第百三十七話 黒ノ已(ヤ)ム密ト身ノ歪
まさか、あの男がソムを脅して目の前に立っている状況が作られるとは、予想していなかった。思わず顔に出てしまうところだった。
「ガネ……こいつ、あいつらが雇った殺し屋だって……ごめん、捕まっちゃった……」
刃先が首に付くかつかないか、際どいところまで迫られているソムは、その状況で、僕にその男の正体を知らせてくれる。こうして脅されるような立場になることを、誰が予測できただろうか。
「おおイビス! よくやった、さすがの手練だ!」
ビグラスはこの状況に目を輝かせ、まるでこの場で勝敗が決まったかのような感情の高まりを見せていた。その姿から目を逸らすように、ソムの足元に目をやると、そこに傷を負っていることに気付く。足の痛みを使って、身動きの自由を利かせないようにしたわけだ。
「俺にかかればこのくらいなんてことないね。……なあ、選べよ。灰色の旦那。ここで女を殺されるか、ネロ家に返すか」
「ソムのためにソムを守るんだろう? だったら私に返せ、なあ!」
殺し屋が出てきたことで調子に乗っているのだろう。威勢の良くなったビグラスは、鬱陶しいほどに僕に声を挙げてくる。しばらく黙っていてもらおうと、剣の柄で腹を思い切り突くと、一瞬唸り、地に伏せた。
「うわ、旦那えぐいねー。容赦なくやっちゃって」
「……返したとしても、殺す末路は変わらないのでは?」
「あー、あの後新しい契約ができたんだよ。この場で親元に戻れば売って、別の場所で生かすんだと。まあそりゃ俺が決めることじゃねぇし? 選ばせてやるよ」
男の目に、見る光は映っておらず、ただ冷徹なそれが、ひしひしと伝わってくる。いや、冷徹であるだけではない。この張り詰めた状況を、どこか楽しんでいるような雰囲気さえ、感じる。
ソムに身動きを取らせない刃は、変わらずそこに在り続ける。僕の答えを、じっと待っている殺し屋の男は、僕の答え次第でその手を容赦なく動かすだろう。
ただ、ソムも黙っているわけではない。彼女も立派な教育師、杖を持つ手には力が入っている。ならば、今は同じ立場として見るべきだ。
「面白いことを聞きますね。二択なんて狭い枠で左右されると思いますか?」
要は、その中に答えはない。僕が今見るものは、その男ただ一人。殺し屋相手であれば、僕も手加減なく相手にできる。
「……へえ、どうすんの?」
「言わせるんですか? 殺し屋の名を語るなら、察せるのでは?」
イビスの顔が、徐々にはっきりと、悦を感じさせるものになっていく。それは、僕同様、今現在の敵となる者に向けられていることは、言うまでもない。
「一応聞かせてもらいたいね、その行動の意味ってやつを」
「ソムは死なせないし、お前たちに渡すつもりも一切ないってことですよ!」
僕のその言葉は、男にどう響いたのか。すぐにソムを解放し、まっすぐに僕に対して刃を振ってきた。それを止めるべく、僕も剣で応戦すると、なるほど、殺し屋を名乗るだけのことはある。
「そういえば、殺し屋というと、青郡で亡くなった長髪の女性もいましたね……仲間だったんですか?」
「ああ? あー、アーリアって女? 仲間だったね。変な男に雇われてから、妙にめんどくせーことさせられてたらしーけど? 何、知ってんの? 殺したのお前?」
殺し屋という接点だけで、以前ホゼに連れられて青郡に来ていた女性のことを尋ねると、これは見事に的中した。
殺し屋の組織はあるようで、そこから雇われて、潜伏しながら地方に散らばっているのだろう。
「……殺したのは僕ではありませんよ。その女性から、何か聞きませんでしたか? その雇った男の話とか」
「この状況で何言ってんだよ、余裕かあ?」
「余裕かどうか、すぐに分かりますよ」
僕がここまで話す暇がある、つまり、そういうことだ。殺し屋と言うだけの動きは確かにもっている。ただ、その威力や速さは認められるも、僕が相手をするに値する鋭さはない。
「相手を見極められないのなら。僕を負かせることなどできませんよ」
交じり合う刃を弾き、柄の部分で男の腕を強打すると、その反動で刃を手放し、武器を失った。もちろん、隠し持っている武器はあるだろうが、それを出す時間を与えるつもりはない。すぐに針術を用いて、動きの自由を奪った。
「ぐあっ、が、あ、何、じた……!」
「─蝕害針。死にはしませんよ、殺し屋と言えど苦しいとは思いますけどね。さて、僕の余裕も理解できたでしょう? 聞いた話を聞かせてもらいましょうか」
「はっ、機密事項って、やつだ……雇い主の、情報は、流しちゃいけねー、ってなぁ」
「そう、残念ですね」
大したことのない殺し屋だ。一般人からみれば長けた身体能力だが、判断力は並みで、僕の相手にはならない。僕の手を下すまでもない、このまま警師に引き渡すほうが、良い裁きを下せるはず。
「……警師の方は?」
ソムが呼んだ警師は、行動が早く、すでに現場に到着していたらしい。僕の呼びかけで商い屋が声を出し、やじ馬を掻き分けるようにして出てきた。その数は、四人。殺し屋と、ネロ家を連れていくには十分な数だ。
「銘郡のガネ=イッド教育師、ですね」
「すみません、少々手荒になってしまいました。後の処理はお願いします」
