第百三十四話 黒ノ酷ナ調ト真
ふと目を開くと、部屋は薄暗く、静まり返った中に私一人でいることに気が付いた。
宿に戻って来てすぐに、部屋に閉じこもったまま眠ってしまっていたらしい。
肌が張っていて、頬がぴりぴりと抵抗を見せる。顔が引きつっているということは、鏡を見る前に分かった。自分をそれに映すと、目の周りは腫れ、涙の跡も残っていた。人に見せられるような顔でないことは確かで、部屋を出る前に軽く数回叩き、少しだけ血の気を戻した私は、部屋を隔てる扉を開けた。
足音はおろか、物音もない、すでにガネも寝ているのかもしれないと思いながらそうしたものの、そこで見た景色に、その人の姿はなかった。
「ガネ……?」
ベッドにいないだけで、どこかにはいるだろうと探すが、そのどこにも、いなかった。部屋そのものの扉には、施錠がされていて、私は完全に一人になっていた。
「……っ!」
それが分かった瞬間、一気に全身が震えた。
もしかして、誰かが押しかけてくることに気付いて、一人で行ってしまったのだろうか。それとも、連れ出されて行ったのだろうか。
どちらにせよ、彼の場合は武力で引きずられていくことはないはずで、自分から出たのだと思うが、この状況で、不安にならないわけがない。
(どこ……どこに行ったの? 巻き込まれてなんか、ないよね?)
そう考えていると、鍵が開く音が聞こえた。次いで扉が開き、足音が聞こえてくる。控えめな足音と、ため息交じりの呼吸音。
その音に親近感を感じ、それがガネだと断定して、飛び出していった。
「ガネ!」
「うわっ! びっくりした……。どうした?」
私の不安をよそに、平然として帰ってきた。安心して涙が出てくると、それを見たガネは、驚きを隠せないでいる。
「な、に……何で泣いて」
「何でいなかったの、どこ行ってたの! し、心配……したんだから……!」
「あぁ……そういうこと。いろいろ探りに行っていただけだ。ソムの調子を見ていると、その方が効率良いかと思って。有益な情報を得られたし、これでもまだ寝てると思って帰って来たんだ。泣くのやめろ」
私の頭を軽く叩いてから、シャワーを浴びると言って浴室に入っていった。
私のために、衣服を変えてまで歩きまわってくれていたという。その事実は、暗かった心に明かりを灯してくれた。それは、じんわりと温もりに変わって、広がっていく。
(……どこまで助けてくれるつもりなんだろう)
私の力でどうにもならないことが、ガネの力でどうにかなるとは思っていないけれど、あの行動力のお陰で乗り切れるのではないかと、そう感じ始めていた。
しばらくすると、ガネは浴室から出てきて椅子に腰掛け、私を隣に呼んだ。いつもの和装に身を包み、普段通りの距離感に安心感を覚える。
「まだ未の四時か……時間があるし、今から話す。みんな心配しているだろうし、遅くても明日には帰ろう」
「そう、だね。それより、ありがとう。私何もしていないのに……」
「僕がそうしたくてしただけだし、気にしなくていい」
それが気を遣っている言葉なのか、事実なのか、今はその点に関してはどちらでも構わない。その表情は真剣で、私の様子を窺いながら、どう話をするかと、考えているようにも見えた。
「……それで、何が分かったの?」
「ある程度は、ソムの両親のこと。でも、昂泉で聞きまわっていると、ソムを心配して、待っていた人がほとんどだった。豊泉でも情報をもってる人がいるって言うから予定より長引いたけど、夜中なのにみんな協力してくれて。凄く、好かれていたんだなって、羨ましいとさえ思った」
「そう、なんだ……何か、ちょっと照れるね。それを聞けただけで、救われた気がする」
もっとも、あれだけ分かりやすい失踪の仕方をしたのだから、両親の流した嘘を信じた人の方が少ないということにも頷ける。
あのでたらめな話を流したあの人たちの人間性は、かなり疑われる。
「ところで、両親がしていたことの詳細は知らないんだよな?」
「私を利用して商いを進めたり、広い範囲に出回って商いを拡大したりしてるっていう……こと?」
幼い頃、そのせいで追い込まれていったのは私自身。そして、事業拡大と言って、銘郡の屋敷に来たことも事実だ。
詳細と言うとその二点かと思ったが、その次に出てきた言葉に、思わず耳を疑った。
