第百三十八話 黒ノ拠ル居ト消失
「お騒がせして、すみませんでした」
少し落ち着いてから、僕とソムは集まって来ていた人々へ謝罪をした。ソムの丁寧な態度で、ネロ家が起こした騒ぎの件を、昂泉の人たちは簡単に許してくれた。
そもそも、ソム自身が手を染めたわけではないこともあり、今回アマブレサペーレの全貌を暴いたことを、口を揃えて感謝していた。
「ソムちゃん、また遊びに来てね」
「カロン……ありがとう。私のことを心配してくれていた人がたくさんいるって、ガネから聞いて、嬉しかった。十年以上も前のことなのに、忘れられていなかったんだから……その分、ちゃんと救われた」
「うん。……それから、進捗があったらよろしく!」
「進捗? 何の?」
カロンさんは、ソムを自身の方に引き寄せて耳打ちをしていた。僕のいる場所には聞こえてくることはなく、何を話しているのかは分からないが、ソムは慌てて否定の言葉を繰り返し、それを見たカロンさんはにやにやと笑っていた。
「どうしたんですか?」
「何でもない! こっち来ないで!」
「えっ、何で」
気に掛ければ、今度は僕に対して当たりを強める。意味が分からないが、ソムの機嫌が悪いわけではなさそうなこともあり、それ以上の追及はしなかった。
「と、とにかく……みんな、本当にありがとう」
ソムのその一言で、今回の騒動は幕を閉じた。晴れ渡る空と同じような、清々しい面持ちの商い屋一同は、僕たちを優しく見送っていた。
豊泉の宿に戻って来た僕たちは、すぐに屋敷に戻るために、この場に来る際に持っていた鞄に荷物を詰め、二つの鍵を手に部屋を後にする。
場を去ろうとしたところで、もう一つの目的へと焦点を移す。
ホゼ=ジート。あの者は崚泉の方向へ向かっていたことが分かっている。この周辺で見かけられていれば、その情報通りの動きを続行していることになる。
特徴だけでも伝えてみようと、宿主に尋ねてみると、意外な答えが返って来た。
「ああ……そんな格好の男なら、つい先日ここに来たよ。泊まることはなかったけどね。崚泉まで行きたいって言って、道を尋ねて来たんだよ」
「道を? ……有難うございます」
─どういうことだ。以前、ホゼがザイ君を浚って身を潜めていたのは、間違いなく崚泉。その彼が、道を尋ねるというのは普通ではない。なぜ、知っているはずの場所を確認しなければならなかったのか。
これは、思いの外重大な手掛かりではないだろうか。
「どうだった?」
ソムにも、宿主から得た情報を伝え、屋敷へ向かって足を進めながら話をする。そのついでではあるが、長時間にならない程度でホゼが近くにいないかと見渡してみる。
しかし、片手間に探して見つかるものではないと、豊泉を越えてからは、捜索を諦めた。
「……不思議ね。帰ったら、ルノやみんなにも伝えないと」
「ああ、そうだな。それより、気丈に振舞っているけど、大丈夫なのか?」
ソムは、よし、と意気込んで、地を踏む足を強める。その姿は、確かに吹っ切れている様子が窺えるが、無理をしているのではないかと、何となく心配になった。
「いや、うーん……何ていうか、すっきりした。私を縛っていたものがなくなって、凄く、気持ちが楽なの。……そういえば、何であんな夜中に調べ回ってくれたの? 難しくなかった?」
「……何でだろうな。でも、あんないつもと違う姿見て、居たたまれなかったからな。聞き込みをしている時だって、耳を疑うことばかりで、ソムが落ちる可能性もあるってかなり悩んだし」
「えー……私そんなに不安定になってた?」
「なってただろ。だから尚更心配だったんだ」
そう言うと、考え込むように下を向き、歩く足は止めることなく進んでいった。ソムが大丈夫だと言うのであればそうなのかもしれないが、まだ、どこかで引っかかる表情がある。
とはいえ、事情が事情。立ち直れないほど大きなショックを受けていても、無理はない。