警師の手に渡る、気を失ったままのビグラスと、毒の回りで体の自由が利かない殺し屋は、大人しく連れられた。殺し屋の身分が考慮され、三名の警師は先に場を去って行った。
「いえ、ご協力ありがとうございました。この二名で間違いは?」
「遠方に一人、ビグラス=ネロの妻が銃を持って潜んでいるはずです。捜索を」
「分かりました。ここから先はお任せください」
一通りのやりとりを済ませると、残った警師は捜索に走り、一人になった僕を見てか、ソムが駆け寄って来た。何度も何度も、謝罪と礼の言葉を繰り返しながら、本当に申し訳なさそうに、顔を上げることはなかった。
戦闘に不慣れな人間を相手にするのは、本当に面倒だ。これまで手を抜かずにいられたのも、相手が相手だったから。もう、一般人を相手にはしたくないものだ。
しかし、このことでソムが少しでも解放されたことと、今無事でいることは、本人にとって救いになっているであろうことを、心の隅で願った。
警師がソムの母、マーラ=ネロを発見し、僕の下へ報告に来た。一度しか顔を合わせていないが、その顔ははっきりと覚えている。銃を向けてきた時の表情と、暗い声。ビグラスとは異なった、ソムへの感情は残っているのかもしれないと、少しだけ気になった。
「一つだけいいですか」
「……何よ」
「……ビグラスはソムを道具のように見ていた。あなたは、どうしてそれに反抗しなかったんですか?」
ソムから昔起きた話を聞いた時も、ビグラスの話が目立っていた。この女性は、ソムに対するそれを、どう感じていたのか。
「……あの人は、何を言ってもダメだったの。私は、ソムを道具なんて思ったことは、本当にないわ。……本当なら、私が生かしてあげられた……。殺し屋なんていうものに、手を出すことがなければ、きっと……」
「でも、幼い私を擁護しないで、父さんの味方についていた母さんのその言葉、私は信用できないよ。何でもっと、私を庇ってくれなかったの。私は本当に苦しかったのに……私は、逃げ出すことしかできなかったのに!」
「ごめんなさい……本当に。銃を向けたことも、突き放してしまったことも。私は、受け止めて、罪を償う」
そう言い残して、警師と共に去って行くマーラ=ネロ。その後ろ姿は、ソムには歪んで見えているだろう。
「何で、今になって……そんな、こと……っ」
その頬を伝う涙が、どんな意味のものなのか。僕は聞くことができなかった。悔しさなのか、腹立たしさなのか。それは、ソムが口を開きたいときに、聞こうと思った。この時は、ただ、落ち着くまで、横にいることしかできなかった。
......
俺は穏慈の背に、ラオは薫の背に、定位置で〈暗黒〉をうろつく俺たちは、吟を探す。薫の鼻が利くこともあり、その臭いの案内で進んでいくと、さほど時間もかからないうちに吟の姿を見つけることができた。
『オオ、デッド。久シイ……気ガスル。顔擬ヤ秀蛾……アイツラ、モ、モウ元気ヲ戻シテイルヨウダ……』
「ああ、聞いたよ。ごめん、放っておいて。こっちもいろいろあってさ。今のところは、〈暗黒〉に異変はないって話だけど」
『アア、僅カナ歪ミハアルモノノ、空間ニ異変ハナイ……。タダ、今シガタ見エタコトハ気ニカカル……。オ前タチノ、歪ミダ……』
吟の放ったその言葉に、俺たちは何のことだか分からず、首を傾げる。俺はいつもと変わらない状態でいるし、ラオにも尋ねてみたが、変わりないという。
「俺たちがって、どういうこと……?」
『限界ガ、近イノカモシレン……何ガ起キテモ良イヨウニ、気ヲ、ツケテオケ……』
意味深なことを言う割に、はっきりとした答えは得られない。言葉の情報のみを組み合わせれば、それが〈暗黒者-デッド-〉に関わることであるというところにたどり着くものの、これといって自覚がない。何に気をつけておけばよいのか、皆目見当がつかないところだ。
「そ、そう……とにかく、本当に大丈夫みたいだね」
「うん。顔擬たちの様子だけ見て、戻ろうか。もともと俺の適当な思い付きだし。じゃあ、吟。ありがとう」
「ワザワザ、スマナイナ……礼ヲイウ」
〈暗黒〉に留まる理由は、今のところはない。気になっていた怪異の様子を確認できれば、俺たちにできることは必然的になくなってしまう。
屋敷に戻っても、これといって俺たちが得られる役目はない。戻ったら、また水溜槽での特訓になるだろう。あとは、ウィンを試合に誘って、自然魔を見てみたいところだ。
それから、昂泉に出かけたガネさんたちの件。二人は、いつ帰ってくるのだろうか。ソムさんのことは、解決できたのだろうか。その場にいないだけあって、現状がどういったものなのか、いろいろな思考だけが一方的にめぐっていき、もやもやとしたものが残るだけだった。
「穏慈、顔擬たちのところまでよろしく」
「薫はすでに俺を乗せる気満々の体勢だったな」
すっと薫に跨ったラオの横で、穏慈は屈もうとすることもなく、俺をただじっと見つめる。
突然何のつもりだと、黙って待っていると、どうでも良いような言葉が出てきた。
『我は乗り物ではないぞ』
と。
「頼りにしてるよ」
しかし、そうするつもりのない俺は、とりあえず穏慈を煽て、計算通り調子を上げた穏慈の背に、難なく身を預けることに成功した。
(ちょろい怪異だ……)
口には出さずとも、そう思った。