第百四十一話 黒ノ血ヲ醒マス世
意識がありながら、〈暗黒者-デッド-〉の状態を味わう日が来るとは。例えようもないが、半々の意識を持ち、それが反発しているような──強いて言えば、強い睡魔と戦っている時の頭の感覚、とでも言えばいいだろうか。
これまではあれだけ掻き乱され、自我を失うほどの力であったにもかかわらず、今回に限っては俺たちの身を案じるように謙虚な現れ方だ。
「何にしても、助かったね。良かった、ザイが動けるようになって」
「うん。とにかく今のうちだ。そのうち反動が来るかもしれないし」
『ザイヴの言う通りだな。その存在に耐えることができている間に、事を起こした張本人を見つけるとしよう。表裏の空間の行き来を封じるなど、人間にはできん。怪異の仕業だと考えるのが無難だろう』
その考え方には納得ができる。人の手が加わっているはずがない事態だ。先程までとは打って変わり、自由に行動ができる俺たちは、すぐにその足を動かした。事を引き起こした目的を、知るべくして。
......
「……どういうことだ」
「言った通り、誰かが意図的に彼らを閉じ込めているようです。確かに言ったんですよ、僕の名と、“邪魔をするな”と吐き捨てるような一言。まさか名指しされるとは思いませんでした。こちらのことを把握している人物なんて、そうそう思い当たりませんが」
敵としての人物であれば、ずっと追ってきているホゼが該当する。しかし、彼は普通の人間であり、そこに関与することは、理論上不可能であるはずだ。他に思い当たる者もおらず、“不可能”ということだけが残された。そこで、僕はようやく気付くことになった。
「……ちょっと待て。そうだ、冷静に考えて、ホゼが〈暗黒〉に関われるわけがない……。ルノ! まずいかもしれない、本部からの派遣者を引かせてください!」
「つまり、最初から人ではなく怪異の仕業、と言いたいわけか」
「そう、そもそも、怪異であった泰を連れていた時点で気づくべきだったことです。ザイ君たちのように〈暗黒者-デッド-〉であればまだしも、怪異が人を慕い、そのために命を放るなんて。よっぽどの理由がなければ至らないと思います」
ホゼを含め、共犯とされる者の介入があると思っていたが、初めからホゼが被害者だとしたら。
慎重になりすぎたことが、逆にその点に気づけず、彼らを捕らわれてしまうことになってしまった。
考えが甘かった。これまでにも、矛盾点や不可解な点はいくつも見てきたはずなのに。
「ガネ、お前が気に病むことじゃない。現に、最も考えが及んでいるのはお前だっただろう。本部には伝えて、一度手を引かせる。お前は医療室に戻って、説明して来い。後で合流する」
「ルノ待って、鍵!」
投げ渡した鍵を使い、慌ただしく部屋を出て行くルノに置いて行かれる形で、僕は部屋に一人。足が動かなかった。
考えてみれば、ホゼが初めに屋敷を敵に回した時。容赦のないザイ君への仕打ちで、穏慈くんに腕をもがれている。あの状況だったからこそ、発端はホゼだと思い、それに応じた対処をしてきた。
しかし、再度現れた時にその腕が戻っていたこと。ザイ君を浚い、協力を強いたこと。ここに怪異の関与があったとすれば、泰を使っていたこと、真迷いを利用してヤブを二度も殺したこと。青精珀の存在が疎ましかったことに、納得はできる。
(くそっ……何とか、自力で戻って来てくれ……!)
そんな説明がついたところで、〈暗黒〉に閉じ込められた彼らに、僕たちが手を伸ばせるわけもない。二人と、二人を守る怪異に、何とか抗ってもらうしかない。
とにかく、今分かったことだけでも、医療室にいる仲間に知らせに行かなければ。
汚したままの鏡に構う余裕などない。少しずつ垂れていくその液体は、自然の理に従って床まで到達しようとしていた。
医療室に戻り、頭を抱える一同に、分かったことを伝える。どうして彼らの居場所が分かったのかと、ゲランやソムには不思議がられたが、その説明をしている時間も惜しい。彼らに直接助け舟を出せないのであれば、別の方向からその手立てを見つけなければならない。
「前に、ガネがゼス君に、“協力者はホゼなのか”って投げかけてたんでしょ? その時は、怪異の関与は疑ってなかったの?」
「少なくともその時点では……。成り代わる何かというだけで、怪異の可能性が上がったのは、穏慈くんの『姿を写せる怪異がいる』という言葉を聞いてからです。穏慈くんたちのように人の姿になれるだけではなく、在る者の模倣ができるのであれば、そもそも、ホゼが企んだことなのかも怪しくなります」
僕の報告を聞いて、ウィンさんは顔を上げた。糸口が見えた、そう言うように。
「だったら、私たちはその怪異を探すってことですよね? 私も探します。ゲラン教育師、前にラオが見せた失薬、あれから他に何か分かりませんか」
「おっ? 失薬……確かに、あれを用意したのがその怪異だとすれば、探す手がかりになるかもしれねーけど、はっきり言って難しいぜ。出所が分かっても、こっちにあるものかどうかは」
「いいです、調べてください!」
普段と違うウィンさんの表情と、口調。自分が何とかしたいと、勇敢に努力しようとしている。あの二人を助け出すために、こうした行動をすぐに起こす、というのは、初めて見た姿だった。
というよりも、不安気に、苛々しているようにも見える。