「……あのね」
「ん?」
「私、企みを知って父さんと向き合った時、迷わず殺しに行きそうになった。ガネに止められたとはいえ、あの時の私は衝動的にでも、この手を迷いなく振り上げた。……考えたら、凄く怖い。全く別の人格が顔を出して、支配されていった感覚。こんな感情が芽生えるなんて、思わなかった」
ソムが罪を犯さなくて良いようにと、僕は咄嗟にその手を止めたし、ソムの手が染まらなくて良かったと思う。
しかし、あのような状況に陥れば、誰だって自身の手で目の前の相手を殺したいと、そう思ってしまうものかもしれない。
「人は強くもあれば、脆くもある。裏切りや、恨み、そういう負の感情に蝕まれていけば、誰にでも、その情は芽生えると思う。責める必要はない。当分顔を合わせなくて済むんだ、その間に、棄てていけばいい」
「そう、なのかな……分からない。でも、ありがとう。たくさん助けてくれて」
ソムのためにソムを守る。嘘を言ったつもりはない。
あの時は、その命を守るという意味で言ったものの、それを超えた今、ソムが自身を見失わないように、少しでも前向きな方へ戻っていけるように、支えていくことができればいいかと、そう思う。
「あとね、気付いたことがあるの」
不安げな面持ちが徐々に戻っていき、いつもの表情を取り戻していく。どこか消えかけそうな様子もあるが、わずかに残ったそれは、時間をかけて戻していくしかない。
「私、ずっとガネに支えられてた。屋敷に来て、接点をもってから、どこかでガネを頼っていた。今回の件だって、私以上に行動してくれて、ずっと私のことを気にしてくれて……」
─ガネが、父と戦っていた時。私よりも前に立って、私を逃がそうとしてくれた。私がけじめをつけないといけない相手に、ガネが自身の手を抜きながら、そうしてくれていた事実。
あの光景に、どれだけの申し訳なさを感じたか。でも、その背中を偉大に感じて、頼ってしまって、一人ではどうしようもできなかっただろうということが身に染みて分かってしまった─
「だから、本当にありがとう」
突然の謝辞に、何となくむず痒いものを感じる。確かに今回、僕自身のために動いたわけではない。ただそれは、仲間であるソムの、歪んだ心をそのままにしておけなかっただけの話で、そう深く考えてはいなかったものだから。
どう答えようか、無言でいる間に必死で考えた。
「……それは、まあ。ルノだけじゃなくて、頼ってくれるソムにも、僕は救われていたんだ。このくらい何でもないし、お互い様だ。それに、自分で何とかしようとするのは認めるけど、無理をしようとするってことが今回よく分かった。制止役ならいくらでもやってやる」
「……うん」
ソムの心が壊れることなく、今のままで居られているのなら、今回僕がした行動に、意味はあったのだと思う。いつかまた、ソムが両親と顔を合わせることがあったら。その時、過ちに手を染めそうになったら。その時のブレーキになってくれればいい。
ただ、僕と同じ道に行ってしまわないように。僕以上の歪みを、抱えなくてよいように。
「心配かけただろうし、何か商い屋で買って行けばよかったな」
「あっ、そうだね。また来た時でいいよ」
ソムに限ったことではない。屋敷にいる仲間が、彼らが、屋敷という場所を心の拠り所にすることができるように。誰かが頼れるものとなって、多くある善悪の状況を乗り越えていくことができれば良い。そんな場所を望んでいるのは、僕だけだろうか。
「そういえば、あの時カロンさんに何か言われてたけど」
「ああ……何か、ガネのこと良い人だねって」
「それだけ?」
「それだけ!」
それ以上のことは教えてはくれなかったが、そういったソムの顔は笑っていた。
いつか落ち着いた時、また昂泉に出かけようと、ソムは僕に無理やり約束を持ち掛けてきた。
......
