第百二十九話 黒ノ心ノ清メ
妖息編
思いの外長く、数日間に渡った屋敷としての日常。その中で、本部長が進めたホゼの捜索は、確実性のなさから難航することが予測された。
しかし、屋敷の在り方として機能したこの日々は、少年たちにとっても、教育師にとっても、良い休息となり充実するものとして、平穏に過ぎようとしていた。少年たちが、また過酷な渦に帰るまでは。
─平穏に、過ぎるはずだった。それは、本当に突然に、彼女に襲い掛かってくることになる。誰も予期せぬ来訪者、それは、彼女にとっての闇、そのもの。
応用クラスの座学。基本クラスとほとんど変わらないそれは、応用生の眠気を誘う。前で紡がれる言葉など、まともに聞いている者は数えるほどに留まる、かとも思われるが、この座学は違う。その睡魔に負ければ、目の前に立ちふさがるのは、灰色の影。
「……何度目ですか、起きなさい」
「……顔を上げたらホラーが待ってるから俺はこのままでいることにしたよ、ガネさん」
その睡魔に負けてしまった俺は、先程まで前方で座学を講じていたガネさんを目の前に、体を起こすことを拒んでいた。寝てしまっていた俺も俺だが、ガネさんの顔色は言われるまでもなく想像できてしまっている。そんなものを見るために、わざわざ素直になりたくもないものだ。
「まったく、座学の時間が終わってまで何を反抗しているんですか」
「あんたの顔見たくないからだよ」
「そんなこと分かっていますよ」
「分かってんのかよ!」
その即答に、思わず顔を上げてしまう。俺の拒みも、容易く破られるものだ。それをいいことに、一瞬で俺の額にぐりぐりと拳を当ててくる。久しぶりの痛みに低い声で唸っていると、いつしか力が加わらなくなった。
「いってえ……」
すでに解散した座学部屋に残る、俺とガネさん、そしてもう一人、俺の様子を気にかけているラオ。こうなることが分かってか、少し距離をおいて、俺を窺っていたようだ。
「ガネさん終わった? ……マジで寝てんだもんな。俺もさすがに起こそうとしてたんだよ?」
「見てたなら止めてよ……もっと全力で起こして」
「その前に、睡魔に身を委ねないでください。今日はそこまで長時間ではなかったでしょう。基礎学しかしていませんし。ほら、まだ初の五時ですよ」
ガネさんの言う通り、現在初の五時を過ぎたばかりで、もうしばらくすると食堂も込み合ってくるだろう時間帯だ。聞いているだけというのはつまらないわけで、時間云々は俺の問題ではない。
「明日は講技を組んでいるので安心しなさい、僕からこうされることもないはずです」
「座学で寝るのは想定済みで、止めようともしないのか」
「止めたところで聞きますか?」
そこを突かれると、肯定することはできない。否定したところで、座学に弱い俺の集中力が途中で絶えてしまうことは、俺がよく知っている。
「よく分かってんな、その通りだ。じゃあまた明日」
「少しは反省してほしいものですけれどねぇ……!」
その手に拳を構えているのを捉え、俺はラオの腕を引っ張り、駆け足で部屋を離れた。
▽ ▲ ▽ ▲
「ねえソムちゃん、ちょっと」
基本クラスの講技が終わり、基本生もいなくなった広間を後に、教育師室に向かおうとした時。ここ最近で講技の時間に顔を出してくれているノームに呼び止められ、私はその扉前で立ち止まる。その顔はどこか不安そうで、昨日までとはまるで様子が違っていた。
その表情に、何があったのかと純粋に気になり、広間の中に戻った。
「どうしたの? 改まって」
「あのね、変な話なんだけど……私、夢をとても鮮明に覚えてる時があって……。そういう時って当たるの。予知夢……っていうのかなぁ」
聞かされたのは、夢の話。ノームの夢に私が出てきて、殺されかけていたこと、苦しめられていたことを、その口から伝えられた。予知夢と聞けば動揺もしてしまうが、それは夢の中での話だと、自分に言い聞かせた。
「……でも、夢でしょ?」
「そのままのことが起きるってわけじゃないの。でも、その夢に出てきた人に、本当に何か起きるの。嫌なことも、良いことも」
「それって、私が死んじゃうかもしれないってこと?」
「ううん〜そこまでは。でも、そんな夢を見ちゃったから……。脅かすわけじゃないの。私、ソムちゃんが危なくなるの嫌だから、言っておこうって思って」
ノームが予知夢を見ることがあるなんて、聞いたことがない。半信半疑で聞いて、何となくしか受け止めていない自分がいた。予知夢で人が左右されたなんていう話は、聞いたことがなかったものだから。
「……そっか、ありがとう。一応気をつけるよ」
「この際、頼れる教育師に守ってもらった方が……ガネ教育師とか」
「え? 誰?」
「あ、ううん〜。何でもない。ほんとに気をつけておいて」
ノームは本当に私のことを心配していて、それからも繰り返し「気を付けて」と念押しをした。それが私に不安を感じさせるが、やはり夢だと思い込ませて改めて広間を出た。ノームも出たところで、使う予定のない広間を施錠し、教育師室に向かった。
ちょうどその頃、何かの商い人が訪ねてきていたようで、屋敷長が案内をしているところを見かけた。
屋敷長は機嫌が良いようで、高らかに笑い、テンポよく話を進めていた。その様子に珍しさを感じながら、商いには興味が湧かず、素通りをした。
「……ここにも商い関係が出入りするんだね。こうやってちゃんと認知したのは初めて」
「そうだよね〜。私は何度か見かけたことあるけど、いつもは屋敷長も面倒そうなのよ。あんなに話してるところは見たことないわ。……ねえ、ちょっとだけ覗いてみない?」
