第百三十話 黒ノ潜ンダ深淵
「すみません、娘が用意したものかもしれませんね。すぐに取り替えます」
次の日、昨日買い物に来たであろう人が苦情を言いに来ていた。その場でまず、父は私のことを出した。もちろん、何があったのか知る由もない私は、父の元に駆け寄って事情を聞いた。
「なあに、どうしたの?」
「ああ、この陶器が欠けていてね。持って来られたんだ。お前も謝ってこい」
そう聞いて、私は素直にお客さんの前に出て行って謝った。その人は私を見るなり、ため息を吐いた。
「こんな小せえのが娘なのか。手伝ってるのは偉いが、今度から気をつけろよ? それに、任せるものも考えねーと」
この程度で済むやりとり。ただ一つ、この時に引っかかったこと。
どうして私のことが挙げられたのかが腑に落ちなかったのは、あの陶器は“一日を通して触っていない”から。毎日店頭に並べるものの準備の役割を割り振って、次の日までに出している。でも、重たいものや、扱いにくいものは絶対に頼まれない。
これは商いをする中で、決めていた約束だった。
「お待たせしました。確認を」
「ああ、いいんだ。親切にありがとよ。それに、こんな子ども咎めねえよ。またな」
その人は、新しいものを持って帰っていった。そんな姿を見送った後、父にさっき思ったことを聞いてみた。
「そうだったか? まあ済んだことだしいいだろう。それより今日はいつもより閉店を遅くするから、お前はいつも通りに戻って寝なさい」
昨日言っていた偉い人とやらを迎える準備だろうか。話を逸らされたものの、優しくそう言う父に反発することなく、いつもの時間に部屋に戻り、お風呂に入ってから眠った。
次の日、朝起きていつものように行くと、父が怒っていた。そして、父の前には昨日とは違うお客さんが、怖い顔をしてこちらを睨んでいた。
「ソム! ちょっと来い!」
「え? 何?」
父に見せられたのは、ガラスが少しだけ割れている時計だった。もちろん、そんなものは知らない。
「俺が昨日金払った時は割れてなかったろ? ぶつけてもねえのに! 包装してる時は奥に入って行ってたからその時だろ! おかげでプレゼントが台無しだ!」
わけが分からなかった。私は昨日早くに部屋に戻ったし、包装をした覚えもない。このお客さん自体も、昨日は見ていない。
「知らないよ?」
「嘘は良くない。私はお前に頼んだ」
「……え?」
「本当にすみませんでした。すぐに取り替えます」
父は、無理矢理私の頭を下げて謝った。私は何もしていない、何も知らないのに、理由もなく怒られて、複雑な気持ちになった。
新しい時計にした後お客さんに渡すと、私に向かって「気をつけろよ、正直に言えばいい」とだけ言って帰っていった。
「……あんな多少の割れ気付かなかったぞ。あそこまで言わなくても。ソム助かったよ」
父は急に優しくなって、そう言った。その頃から、何かある度に私が怒られ、お客さんは私がまだ小さいのに頑張ってるんだな、と大きな咎めがなく収められていた。
それから数年、どんどんエスカレートしていった父は、掃除が行き届いていないこと、客が少ないことなど、何でも私のせいにしていった。
同じくらいの時、部品の欠けや不備が目立ったことで、商いは一時的にトップから落ちていた。それももちろん、どういうわけか私のせいになっていた。
そんなある日、私が正真正銘の失敗をした。お客さんにぶつかって、持っていた宝石のブレスレットを落として、壊してしまった。ブレスレットの割れた欠片は私の足に刺さってしまい、怪我が治るまでは裏の仕事をすることになった。
父が「言う通りにしていろ」と、私に文句を言い始めたのは、その頃からだった。
─そして、私が十一歳になった頃。
父が僅かではあったが、知人からお金を借りていたことが分かった。店は安定しているし、返す余裕だって十分にあるはずなのに、どうしても返さなかった。その知人が訪ねて来た時も、もう少し待ってくれ、と言って。
どうして返さないのかと聞いてみると、その答えは、「私が稼いだ金は自分で好きに使うもんだ」と。お金を借りた理由までは、私もバカらしくて聞かなかった。
しばらくそのままの状態が続くが、当然、お金を返さないといけなくなる時は来る。そのうち、父は私を働きに出し、私が稼いだお金を全部持って行った。足りない分は、次の約束日を決めてその日に返すと言い、私が稼げなかったら私が殴られた。
「何で私なの? お金を借りたのはお父さんでしょ?」
「お前が払ってくれるんだろう? 優しい娘がいる。そう言ったら、あいつはそう解釈したよ」
「何で!? ねえ、お母さんも何か……」
「頑張りなさい。誰のおかげでこんなに商いを続けられているの? お父さんがお金を借りたとはいえ、誰も知らないだけでうちは今富豪の手前なのよ」
二人とも私のことを見てくれないこと、自分勝手で、自身の欲、都合しか考えていないこと。そういうことが分かり始めて、お店を通じて友人になった女の子─カロン=ディナス─のところに行くようになった。その子は、私の話を聞いてくれて、好きな時に来てもいいと言ってくれた。
時には、家にいたくなくてその子の家に泊まらせてもらったこともある。しかし、しばらく帰らない日が続くと、父の呼びかけで集まったらしい商い屋が、集団で私を探しに来て、家に帰らされた。そのたびに怒られ、商売にならなかったのを私のせいにした。
その時は、さすがに私も怒らずにはいられなかった。どうして私が悪いのか。どうして商売に私が関係あるのか。どうあっても自身ではなく、子どもの私を悪くすることの意味が、私は全く分からなかったから。
「何で私のせいにするの!? 何もしてないのに、何で私が悪いの! 私をいじめてるんでしょ!」
でも、のうのうとして言った。
「私の罪はお前が被るものだろう。それでうまくやっているんだ。いじめじゃない」
そんなことを言われた私は、このまま家にいる意味もないと感じて、どうにかこの家を出る方法を探した。
..▷..▷..
