第百二十六話 黒ノ掬ウ者ヘノ応(コタエ)
与えられた一時間。その中で、俺はグループの中に集まり昨日の講技で行ったローテーション実技をしながら調子を整えていた。
今回はガネさんとの一対一ということもあり、同様の形で練習ができるように、これもまた一対一で進めていた。これから俺たちが相手にする者のことを考慮すると、俺たちが怠ける理由など到底なく、私語がほとんど交わされない一時間が過ぎていった。
他の応用生を気にする暇も、もちろんなかった。
「そろそろ始めましょうか」
指定の時間になり、その声は広間に響き渡る。どくんと鼓動が跳ね、一気に緊張感が増す室内は、天井が下降してきているかのような圧迫感で溢れた。これから順に、その腕を試されていくのだ。勝ち負けが評価ではないと聞いたものの、やるからには簡単に負けたくはないとひっそり闘志を燃やす一方で、初めの挑戦者にならないようにと祈っていた。
それに関しても特に決定していないようで、ガネさんが適当に指名していくらしく、俺は目を逸らし続けた。その甲斐あって、最初の挑戦者はチェインとなった。その嫌そうな顔といったら、気持ちは分からなくない。ただ、最初の犠牲者になってくれることを憐れみながら、せめてもの励ましにと、拳を合わせて送った。
「すう……はあ……」
向かい合う二人と距離をおいた場で、深呼吸を繰り返す音がはっきりと耳に入ってくる。その静けさは、こちらの緊張感を煽る。対して、当然といった余裕さをもつ師は笑顔で見守っている。
「……準備ができたら、すぐにでもどうぞ。一分間、そうですね、ラオ君。計ってください」
名指しをされたラオは、時間管理なら任せろと言わんばかりに二人の近くに行った。
「期待には沿えないと思うッスよ」
自分のハードルを下げておこうとしたのか、チェインは渋い顔をしてそう言い放つ。ガネさんはというと、しれっとした顔で笑顔を崩さない。
「そんな分かり切ったことを言う暇があるなら、早く来なさい」
「うっわ……ちょっとくらい勝てそうな空気くれよ……行くぜ」
高まる緊張の中、その足は、動いた。
長身のガネさんに対する身のこなし、昨日と変わらない乱暴な動きだが、一定の型がないことで、目で追う俺たちも疲れそうだ。僅か一分の間で、屋敷生が教育師にどこまで食って掛かることができるのか。純粋に気になるところではあるものの、相手が悪い俺たちは「どう負けるべきか」と、違う方面から策を練り始めていた。
その中で、ガネさんから視線を逸らすことなく、ひたすら竹剣を振り回すチェインの集中力を示す眼力は、確かなものがあった。
「……すげ、昨日とはなんか、違うね」
「チェインは、この演習の時間だけはあの集中力を発揮するんだよ。凄いよね、ガネ教育師相手にあの目つきは無理かも。不安が際立っちゃうし。でもきっと、相手に怖じない。その点で見れば、ガネ教育師に怖じているうちはだめなんだろうね」
シリスの言うことは最もで、どんな敵が現れるか、どんな魔物が現れるか分からない。ならば、俺たちが育てなければならないものの一つは、度胸そのものだ。
「そっかー、じゃあザイちゃんもラオスもそれは大丈夫だろうね」
ユラの相変わらずな呼び方にも、苛立ちを超えた呆れを感じ始めるようになっている。ただ、俺に至ってはユラの言う通り、ホゼや怪異、ゼスとの戦いを経たことで得たそれは、確実に培われていると思う。
しかし、今回のユラの発言には、その点以外にも思うところがある。今までは俺の呼び方に関して反論をしてきたが、何か違うものが加わっている。
「……ラオスって誰?」
聞きなれないその相手のことを尋ねるが、俺が思ったよりもかなり身近にいるものの呼び名で、俺はまた呆れた。
「え? ラオスはラオス。ラオガ=ビスを縮めてラオス」
「そこまで言ってんなら普通に呼べよ! 何だラオスって! 俺のよりだいぶ意味分かんねえ!」
ユラに調子を持っていかれかけたところで、チェインの演習は終了。結果は言わずと知れるが、ガネさんの圧勝。時間を計っていたラオは、取った本数まで数えていて、二対〇といった結果だった。
「っはー! きっつ!!」
「お疲れさまでした。うん、チェイン君はちゃんと腕を上げましたね。動きは乱暴なままですが、それはそれで戦術になります。うまく相手の動きを読み、察し、対応できるようになりましょうか」
