第百三十五話 黒ノ滾(タギ)ル怨嗟ノ情
「ソム、少し落ち着け。そのままだと……」
部屋を飛び出すように外へ出たソムを追う僕は、その様子を見る限りの不安を抱えていた。感情に揺るがされて、何をしようとしているのか。両親への復讐か、それとも、食い止めようと抗うのか。
ソムの表情からは、前者の可能性を感じ取っていた。
自身の経験を踏まえた上だ。今のソムは、僕の幼少期のあの時に似ている。事実とはいえ、もう少し覚悟をもたせてから話した方が得策だったかもしれない。僕がもった後悔、罪と同じものを、ソムが背負ってはいけない。
「狙うなら狙ってくればいい……私を殺せるなら……やってみせてもらう」
こんな状態のまま、ソムの足は昂泉に入る。僕もそれを追って、見守る形で昂泉に踏み入るが、商い屋を開く準備をしている商主たちが、ソムの表情を見て身を引いていることに気付く。
このままでは、まずいことになる。
ただ、それほどの憤りを、今のソムはもっている。それだけが、昂泉中に広がっていく。
「出てきなさいよ……殺したいなら、私はそれなりの力で抗うから! あんたたちの汚い息の根くらい、止められるんだから!!!」
少し開けたところに出ると、少し離れた距離であれば聞こえるほどの声で、ソムは立ち止まり、そう言った。やはり、そういうことだ。殺しにかかってくるなら、こちらがそのまま返す。ソムの拳は、強く握られたままだった。
「ソム、殺しは……」
やめておけ。そう続けようとしたところに、こちらに向かって大きくなる足音が一人分。斜め後方に視線を向けると、そこには、屋敷から戻って来たビグラスが、いた。
「久しぶりだな、ソム。やっと帰省か?」
「……分かってる癖にへらへらしちゃって。あんたが思っている通りになんかなってやらないから。私に何をさせようとしていたのか、その口から聞かせてほしいんだけど」
その口ぶりからか、彼もソムの言わんとすることを察したようで、舌打ちをして、真っ直ぐにソムをその目で捉えた。そうして、口角も、じんわりと上がっていった。
「その態度ってことは知ってんだろう? 私たちの計画を。どこまで知ったか……そうだな。お前を死んだことにし、それを事実にするために商いで出回りながら探していた……ってところか?」
「認めるわけね。でも、逆に言わせてもらうけど、私たちがどこまで知ることができたか分かってるの? その程度で事を終わらせられるとでも思ってるの? 私の生死はただの仮面……“偽令嬢”にして、いくらで売るつもりだったの」
それを聞いたビグラスの顔色は、これまでとは比べ物にならないくらいの豹変ぶりを見せた。これほどの変化があるということは、事実というわけだ。それも、そこまで知られるとは思っていなかったと見える。
「お前……それをどこで知った! そうか、灰色の男だな!? 邪魔ばっかりしやがって!」
「私の質問に答えなさい!!!」
僕が言葉を発する前に、空気を張らせたソムの一声で、場は静まった。何事かと、やじ馬が少しずつ寄ってきている中、ただ事ではない雰囲気に、その者たちは身動きを取ることができていなかった。
「ふん……まあ、得をする金を貰おうとは思っていたな」
「─っ! ……このっ、こんな、こんなやつの、……私はあんたの人形じゃない!!!」
「! 手は出すな!!」
言葉の攻防で済むのなら、僕の出る幕はなかった。しかし、ソムが小型の杖を取り出し、構えたことで話が違ってきた。咄嗟にソムの杖と、その腕を掴んで、動きを止めた。
「っ、何で、何で……。ガネ、離して、あいつは許せない……! 殺す!!」
「……ソム」
動揺に動揺で返すほど、その者の心をかき乱す者はない。僕が、声を荒げてはいけない。
静かに、確実に、ソムの目を見る。怒りと涙で崩れた表情と呼吸。僕と目が合って、静かに時間を見送る。その内、唇を噛みしめて黙った。
「君は、ソムの仕事仲間だと言っていたな。勘もかなり鋭い。私の計画が暴かれたのも、君の行動がきっかけだ。……どうしてくれようか」
「……心配しなくても、このままでは帰りません。どうせ、もう一人の方もこちらが見える場所にいるでしょうし。一応聞きましょう。どうしてくれるつもりですか?」
周囲がざわつく。僕の手は、腰にさしてある剣の柄に伸びる。手を添えるだけに留めたものの、それは威嚇として十分だったようで、ビグラスは一歩下がる。
「ふ、ふん。それなりに強いんだろうが、教育師は人殺しまでするのか」
「僕の相手は世に害をなすもの。そして、害のないものへの一方的な殺戮をする者。あなた方には、至って普通の裁きを提供しますよ」
それでも、なおも己の欲を醸し出してくる目の前の大人に、ほとほと呆れ返る。人間はいつまでも、こうして醜いものだ。
かくいう僕も、例外ではない。
「やってみろ、簡単には行かせ……」
無理やり余裕を見せてくる彼を、脅かすつもりで剣を抜く。その一瞬で、剣先は彼の喉もとを捉えた。
こうなるとは思わなかったのか、途中の言葉を飲み込んだ。驚愕の表情を見せたかと思えば、睨みをきかせる諦めの悪さに、思わず感心する。
「ソムの言葉を聞く気がないことは分かっています。あなたの思い通りにはさせません」
「っくそ!」
短剣を持っていたビグラスは、僕に向けてそれを振り上げる。僕の剣を避け、刃先は顔目がけて振り下ろされてくる。
後ろから、ソムが僕の身を案じるが、分かる。この人は、僕に“刃を立てるつもりがない”。その迷いのある動きに、僕の身は一ミリも動かなかった。
「な、なに……っ、何で、そんな」