「ちょっ、ノーム、聞き耳を立てるのは……」
そうは言いながらも、普段と違う屋敷長の姿だと知ると、その相手は気になる。中を案内するほどだから、初めて来た人か、何かしらの理由で中を見たがった人か。
少しだけ。そう思って、ノームの後ろから話を聞いた。
「いやあそれにしても、遠くからわざわざ大変じゃったろう」
「実は事業を広げるためにもっと各所を回ろうと。人が集中しているひとつは屋敷だったもので、他の屋敷にも寄ってきましたよ。そこでも反響は良くて、是非ここでも受け入れてもらえたらと」
「そうかい。屋敷にいる者たちはあまり外に出んからな。あなたのような商い人であれば、このような商いは助かる」
会話を聞きながら、少しの悪寒を覚えた。確かに商い人のようで、物の説明をしながら屋敷長と話し込んでいる。荷物は多く、玄関付近に置いているという話だ。それは、正直なところ私たちにとっては助かるもの。
─それなのにどうして、私の心はざわざわと、引っかかっているんだろう。
「……どうしたの、顔が真っ青だよ?」
いや、違う。分かりたくないだけだ。私は、この声を知っている。
そして、あの服についている五角の形に刻まれた、三連の線のマークも。
「私たちの商いは、安く良い物を売り出したくて。妻も協力してくれているおかげで、仕事もしやすいですよ」
「地方で人気もあると言っていたのう。……あなたの名はなんと言ったかな」
「ああ失礼、商い名しか名乗っていませんでした。私、商い名“アマブレサペーレ”の主、ビグラス=ネロと申します」
「!!!」
その瞬間、私は踵を返して走っていた。正確には、聞く前から確かに分かっていた。それに反した、驚きと恐怖で、その名を聞くまで、その場を立ち去ることができなかっただけで。
「ソムちゃん!?」
ノームは、私の行動に驚いて私の名を呼ぶ。私はそれを呼ばれたくなくて、必死で遠くへ逃げた。自分でも分かっている。その顔が、引きつっていることくらい。ある程度離れたところで、壁に寄りかかって考えた。
あの人にだけは、見つかりたくない。追い返さないと。帰ってもらわないと。その思いだけでいっぱいになる心は、それ以上も以下も、受け入れることができなくなった。
しかし、私が帰ってもらうようお願いしても、私の力ではきっと無理で、一種の絶望を感じていた。
ノームの言った予知夢。そのままが起きるわけではなくても、その者に何かが起きる。偶然にしては、タイミングが良すぎてぞっとした。
(どうしよう、どうしよう……私、もしかしたら、ここから……っ)
─離れなければならないかもしれない。
追い出せないなら、私がいなくなるしかない。そんなことを考えた。
「ソム?」
「!」
たまたま通りかかったその人を見て、思わず涙腺が緩んだ。それを堪えようと、ぐっと力を入れる。でも、脳がそれを聞き入れず、頬に伝っていくものを感じた。
「えっ、何、大丈夫か?」
「う、あ、ガネ……どうしよう、私、わた……し……」
その場でしゃがみこんだ私に、ガネはすぐに歩み寄ってきて、しばらく黙って横にいてくれた。
場所を変えようと、ガネは自身の部屋に招いてくれた。二人掛けるには十分のソファに座り、深く呼吸を繰り返す。しばらく止まらなかった涙は、ゆっくりと勢いを緩め、落ち着いた。
「……ごめん、急に」
「いや……。話せるか?」
「……うん。本当は、誰にも言うつもりはなかったの。今来ている商い人のこと。それが、私がここに逃げてきた理由……」
「それを聞くのは、僕でいいか?」
ガネなりの配慮か、そう尋ねてくる。もちろん、あの場を助けてくれたガネに、話さない理由はない。
「ううん、むしろ、ガネだけでいい。あんまり話したくないの……」
そう言うと、「分かった」と一言だけ返し、私の話を静かに聞き始めた。
..◁..◁..
昂泉は、商いが盛んな地域。崚泉や豊泉と隣接した地域で、周辺からの客も多く訪れていた。その商い屋の中の二トップは、昔から競り合いが激しかったという。そのトップの中に、ネロ家が商う「アマブレサペーレ」、ビグラス=ネロがもつ、豊富な種類を揃えた商い屋があった。
その家に生まれた一人娘は、十年ほど前から、姿を消していた。
事の始まりは、その数年前に遡る。
「お父さん、お母さん、今日お客さん多いね」
七歳になった私─ソム─は、少しずつ店の手伝いをするようになっていた。その手伝いにも慣れてきて、お客さんとも親しくなっていた。
「そうね、何かあるのかしら」
「よーっす、ソムちゃん」
そんな話をしている途中でも、お客さんは構わずにやって来る。この日は、朝から何かのお祭りでもあるのだろうかと思わせるくらいの賑いを見せていた。
「こんにちは! お兄ちゃん、今日って何かあるの?」
「今日は何にも。明日、泉域を取りまとめている人がこの辺りに来るってんで、歓迎の準備してんだよ」
泉域は、崚泉、豊泉、昂泉をまとめた総称。前はそれぞれに一人偉い人がいたものの、泉域として一人の偉い人がいればいいということで話がまとまって以来、今の形になったらしい。
「そうだったんですか、私も知らないことでしたよ。どこでその話を?」
父と常連のお兄ちゃんは、その話で盛り上がっていた。その間にも、母と二人でお客さんの対応をする。やがてお客さんも落ち着いてきて、少しだけ時間が空いた。その隙に自分の部屋に戻って、少しだけ寛ぎながらジュースやお菓子を口に入れる。こんな日常が続いていた。
続くと、この時は思っていた。