第十二話 黒ノ安ラグ白
その日、ラオに付き添われて部屋に戻ってからは、何の予定もなく、肩の傷のこともあって無為に過ごしていた。夜になってから、シャワーを浴びようとした矢先、ふと、俺が原因で中止になってしまった友人との約束を思い出した。
また今度、そう言っていたことを。
「ザイーっ、入るよ」
図ったようにラオが部屋の扉を開け、その顔が現れる。着替えを持っている俺を見て、部屋で待ってるからと言うが、特別すぐに浴びたいわけでもない。衣服をベッドの上に置いてから、ラオが腰を下ろしたソファに、並んで座った。
「あれ、シャワー行かないの?」
「後で良い、それよりさ。こないだ遊びに行けなかったやつあるだろ? 俺、もう無闇に引っ張られないだろうし、長期休暇が終わるまでの間に行かない?」
そう、長期休暇が終わってしまえば、クラスの違う三人の休みや時間が合うことは減ってしまう。講技の内容によっては、そんな余裕すらない日も出てくるだろう。
「あー、それもそうだね。じゃあ明日は急だし、明後日にする?」
「うん」
ウィンには後ほど伝えに行くとして、俺を訪ねて来たということは用事があったはずだ。何も考えずに俺の話を持ち出してしまったが、話の区切りをきっかけに、ラオに再度話を振った。大した用事ではない、と答えたラオの表情は、とても優しい笑顔だった。
「怪我どうかなあと思っただけだから」
気を遣ってくれているんだと思うと、申し訳なさが半分以上を占める複雑な心情になる。
「痛むけど、ほんとに平気。ラオが気にすんなよ」
「だって凄い痛そうだったから……見て、あの怪我思い出したら鳥肌立つの」
「うわ、俺以上」
七分丈の袖口から見える腕は、確かにラオの心配をそのまま表していた。がっしりしている腕に、薄く血管が浮いている。心なしか、肌の色が薄い。
「まあ、元気そうだからもう心配しないことにするよ。……再の二時、ならまだ起きてる時間だし、ウィンのとこ行こうか?」
時間を確認し、それに賛同する形で、ラオに続いて腰を上げた。
ウィンの部屋の前まで来て、扉をノックする。すぐに錠を外す音が聞こえ、室内との隔てになっていたものが彼女の手で開放された。ウィンは普段の格好で立っていて、二人で部屋を訪ねたことに、多少何事かと思ったらしい。
「あれ、何? 揃ってどうしたの?」
そう尋ねるウィンは、結構、真剣な表情だった。
「いや、そんな真面目な話じゃなくてね。俺もう大丈夫だから、明後日出かけないかと思って」
「ほんと!? 予定もないし、良いよ!」
喜ぶウィンに、ラオは「良かったなー」と言って、その頭を撫でた。俺たちよりも少し抜けて背の高いラオのその仕草は、兄のような感じだ。
「ザイが飯代出すって」
「ありがとうザイ! 頑張ってお昼作るね!」
「え、俺初耳…………まあいっか」
悪気がなかったとはいえ、一度約束を無にしてしまったのは俺だ。明日中に昼食の材料になるものを買いに出かけることを伝え、また違った気晴らしになりそうなことを期待した。
「明後日は初の四時に迎え来るね」
「分かった、じゃあとりあえず、また明日ね」
手を振るウィンに手を振り返し、扉が閉まったことを見届けてから、場を離れた。
そのまま、一日部屋にいたこともあって、話をしながら適当に歩くことになった。途中、ホゼと戦闘になった場所の近くを通りかかると、立入禁止区域になった上で、そこに付いていた血がほとんど消えている状態になっていた。
しばらく歩いた後に、部屋に戻ろうとしているところでガネさんに出くわした。
「二人お揃いで」
「あ、ガネさん」
書物を持ったまま、俺たちの目の前で足を止めて軽く笑みを作っている。何か考えているのか、それとも自然ととられた仕草なのか。
「あの現場、というより、あの時。刺激が強すぎたでしょう。何か息抜きをと考えているんですけど」
「刺激はまあ……でも大丈夫」
「明後日、ウィンと俺たちででかけることになって」
「それは良いですね。……僕も混ぜてもらっても?」
「えっ!!」
「あー、良いですよ。珍しくて新鮮だし」
またも見事に、俺が突然消え去ったかのように話が進んでいく。俺に聞いたところで、今しがたの反応からも断るだろう、ということが二人とも分かっているということだ。
「まあまあ、四人てのも新鮮なのに、教育師と出かけるなんてないでしょ」
「……」
ふてくされている俺の眉間に寄る皺を、ガネさんは面白そうに親指を使って伸ばしてくる。その顔の悪気のなさといったら本当に清々しいほどだ。反発するように持ち上げられた額は痛くなり、ガネさんの手軽くを叩いて弾いた。
「……眉間が張ってる」
「変な顔でしたよ」
「そりゃそうだろうよ!」
相手をするのが面倒になった俺は、渋々ではあるものの、その申し出を受け入れた。
......