「それを、更に利用して……ソムを使って商いをするために、出まわりながら探し、探してほしいという要望と共に、商いを捻り込ませていた、というのは?」
「し、知らな……」
ガネが聞いてきたことが真実かどうかなんて、改めて考えるに値することでもない。しかし、それは間違いなく、あの人たちの利益のための行動で、その無理強いさには、思わず脱帽してしまうかもしれない。
─いや、それだけではない。今、彼が言った言葉。
「え、待って。私を使って、って、どういう……」
「……広範囲に商いを拡大しながら、ソムを探していたんだ。死んだと言いまわりながら、死んでないことを信じて探している……そう言って。彼らにとって、ソムがいなくなったことでできることは、利益そのものだったらしい」
「同情を誘うには十分だね……」
「それだけじゃない。……悪い、言うか言わないかかなり悩んだところだけど……昨日みたいに狙われていることを考えれば、伝えるべきだと思う。覚悟、してくれるか」
「え……なに」
真剣な表情に呑まれそうだ。この先の言葉は、間違いなく私を崩壊させる。それでも、ガネの覚悟を受け取った。
「富豪の商い屋に生まれた令嬢、と偽って、売るつもりだった」
「!!」
それは、私が思っているよりも酷で、人として残忍な姿だった。利益のために、娘すら放り出すという、あまりにも泥にまみれた事実に、思考は働くことを拒否した。
「……酷だろ、大丈夫か」
大丈夫か、そうではないか。もちろん後者に決まっている。それでも、その答えを返すことはできなかった。衝撃から、ガネの目を見ていられなかった。
「……やっぱり、知りたくはないだろ。その計画を知った営主も、耳を疑ったと言っていた。……はっきりしたのは、ソムがその身を狙われている、その事実だ」
その言葉で、思考は再度回り始めた。あの人たちの手によって、私の身が危ぶまれる。
「じゃあ……私が幼い時にあいつらの手元に置かれていたのは、売られるためなの……?」
もしもそうだとすれば、あの人たちの圧に耐えられずに逃げ出したことが、思惑そのものとも考えられる。富豪に近い家にまで上り詰めたのは、確かに私も知っていることではある。
しかし、私に罪を被らせることで、私の居場所をじわじわと奪おうとしていたのなら。それは、いつから計画されていたことなのか。
「少なくとも、ソムが昂泉を離れる頃には、それの確立の上だったはずだ。でも、彼らに左右される必要はない。きっかけはどうあれ、今は自分で選んだ教育師の立場にいる。それは誇ってもいいし、堂々と振る舞えば」
ガネのその言葉が、理解できないわけではない。それでも、混乱する私は、それを冷静に受け止めることはできなかった。
「……話を……」
「え?」
「あいつらに……話を聞かないと」
頭に血が上る、とはうまい言葉があるものだ。私の握った拳には、かなりの力が加わっていた。痛みを感じるも、怒りに震える体は、それを解き放つことはなかった。
「ちょっと待て、そんな状態で行ったら」
「だめ、今行かないと。どれだけ醜い人間なのか、あいつらは知らないと」
ガネの制止を振り解き、明朝の今、私は外に向かった。それを、ガネは無理に止めることはなく、ただ、私を見守るように、静かに後ろから追ってきていた。
▽ ▲ ▽ ▲
昨晩早めに眠ったからか、未の五時という早い時間に目が覚めた俺は、部屋で一人、考え事をしていた。
水への特訓は思ったよりも調子が良く、そこまで力を入れなくても良いかもしれないこと。
穏慈たちに話を聞く限り、〈暗黒〉は至って変わりなく、俺たちの出る幕はないこと。
現在不在のガネさんとソムさんの問題。俺が入っていけるものではないこと。二人がいないことで、そのクラスの講技や座学は休み、または合同の措置が取られている。
今のうちに俺ができることと言えば、昨日オミに頼んでおいた商い屋の件くらいだろうか。それもオミとゲランさんに任せた今、俺の行動には空白が生まれていた。
「……ラオ、起きてないかな」
軽い気持ちで、俺よりも早起きであるラオの部屋を訪ねることにし、しんとした屋敷の通路を歩く。この時間だとそこはひんやりとし、人気のなさを痛感させてくる。
これまで感じた気味の悪さとはまた別物のそれを身に浴びながら、目的の部屋に辿り着いた。
さすがに就寝中は施錠されていて、勝手に開くことはなく、何度か扉を叩いて音を出す。
なかなか施錠が外れる音はせず、あと一度だけ叩いても開かなければ、諦めて部屋に戻ろうと思い、実行する。