思い出すだけで、私の身は震えていた。親の失態をすべて背負わされ、子どもなりに重荷を感じていたことが蘇る。父に言われるがままの人形にでもされるのかと、思ったくらいだったのだから。
「父にとって、私は都合のいい人材になっていたの。幼い私のせいにしておけば軽く収まるからって」
幼い頃の話だ、私一人で生きていくにはどうにもならない。仕方なく我慢するしかなかったあの数年間は、私の負担でしかなかった。もちろん、子どもらしく遊んだことだってある。楽しいと思わなかったとまでは言わない。それでも、父のしたことで、私は確実に傷を増やしていった。
「……母親も、一緒になっていたのか?」
「母……も、父に従って……私を、助けてはくれなかった。その少し後、銘郡の屋敷から来たっていう人がお店に来たの。純粋に興味が出たから、お店を出たその人を追って聞いた。親元を離れて集団で生活している人もいる剣術屋敷だって。剣なんて扱ったこともなかったけど、家にいるよりはましだと思った」
そう、これが、私が家を離れたいと思ったきっかけであり、今の私を作ったもの。
屋敷に来るという選択肢は、あの父母がいなければ挙がらなかったもので、もしかしたら、今でも商い屋を営む身だったかもしれない。
それを拒ませた父が、今この屋敷で商いをしようと屋敷長を丸め込もうとしている。居ても立っても居られないのに、あの人と面と向かい合うことを考えると、何も口出しができなくて、悔しさを噛み締める。
「それが、逃げようと思った理由か。酷だろうし、僕が何とか……」
ガネは私を気遣って、動いてくれようとしている。それでも、私は話すことを止めることができなかった。これまで誰にも言ってこなかった苦しさを、こんな中途半端に終わらせられなくなって、ガネに構わず話し続けていた。
「私……あの人たちの娘だと思うと、自分の身すら切り裂きたくなっていた時もある……何て汚い人間なんだって。本当に、嫌い」
いや、本当は、人間は誰でもどこか汚いものなのかもしれない。それを表に出さないように、自分の生を全うしようと、必死に生きている。
耐えることのできない人が、私の父のようになり、人を苦しめるのかもしれない。
「悪い、もうやめよう。事情は分かったし、僕が話をつける」
「ううん、聞いて、お願い。……私が家を出たのは、ここの場所を知った二日後。家を出た日に、私は十二歳になった」
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十二歳になると、泉域では祝福を受ける。昔、十二歳になる前に死んでしまう子どもがとても多かったらしく、今後の幸を祈るものとして根付いた、泉域独特の習わしだ。
その日、私もその習わしに沿って、あの人たちに連れられて祝福を受けに行った。
その頃には、アマブレサペーレは昂泉で一番人気のある商い屋になっていた。安くて揃っている、そんな理由から。
そのため、祝福を受けに行った先でも名は知られていて、とてもお祝いしてくれた。十二歳になったことへの喜びと、幸福感とを感じ、私はこの時、機嫌が良かった。
しかし、そこで私を祝ってくれた人の言葉は、一瞬で埋め込まれた傷を抉った。
「ソムちゃんはお父さんをたくさん守っているんだね」
「優しいね」
「自分を大切に、お父さんお母さんが悲しむからね」
自分の心がざわついたことが分かった。あの人たちは揃って「そうだぞ」「いい子になってね」と、笑顔を振りまいている。そんなこと思ってもいない癖に、口先だけの最低な親だ。
父の口癖は「言うことを聞け」。
母の口癖は「誰のおかげでお金持ちなの」。
思い返すだけで涙が出てくる。
私が優しいわけではなく、あの人たちが権力で物を言わせないだけだ。
嫌だ、こんなところにいたくない。いるべきではない。一刻も早く、逃げなければ。
大切な思い出もあるけれど、私はここにいたらいけない。私は、あの人たちをおいて、一人で家に走った。
後ろからは小さな声で笑う声が聞こえてくる。この時、あの人たちには何を言ってもダメなんだと。私の言葉なんて、届きはしないんだと諦めがついた。
同時に、一人闇の中にいる私と、私を道具のように扱うあの人たちの間に、大きな壁が隔たったのを感じた。まるで目の前で見ているかのように、ずっしりと、大きな壁だった。
家に帰り着いた私は、大きな鞄を引っ張り出して、泣きながら物を詰めた。ずっとずっと一緒にいるはずの血族と、こうした別れをしなければならないことを、私は嘆く。
しかしそうしなければ、私は、私を守れない。その事実だけが、家を背に走る私に圧し掛かる。
道に迷いながら、何とか歩いて、歩いて、歩き続けて、二日かけて、屋敷に辿り着いた。