『穏慈、戻っていたか』
我の姿は怪異の形を取り戻し、慣れた体で〈暗黒〉を彷徨いていると、薫に接触した。その発音は、この短期間の中でしっかり修正されており、聞き取りやすさが増していた。
『お前』
『ふん、私も愚かなままではないわ』
その言葉から読み取れることは、薫も〈暗黒者–デッド–〉と契約をしようとしているということ。すでに我が済ませているものの、薫の狙いはもう一つの片割れと言われる者だろう。
存在が二つあるのなら、契約もその双方とできる可能性はある。もしできることなら良いのではと背中を押し、我も少しだけ協力することを約束した。
─ある陰が、世界に手を伸ばす。それは、再び少年の身近に起こることを予測させる、余りにも濃い陰だった。
......
時は経って、俺たちは一夜を明かしていた。
明日の食事の材料を用意するべく、屋敷の外出管理担当に申請・許可を貰い、ラオと共に銘郡の中の町に出ている。町はそれなりに広く、店も多いため、連日多くの人が歩いている。
「全部クレナイさんの所で買えるな」
「うん。でもクレナイさんの店ちょっと遠いんだよなぁ」
クレナイさんは、俺たちがよく行く商い屋の店主の男性。その商い屋には食料もあれば、文具も、もちろん細々とした雑貨物まである。色々と便利で、ここに行けばまず間違いない。ただ、屋敷から行くには些か遠い。
「じゃあ裏道通ろう。で、競争な」
「臨むところだ」
そう言った瞬間、俺たち側にある台を使ってある丈夫そうな倉庫の屋根に飛び乗る。横に並んだラオを見ようとすると、すでにラオは前方を走っていて、俺は必死で追った。
「ラオ反則!」
細い道から、屋根の上、木々の合間など。様々な場所をするりと通り抜け、クレナイさんの商い屋の前まで僅かになった。前を走るラオに追いつく間際に、目的の場所に到着してしまった。
「勝ったー!」
「はぁ……はぁ……、ずる……」
「でもこれで抜けたら凄いでしょ?」
それは一理あるが、突然走り出されたらたまらない。息を整えるべく、数回大きく呼吸をしてから、クレナイさんに一言声をかけた。俺たちの来店に気づくと、他の来店者を相手にしながらも、歓迎の声をあげた。
「よ! 今日のご用は?」
「今日俺の手持ち千バリだから、それで買えるくらいの食材」
クレナイさんのお勧めも含め、ある程度揃えることができた。屋敷に帰ると、まっすぐにウィンの部屋に行き、食材を渡す。ウィン曰く、料理よりもお菓子作りの方が好きらしいが、苦手でもないため作ると言うのであれば頼っている。
扉口でそのやり取りをしていると、昨日と同様の姿のガネさんが通りがかったようで声をかけてきた。それにしても、今までほとんど面識のなかった人とよく会うようになったものだ。
「急によく遭遇するようになりましたね」
「ストーカーしてんの?」
「嫌な言い方しないでください、偶々ですよ。これを運んでいたんです」
ガネさんも俺と同じことを思っていたようだ。俺の冗談にも平然と返す様子に、ウィンは呆然としていた。
ガネさんと関わりを持つようになった成り行きを簡単に説明すると、鎌探しに協力していたことを含めて納得していた。次いで、ガネさんが運んでいるという書物に目を向ける。それは少し分厚く、俺は一瞬で見る気が失せた。
「目を逸らしているところ追い討ちをかけますが、休み明けに取り組む内容です。基本の最終形勢と応用をまとめた一冊です」
ラオがガネさんの持っている教材を一冊取り、パラパラと中を見る。捲っているのを横から見てみると、本気で見る気を削がれるものだった。これを食い入るように見るラオを、俺は険しい顔で見た。
「ザイ君すっごい変な顔になってますが、期待してますよ」
「あーそう」
「あ、ウィンさん。ラオ君たちには快諾を得ていますけど、明日僕も混ぜてもらっても良いですか?」
(俺は快諾してないけどな……)
素面を隠している、と言えば良いのだろうか。側から見える穏やかそうな表情に、違和感しかない。
「そ、そうなんですか? じゃあお料理頑張らなきゃですね」
「悪いけど、宜しく。また明日な」
ラオの気遣いににこりと笑い、静かに扉が閉まると、部屋の中からパタパタと足音が聞こえた。ウィンも楽しみにしているのだろう。
「本当、仲良いんですね。可愛らしい笑顔で」
「その被った仮面の口へし折るよ」
「言いますね」