すると、部屋の主はゆらりと出てきた。
「……誰?」
その表情に、ガネさんと近いものを感じて思わず「やっぱり何でもない」と、自室に戻ろうと体を回す。しかし、ラオは訪問者が俺だと認識すると、目を擦りながら部屋に招き入れてくれた。
「どうしたんだよ……こんな時間に」
「ラオの寝起きが悪い時の顔。怖かった。ガネさんと同類だ」
「待ってよ……今何時だと思ってんだ……」
そうは言いながらも、ぼーっとした頭を覚ますために顔を洗いに行った。何だかんだ言って、順応してくれる友人で良かった。
「で? 珍しいね。寝られなかった?」
「いや、逆だよ。早寝早起きの型。あのさ、今俺たち手持無沙汰じゃん? 何かないかなーって」
「ああ昨日も似たこと言ってあいつら呼んだな……でもちょっと前まではこれが普通だったんだよ。俺たちが異常になっただけで……」
その点を言われてしまえばそれまでだが、それでも何もしないでいる時間ほど無駄なものはない。今の状況も、いつまで保たれるのか明確にならないのだから。
打てる手は、打たなければならない。
「そういえば、ソムさんたちのこと聞いたよ。ルノさんが、ザイが気にしてるみたいだって言ってた」
「だって、わざわざ出向くほどだろ? それでいてここに来てた商い屋も帰ったって言うし、ソムさんに何事もなければって思うよ」
「それで居たたまれないってわけね……じゃあ、俺たちはルノさんにホゼの行方の件をちょっと聞いてみようか」
そういう結論に至り、俺たちはルノさんを探して歩いた。ルノさんに充てられた部屋に行くと、鍵が開いたままその主はおらず、起きているのだろうと、教育師室を覗きに行く。すると、その部屋に一人、普段と変わらない面持ちで机に向かっているルノさんがいた。
「あれ、お前ら何やってんだ」
俺たちが話しかける前に、ルノさんはこちらに気付いて声をかけてくる。
続いて出てきたのは、しっかり寝ろ、こんな時間に歩き回るな、といった、まるで保護者のようなそれだった。
「自然と目が覚めただけだよ。ラオは俺が起こしたけど。それより、ホゼのことがどうなってるのか聞きたくて」
「ふうん……まあ、ザイヴ君には話してることだが、今本部から捜索に向かわせていてな。はっきり言って、進捗は芳しくない。一人の人間を探すというのは、結構難しいからな。向かった方向しか分からないなら尚更だ。ただ、本部の有能な人間を向かわせているし、そう時間もかからないだろう」
ルノさんがそういうのであれば、やはり任せるほかない。ホゼの動きに見当がつかない中で、行動を決めていくのも困難な話だ。いっそ、また屋敷に突然現れてくれれば、ルノさんもいる今なら制圧できるかもしれないのに。
「そうだったんだ。そういうことなら、やっぱり今俺たちにできることってないな。ザイ、そんなに暇なら、久しぶりにクレナイさんの商い屋にでも行く?」
「……何だ、暇なのか。いいんだぞ、俺の仕事を手伝ってくれても」
「いいのか、それで俺が適当なことしても」
机上での作業は苦手そのもの。低評価にある自信だけは、誰かに言われるまでもなく十分に持っている。
「ザイは座学がからっきしだめだもんな」
「そうなのか、お引き取り願おう」
「ルノさんが言ったんだよ……。でも、ホゼに関して情報がまだないってことが分かっただけいいや。ありがとう」
「ああ、また報告はしてやる。だからお前たちは、もう一度でも寝て来い。さすがに早すぎる」
そうは言われても、一度目が覚めてしまったものはどうしようもない。再度眠ることなど、俺の脳は否定に走る。
しかし、こんな時間に教育師室で仕事をしているルノさんにも、同様のことが言えるものだ。
「ルノさんこそ、寝た方が良いんじゃないの。寝てるの?」
「んー俺は……まあ、睡眠欲ってのが欠けているからな。眠くもならなければ、寝なくても平気なんだよ。俺の体質ってところだ。その気遣いだけもらっておく」
「不眠症とかじゃなくて?」
「また別物だ。だから、俺のことは心配するな」
「ふうん、そういうものなんだ」
そう返すと、ルノさんは柔らかい表情でそれに答えた。少しの違和感をもつが、それ以上を言わせないような目に、俺たちはそこを立ち去ることしかできなかった。
そして、ラオの提案に乗り、クレナイさんの商い屋が開く頃まで時間を潰すことにした。