「ウィンちゃん。ノームに言って、何か気配を見つけてもらってみて。もしかしたら……」
「はい、行ってきます」
ソムの助言に乗り、速やかに医療室から姿を消す。彼女なりに、顔に出ないように耐えているのだろうが、行動が、そのすべてを物語っている。
「……無理しないといいんだけど」
「でも、ウィンさんは彼らのために動いています。僕たちも探しましょう。書庫、広間前の通路、地下。手がかりがあるかどうかじゃない、少しでも関わりのあった場所に行きますよ」
「そうね。オミも来て」
「ああ、もちろんだ」
医療室を出て、まずは地下に下りてみることにし、専用の鍵を取りに行くべく教育師室に向かう。あそこの管理は厳重なはずで、もしかしたら、そこに目をつけて何か痕跡をおいているかもしれない。そんなこじつけた様な理由で選んだわけだが、そううまくいくとは思っていない。
教育師室に入ると、ルノが誰かとの話をちょうど終えたようで、外通用の機器を机に置いたところだった。
「ルノ、本部の人たちは?」
「ん? ああ、怪異の類が関わっている可能性があるからって言ったら、すぐに本部に戻すと言ってくれた。それで、お前たちは?」
「ホゼが屋敷に来た時に、関わった場所に行ってみようと思って。地下の鍵を取りに来たんです」
そういうことならと、ルノは鍵を管理してある厳重な箱に手を伸ばした。二重施錠の地下に通じるための鍵が纏められたそれと、ついでに、先程僕から渡した僕の部屋の鍵も一緒に手渡してくれた。
礼を言って、すぐにでも地下へ降りようと体を返すと、続けてルノの言葉が背に降りかかってきた。
「ウィンはどうした?」
「ノームのところに行ってるよ。ノームの自然魔の力を借りてみてって、私が言ったの」
「……だったら、俺はそっちに手を貸すか。何がどう手を下してくるか分からないからな。女二人じゃ危ないだろう」
「それなら、すみませんが頼みます」
「ああ。じゃあ、また一時間後に医療室だ。いいな」
ルノの取り仕切りに頷き、僕たちは急いで地下へ向かった。
......
〈暗黒〉内を移動し続けて、もう随分と時間が過ぎた気がする。それは、何事も起こらないつまらなさからなのか。はたまた、風景がほとんど変わらないからなのか。とにかく、何の収穫もないままに、ひたすら足を進めていた。
そこに、ある怪異と出くわした。
「深火……」
『ん? ソノ気配……デッドか? 何事ダ、ただナラぬソレが感じらレル』
深火は、俺たちが普段と異なる状態にあることにすぐに気付き、どういうことだと説明を迫ってくる。普段と変わることのない〈暗黒〉の中で、違ったものが目の前に現れれば、そう反応してくることも頷ける。
事の成り行きを説明し、怪異の間で知っている話があるかもしれないと、人の姿を写せる怪異に心当たりがないかと尋ねる。しかし、その首は縦には動かなかった。
『スマン……デッド。ワタシを助けテくれたというノに……何もできヌ……』
「いいんだよ。それより、深火のことも気になっていたんだ。あの騒動から、会ってなかったから。元気そうで良かった」
『ああ……アア、ソウダ。ワタシは知らンが、あいつナら……業壺は、知ってイルかもしれナい』
『業壺? 久しく聞いた名だな。確かに怪異の特性をよく知っている奴だが……なるほど、賭けてみるか』
怪異同士のやりとりを聞き、その業壺という怪異が何かの手掛かりをもっているかもしれないことが分かったところで、深火に礼を言おうとすると、頬に違和感を感じた。
「……あれ、これ」
「どうした? ……これ! 穏慈、この血、前にも……!」
その正体は、俺の目から自然と出てきたらしい血液。闇の中でも視界は不思議と明瞭で、その透明色を確認した。初めて見る現象でなくとも、気味が悪い。
穏慈がすぐに俺の様子を窺い、体調を気にかけてくる。これといった変化はないが、異常な色とはいえ、血液が出始めたということは、反動が起こる時も近い。少し、急いだ方が良さそうだ。
「ラオは、何ともない?」
「何ともないわけじゃないけど、まだ血は出てないな。出してみたら俺の色も透明だったりして……」
怖がる気持ちも分かるが、今現在その血を流している俺は目の前にいる。
『急ぐぞ。業壺なら、動くことはない怪異だ。場所も分かる、乗れ』
「あ、うん。ラオ、行こう」
「ああ。深火、ありがとな。また会いに来る」
『気を付ケテ……ワタシも、また、会いタい』
俺は穏慈に、ラオは薫に跨り、すぐに深火との間に距離ができる。そして、動かないというその怪異の姿は、砂の中から砂を見つけるようなイージーモードの速さで現れた。
その姿は、名の通りの壺。いや、ただの壺とは言い難い。壺の胴体に沿うように備わっている、牙の生えた口。
上方の口は、何も入れることができないような歪な形で、上部に向かって伸びる、数か所の尖った部位の先には、宝石のように硬そうな、そして光沢のある石がいくつも重なって備わっていた。
『業壺。我は、穏慈だ。聞きたいことがある。話をさせてくれないか』
その怪異に対して、穏慈は少し控えめに頼むように言う。この怪異には、こうした呼びかけが必要らしい。
その呼びかけを受け入れたと見えるその怪異は、高さの揃わない目を三つ、胴に現して言った。
『……キコエタ、ソノ、言。シッテイル、ソノ、デッド』
開き切らない三つの目は、俺を捉えて。すべてを知っているのは、俺だと。そう言った。