ラオは俺たちの会話を聞いて、ふっと笑みをこぼした。思えば、肩の痛みはあれど、あの騒動が嘘であったかのような気さえする。ホゼとの戦闘の件は、屋敷内でも話題になっていて、ガネさん曰く、捜査が進められているという。
「何も起こらなきゃ良いんだけどな……」
ラオは、表情を変えてそう呟いた。
翌、初の四時前に、ラオは俺の部屋に来ていた。ガネさんが来てから、ウィンを迎えに行く予定になっているが、なかなか姿が見えないため、廊下の壁を背もたれにして待っている。
その少し後に、その人物はいつもの和装で現れた。
「おはようございます、二人とも」
「遅え!」
呑気に挨拶をするガネさんに、俺の拳が飛んだ。勿論、軽々と受け止められてしまっている。
「ザイ怒らないで! 一応時間には間に合うから!」
「待たせてすみません。いきなり殴らないでくださいよ。戦闘訓練ならいつでも付き合いますから」
「え!? そうじゃな……いいや」
腕の力を抜いて、二人に構わずにウィンの部屋がある方へ歩き始める。それを追うように、後ろから二人が並んで歩いてきていた。
咄嗟に体が動いてしまったが、ガネさんは全く動じず、余裕の表情で受け止めていた。応用クラスの担当教育師であるだけのことはある、と気に入らないながらも思った。
少し歩くと、すぐにウィンがいる部屋が見えてくる。ウィンを呼び出し、作ってくれた食事が入った鞄を受け取って、四人で屋敷の玄関口に向かう。昨日と同様に外出の申請・許可を受け、晴天の下で一度身体を伸ばした。
「あの、教育師は何で来ることにしたんですか? 特にガネ教育師って、ほとんど個別に関わっていきませんよね?」
「僕お堅い感じなんですか? 何というか、フォローしてあげたくて。この前のホゼ教育師のこともありますし、ザイ君とラオ君には期待してるので。ウィンさんとも仲良くなりたいですから」
にこりと笑むガネさんの顔を見るのは、もう何度目だろうか。その度に、間違いなくこれを仮面にしている、と確信を強めている俺がいることに、違いはない。
町とは逆方向、その方向には、ちょっとした息抜きスポットがある。聞いたことがあるだけで、俺たちも初めて行く場所だ。
「貝海って言うんですよね?」
「水辺に近く、砂に多く貝が混じっていることからそう呼ばれるようになったみたいですよ」
そんな話を聞いてやって来た貝海には、数えることが面倒な程の人が、気を抜いて寛いでいた。開放感だろうか、空が遠く広がっていく様と、伸びていく風は、確かに良い空気を生んでいた。
「本当、良いところですね!」
「因みに豆知識ですけど、ここは守波が強くて、比較的安全なんですよ」
海という海が広がっているわけではない。どちらかといえば、湖に近い域だ。少し遠くに陸が見えて、そのさらに奥に海がある。という、珍しい地形だ。
広く空いたスペースに座り込み、体を寝かせて脱力する。
「っあー! ここ良いなぁ」
「うん。ザイも大変だったし、息抜きにはぴったりだね」
一言で大変、とは言っているが、実際それどころではないのが現状だ。今も〈暗黒〉のことは、まだよく分からない。聞いても聞いても、今まで全く触れなかった世界の話を、すぐに理解することは難しい──
「はっ! 待った!」
勢いよく上半身を起こして叫ぶ俺に、横で寝転がっていたラオの体が飛び上がった。つられたのか、体を起こして目を丸くしている。
「どうした……?」
「あ、ごめん。……今は、考えちゃだめだって思って」
ウィンは静かに湖を眺め、サイドに結った髪を風に預けている。後方で俺たちの様子を見ているガネさんと目が合うと、今回ばかりは仮面とは思えない、肩の荷を下ろしたような表情を見せた。
その表情が、教育師とは思えなくて、ゆっくりと目を逸らし、湖の小さな波を追った。
「……ラオ、帰ったら、気になってること話してもいい?」
ガネさんに俺が〈暗黒者-デッド-〉だと言ったときに、ガネさんが妙なことを言っていたのを思い出した。今の〈暗黒者-デッド-〉は、片割れだと。ただ、今は話題に出すべきではない。
「……良いよ」
昼食を食べるような時間になったらしく、ウィンが俺たちに声をかける。素直にそれに応じて、近くに置いていた鞄をウィンに渡した。
慣れた手つきで食事を広げていくウィンを見て、何となく、俺は何かを感じた。それでも気のせいだと、ウィンの手作り弁当を口に運んだ。