけなのか。人にするように、揺すってみてはどうかと考えた俺は、業壺の、危害のなさそうな三つ目の上あたりに手を置いてみる。
すると、僅か一瞬の間で、その三つ目は一斉に開き、俺の存在を黙認した。
「……あ、ごめんなさい……返事がなかったから……」
そのあまりに鋭い目つきに、たじろいで後ずさる。俺の反応にはっとしたのか、業壺もそれなりに申し訳ないと、一度目を閉じていた。
『……オソレルナ……スマナイ……』
業壺はのそりと、壺に似た体を動かし、何用かと改まって尋ねてくれた。こちらの話を聞いてくれるという業壺に、俺たちは雪洋に関する情報はないかと、訪ねた目的を端的に伝えた。
俺が持つ〈暗黒者-デッド-〉の存在を露わにし、その結末までもを知らしめてくれた目の前の怪異は、投げかけに対し、しばらく沈黙を続けた。
『知らんのであれば構わんが……貴様は怪異の特性などを全て把握できる怪異だ。全てでなくとも、雪洋が何者か、というのは分かるのではないか』
以前、穏慈も言っていた。業壺は、“怪異の特性、状態、能力、すべてを見ただけで把握できる怪異だ”と。
もちろん、雪洋自体を見ていなければ、俺たちの期待には応えかねるというわけだが、〈暗黒者-デッド-〉を呼び出し、俺に“知っている”と断言までした点から考えれば、俺たちから言えることは、一つだ。
「業壺は、俺に全てを知っているって言ったの覚えてる? その言葉、そのまま使わせてもらうよ。雪洋のこと、知ってるんじゃないの?」
有無を言わさないよう、口調を強めて再度尋ねると、三つ目は全て閉じた。
『……ソノ、カコ。ハナス、セキヨウ』
そして、並ぶ三つ目のうち、真ん中にある目のみを開く。すると、それまでとは違い、かなり流暢に話を始めた。業壺の真ん中に携わる目は、〈暗黒者-デッド-〉を呼び出せる能力を持ったことで備わった、俺たちと話すためだけにある、特殊な目なのだと、業壺は教えてくれた。
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─幾分年程前か、ある大きな力が、突如〈暗黒〉に堕ちてきた。これまでに味わったことのない、良くないものであることのみが分かるそれに興味を惹かれた吾は、もちろんその気配を追って、その姿を目に留めた。
それは、吾の知っている怪異とは比べられない巨体で、改めて禍々しさを感じた。吾に気付いたその巨大な怪異は、大きな足で、吾を踏み潰そうと試みたのだろう。宙に浮いた足は、吾の視界により強い黒を見せた。
極小の吾など、それで生命が切れても道理であり、その覚悟すらもった。
しかし、思いとは裏腹に、逆に吾に興味をもったそれは、地響きを渡らせて足をつけ、吾にこう言った。
─『ここは、何だ。私は、何故こんな姿なのだ』
その問いの意味に、吾はしばらく気付けずにいた。
しかし、確かに自身の体を終始見続けているそれは、自らに起きたことに疑問を抱いているのだろうと、少し考えると分かり、簡単にこの場所の話をした。
すると驚いたそれは、辺りを見回して、しばらく落ち着かなかった。そのうち、その事実を吸収したのだろう。突然低い声で笑いだし、吾の名を知らせろと求めた。
それに応えると、それはまた悦に浸った。そして、自身に付いた名を、吾に知らせてきた。
それが、雪洋を知ったきっかけだった。
もちろん、吾の能力は怪異の全貌を知ることができるという優れもの。すぐに、雪洋が元人間であり、人のみでなく、怪異ですら模倣し、ある程度の能力まで備えることが可能であるということが分かった。
これは厄介な怪異だと、警戒したことを覚えている。
『業壺と言ったな。貴様は私にいろいろ教えてくれた。だから私の企てについても協力してもらいたい』
『……クワダテ、ソレ、オソレ、キケン』
吾は、止めた。もちろん、事のあらましは大体聞いた。それを踏まえての、否定だった。
ただ、それも雪洋の耳には入らなかったようで、大きく口外するな、と硬く約束させられた。
それ以降、滅多と雪洋の姿を見ることはなかったが、他の怪異からは『あの怪異は何だ』、『恐ろしい』と、距離を置かれていた。
知る限りの雪洋の特性については、特に気を付けてもらいたいという吾の願いから、尋ねてきた怪異に知らせた。あんな怪異に、〈暗黒〉が乗っ取られでもしたら、大変なことになると。
いや、そもそも、表裏を統合してしまおうという恐ろしい謀りを浮かべる雪洋は、いずれ罰せねばならないと、そのための勢力が現れるのを待つばかりだった。