「どうしてくれようか、と言っていましたね。この程度で僕の、いや、ソムの相手になるとでも思っているんですか? 場合によっては、ソムの方が僕より強いですよ」
「ちぃっ! 貴様のせいで、私のすべてが……!」
「お前が始めた事は、人一人の人生を崩落させています。そのすべてのために、ソムが犠牲になる必要はない!」
ビグラスの向ける刃先を自分から逸らすため、素手で弾こうとした時だ。
遠くから、微かな音が聞こえた。それは、確かに銃声だ。
「─!?」
確証こそないが、この状況で、ソム以外が狙われることは考えにくい。剣を引き、ソムの腕を掴んで、ビグラスとの距離をとる。それとほぼ同時に、僕たちとビグラスと隔てるように、銃弾の跡と思えるような形で、地面に穴が開いた。
「外したか……! 耳も良くその反応とは、実力は確かなようだな……」
「……あの人が、近くにいるんだ……」
先程までとは打って変わり、ソムは怯え始めた。
どこから来るかも分からない銃弾に、どう対処しようものか。僕も、そう何度も防ぐことはできないだろう。ビグラスに対してもそうだが、母親の方も、気を付けなければならないようだ。
「ソム、できる限り開けているところには出るな。僕が壁になる。周囲の人たちに害が広がらないように、逃げながら応戦しよう。それから、ソムは隙をついて宿に戻れ。このままだと危険だ」
「うん……ごめん。何か、とんでもないこと口走った気がする……」
「いや、大丈夫。落ち着いたのなら、その頭でどうにか隙をみつけてくれ」
「でも、ホゼ相手でもできたんだから、これくらい……」
「こんな状況で、ソムがいつも通りに動けるとは思えない。それは無理もないことだし、気にしない。言っただろ、もしもの時は、素直に守られてくれ」
「……わ、かった……」
何とか落ち着いたソムから距離をとらないように、その動きに合わせてビグラスとの攻防を繰り広げる。ソムはやじ馬で来た人たちへの注意喚起を行い、場に残さず、当事者のみになるよう配慮した。
「さて、ビグラスさん。何度も言いますが、僕はただでは帰りません。あなたたちが犯した罪と、利益のために目論む殺害。あらゆる面で、裁きを受けてください」
ソムの調子が少しずつ戻ってきている今、一般人相手に、僕はその二人を制圧する。
─しかし、もう一つ。怪しい影は、確実に顔を出そうとしていた。
▽ ▲ ▽ ▲
暇を持て余す俺たちは、珍しい時間に目を覚ましていることもあり、クレナイさんの商い屋が開くのをただひたすら待っていた。
何事もないということが、これほど平凡で、これほどつまらなく感じるのは、俺たちの異常が引き起こした感覚の狂いで。これをどうにかするなんてことは、すでに取り返しのつかないところにまで来てしまっている。
「はあ、まだかなー」
「初の零時になったばっかだよ。あと二時間はあるね」
「具体的に聞いたら気が遠くなりそうだ。ねーラオ、試合しようよー」
俺の落ち着かなさに、ラオは仕方がないというように「はいはい」と頷いて、誘いに乗った。早朝から広間に出向き、いざ竹剣を手にしようとした時、久しぶりに聞く声が、耳に届いた。
「君たち早いねえ」
声にこそ出さないが、その声、顔、間違いなくラクラス教育師だった。硬直して彼から目を離せないでいると、あちらの方からにこにことして近づいてきた。
「やあ、元気そうだね」
「あ、お、おは、おはよ、ござ」
うまく言葉が出ない俺を見たラクラス教育師は、困ったような顔をした。また俺たちに、試合の誘いをしてくるつもりなのではないだろうかと、続く言葉をじっと待っていると、予想しなかったそれが紡がれた。
「すまなかったね、君たちほど腕が立つ屋敷生なんて私のクラスにはいなくて、つい楽しくなってしまっていたんだよ。あんな態度になってしまって、本当に怖がらせてしまったみたいだし。そこは弁えて、謝るよ」
またどんな狂気に溢れたことを言ってくるのかと身構えていたのに、良い意味で拍子抜けだ。
「あ、そ、そう……なの……?」
「はは、失った信頼を取り戻すのには苦労するって、本当にその通りだと思うんだよ。君たちに至っては、初めから嫌なところを見せてしまったよ。君たちの試合を見せてもらってもいいかな」
そう言いながら少し離れた先の壁にもたれかかり、こちらの答えを待たずしてその姿勢になる。
そういうところは元からなのだろうが、今回は、以前のような嫌がらせにも似たことをする気はないらしい。遠くから、じっと俺たちを見る目に、狂気はなかった。
「そういうことなら……ね、ザイ」
「まあ、うん。俺は、別に」
双方の了承の元、俺とラオは、いつもと少しだけ違う環境の中で、試合に励むことになった。
「……あれ? ザイ、どうしたの?」
「……何か、変?」
しかし、この時はどういうわけか、いつもしないようなバランスの悪い動きが目立ち、普段の調子は出なかった。
俺らしくもないと思いながら、早めに切り上げさせてもらう。ラクラス教育師も、講技で見た時との違いに首を傾げ、「そんな日もあるよね」と、柄にもないような言葉をかけてきた。
─何だ、何だろう。凄く、胸騒ぎがする。
どうしてこんな、蠢いて落ち着かないのか。心を食い荒らす蟲でもいるかのような、気持ち悪い感じだ。
ラクラス教育師がいるからではない。
どうすれば、この不快感から解放されるのだろうか。何かの、悪い予感でなければいいのだけれど。
ぎゅっと胸元を握りしめ、大人しく、来るべき時間を待つことにし、俺たちはその場から失せた。