怪異の背に跨って移動することにも慣れ、髪をなびかせながら怪異を探す俺たちは、薫の誘導のもと、顔擬と秀蛾を見つけて、その目の前に立った。
『! でっど! きてたんだね!』
「本当だ、もうすっかり元通りだ」
あの時の弱り方が嘘のように、むしろ初めに会った時よりも調子が良さそうな秀蛾は、俺とラオを見てはしゃぎまわった。横にいる顔擬も、変わらない不気味な姿のままその様子を見つめているようだった。
『でっどがなおしてくれたんでしょ? すごくきぶんがいいんだ! たすかったよ!』
「それは凄く良かったよ。心配してたんだ」
『ガガ……グ、ガ』
俺たちのような言葉を発せない顔擬も、何かを伝えようと必死で声をあげる。それをその場にいる怪異が読み取り、言葉にして俺たちに教えてくれる。『本当に助かった』と、そう言っているらしい。
「でも、そんなに影響があったなんてな。ほんと、分かんないことはいつまでも分かんない」
「それだけの影響を広められるんだから、闇晴ノ神石がある場所はかなり重要っていうことは分かったけどね」
「それは言えてるな。……無事が確認できて良かった。深火は? 知らない?」
残る深火の姿は見当たらない。この付近にはいないと薫は言うし、また探すしかなさそうだ。変わらず跳ねまわっている秀蛾は、ついに俺たちの頭上をも踏み場にし始めていた。
『秀蛾、やりすぎだ』
『ごめんごめん! なんだかいごこちが……あれ? そういえば、でっどはにんげんだよね?』
以前それは確認しているはずだし、今になってまた聞くのかとも思ったが、気楽な怪異のようだ。こうしたことがあるのもおかしくはない。と、勝手な推測で安易に考えた。
「そうだよ」
『じゃあなんで? なんで? ここにいられているの?』
「……え?」
それは、怪異がすでに把握している事情であり、〈暗黒者-デッド-〉が特殊な存在であるということ。そんな中でこの問いかけをしてくる秀蛾に、ぴりっと全身の毛が逆立ったように感じた。
「どういうこと……? だって、それって、〈暗黒者-デッド-〉だから……」
『ちがう、おかしい。でっどのけはいが、いつもとちがう』
甲高い声なのに、それは真剣に紡がれていく言葉で、秀蛾から目を逸らせなかった。ラオは、慌てて薫に確認をしているが、薫も分からない様子。もちろん、穏慈も疑問符が頭上に浮かんでいそうな表情だ。
「いつもと違うって、気のせいじゃ……」
『ちがう! ちがうものはちがう!』
秀蛾の主張は、その一点張り。それ以上に進展がなく、意味が分からないまま立ち尽くしていた。
“〈暗黒者-デッド-〉の気配が違う”
それは何を意味しているのだろうか。
─それは、唐突に訪れた。
「!? ぐ、ゔぅ……っ」
『ザイヴ!? おい!』
『小僧もだ、どうなっている!』
全身に重りがついたように、立つことができない。目を開けていられない。苦しい。気持ちが悪い。頭が割れそうに痛む。多くの症状が、俺たちを蝕んだ。
「……っ、い」
俺たちの身に、何の前触れもなく訪れた重圧が意味するもの。それは、怪異にすら見当がつかないでいた。
『おんじ、くん。ぎんのところにいったほうがいいよ! でっどがしんじゃう!』
『ああ、そのつもりだ!』
秀蛾の促しもあり、俺とラオは二体の怪異にそれぞれ連れられ、吟のもとに逆戻りした。その間にも、嫌な重みはとれることなく、纏わり続ける。
─その頃の屋敷では、ある騒動が起きていた。
少年たちがどこにもいない。そう言って探し回る、一人の少女を発端にして。
妖息編 了