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「……他を模倣する能力。ホゼの黒靄を扱えたのも、その能力か」
『ソウダ。ソレカラ、ヤツハテンデノイドウ、コレモトクイトスルヨウダ。ヒトスジナワデハイカン』
流暢なままの業壺の口調は、同じ怪異でも恐れを感じているという表れでもあるように思わせている。
点での移動、つまり、黒靄を利用したように見せたあの時の瞬間的移動は、雪洋の能力そのものだったということ。
こちら側でも、ホゼが巻き込まれて利用されただけだということの裏付けが取れたわけだ。
「……そんな奴が、俺たちの敵か。……分かった、業壺、ありがとう」
『アア……』
俺の礼の言葉を聞くと、満足したと言うように開いていた目を閉じ、再度開いた際には、元の三つ目に戻っていた。途切れ途切れの口調に戻った業壺は、俺たちの身を案じ、以前無理に〈暗黒者-デッド-〉を呼び出したことを謝罪した。
『デッド……ゼンブ、ミエタカ』
「全部……うん。全部、見えた。どうにもできないの? 俺たちは、そうなるがままでしか、いられないの?」
『……ソレ、シラナイ。ギン、キイテ』
〈暗黒者-デッド-〉の、本体と制御。そう分離している俺たちは、いずれ、本体として力を発揮しなければならない。
この暗闇で、気の落ちる話は俺に毒だ。ラオにも、その事実に行きついているか否かを確かめたいのに、怖くてできない。
屋敷に戻って、雪洋を目にしたことを利用して、そこから目を背けていた俺は、無理矢理引き出されようとしているのを拒みながらも、それに反した思考と葛藤していた。
「そうする。じゃあ、業壺も、気を付けて」
『吾ノコト……キニシナイ……。デッド……セキヨウ、トメテ』
その言葉を、切に思う業壺の気持ちとして、重く受け止めた俺たちは、続けて吟に話を聞くため、怪異の背に乗った。
知るべきことは知れたことで、穏慈も薫も、業壺を探していた時とは違い、速度を上げることもなく、俺たちに言葉をかけながら進んでいった。
『今更だが、今は何ともないのか? 中の力が出てくることなども含めてだが』
「ああ……うん、すっごく居やすい。でも……」
「何? 何かある?」
穏慈でも薫でもない、ラオが、俺の様子を窺ってくる。
あれから、ラオは詳しい話を聞いてこない。俺から話すのを、待っているのかもしれない。これまでに一緒にいた間に、何度もラオの優しさに助けられているのだから、今更そこに触れるまでもない。
だから、話すとすれば、今しかないと。何となくそう感じた。
「ラオ……は、さ」
「うん」
俺の行動の理由に。自身にかかるであろう、負荷に───気付いているのか?
「〈暗黒者-デッド-〉が言っていたこと……どう思う?」
他の術など、探すだけ無駄かもしれない。絶望を感じる俺を、どう支えようとしているのか。
「……分かるよ、ザイが言いたいこと。俺もバカじゃない。そうだよね。そうじゃなきゃ、あんなに暴れないよね」
「でも、俺」
「どうなるかなんて、本当の意味では考えてもいなかった。どちらかの力がどちらかに移る。どちらかが戻るんじゃない。本体に戻るために……俺が、消えないといけない。そういうことでしょ?」
言葉に詰まる。友人自身の死の大きな可能性は、俺が思っていただけではない。ラオも、それなりに考えて、行きついていた。
胸が締め付けられる思いで、聞いてしまったことを後悔した。
『しかし、……今から諦めてどうする』
『私の主だぞ。それでも貴様は死なねばならんのか。胸糞の悪い……そんな戯言は聞かんぞ』
それでも、全てを潰してしまわないように、俺たちを守ってくれる怪異が、力強い言葉で俺たちを支援する。それが、嬉しいようで、無理強いのようで、苦しくなった。
「ザイだって、それが嫌でああなったんだろ? 俺は、お前らを放り投げていなくなるつもりはないよ。それが見えたからって、それに縛られるほど弱いつもりもない。俺は俺なりに抗うし、これまで通り、俺はザイとウィンを、守るつもりだから。……それじゃあ、ザイは苦しいままなの?」
俺が一人で悩んでいたのが、バカらしい。ラオが俺に事情を聞かなかったのは、そこまでの意思を固めていたからだったようだ。
「……ううん。ごめん、こんなこと考えるから、ラオに心配ばっかかけ……」
「それでいいんだよ。お前とウィンの力になれてるなら。……あー、いや、今はザイだけか。苦しいなら、いくらでも分けてよ。俺たちの仲でしょ」
俺の涙腺を崩壊させるつもりかと、内心かなり熱くなっていた。
反面、ラオの相変わらずの人の好さに、思わず笑いがこぼれていた。