「っす……」
ガネさんからの助言を受けたチェインは、その言葉とは裏腹に、すっきりとした表情でこちらに戻って来た。僅か一分、されど一分。俺たちにとってのこの一分は、長く感じられることだろう。
「お疲れ様」
「おう、まあ見た通りの結果だよ。全部読まれて、ことごとく跳ね返されたぜ」
「まあガネさんだもんな……」
その実力を再認識しながら、次の応用生が呼ばれ、二人、三人と、ラオに時間計測を任せたまま、次々に順が回っていった。同時に、俺の出番も近づいてくる。一人につき一分とはいえ、連続で動き続けているガネさんだが、息は全くと言っていいほど乱れていない。無駄な動きがないのだろうが、やはり俺たちと比べるのは申し訳ないほど、その余裕を振りまいている。
「……でも、俺だってガネさんには負けないから」
その言葉が聞こえていたのかどうかは、この際気にすることではないが、数人終えたところで、俺の番が回って来た。竹剣を持つ手に力が加わる。手に汗が伝っている、それを隠すように。
「僕の中では、君が今日のメインですよ。最初に応用生に指摘したこと。動きを見せたこと。忘れていませんよね」
「……当たり前だろ」
そうだ、俺は以前、今の状態と同じような場面で、ガネさんを相手に剣裁きを見せている。それが、ガネさんに動かされた動きであっても、確実に応用生からの評価をつけられたものだ。そのレベルから下がっているわけにはいかない。その圧力にも耐えながら、ガネさんの前で竹剣を己と垂直に、相手に向けてまっすぐと構えた。
「俺が取れないとしても、取らせない」
「なるほど、いい心意気ですね。僕はいつでもいいので、ザイ君のタイミングでどうぞ」
各応用生に言っていく、同じ言葉。俺のタイミングと言っても、俺に対するガネさんの構えがほとんど現れないことで、呼吸の音を頼りに感覚を整える。こんなことで時間を遣ってどうするんだと思いながら、一度だけ瞼を開閉させた。
「行くよ!」
その言葉を皮切りに、ガネさんは体の側面を見せる形で竹剣を構えて俺の接近を待つ体勢を作った。このままつっこんでいくような、単純な動きを見せるつもりもないと、俺は手に持つそれを後方に振り下げ、姿勢を低く保ってから、ガネさんの竹剣が構えられている方に入り込む。これで、大振りはできないはずだと、俺は振り下げたそれを斜め方向に振り上げた。
それはいとも簡単に防がれてしまったが、当てることが目的ではない。ガネさんの動きを小さく留めることができれば、その行動範囲にも限りが生まれてくる。今回はそれを利用して攻防を乗り切ろうと考えたわけだが、その考え通りにはいかないのが教育師だ。
「っう」
ぶつかる竹剣が、ガネさんの力の強さを知らしめる。びりびりと伝わってくる振動に、思わず片目を瞑る。押し負けてはだめだと、均一に力がかかるようにより力を込めていくと、そこから微動だにしなくなってしまった。間を作って一瞬で間を詰め直さなければ、きっとそこの隙に入り込まれてしまう。
一か八か、負けないことのためだけに、以前も行った防御から攻撃への転換を用い、弾くのではなく、こちらにかかる力を利用して自身を地面に接近させた。
「!」
そのままガネさんの背後をとり、上方に向けて竹剣を振り上げるが、体を回したガネさんはそれを簡単に止めた。
(やっぱ無理だよな……)
そうは思いながらも、ガネさんが見せたその動きに満足した俺は、そのまま時間いっぱいガネさんとの攻防に努め、その結果は引き分けに終わった。
「うーん、あの場面で潜り込む選択はなかなかないですよ。こちらの力量を把握して生かしてきましたね。一つ助言をするとすれば、冷静に流れを組む分、体を止めた間があることですね。僕に対して勝敗を気にしたのかもしれませんが、僕が敵だったら、その間で殺せますよ」
「ガネさんが敵じゃなくて、本当に良かったと思うよ。嫌な殺され方しそうだし」
「そうかもしれませんね。心配しなくても技術は申し分ないので、そのまま伸びていってください」
否定はしないのかと思いながら、演習を終えた俺は元いた場所に戻り、腰を下ろして講技が終わるのをただただ待つことになった。結局、ラオの演習は明日の講技に持ち越され、この日は早めに切り上げられた。
ガネさんとの別枠の約束は、昼食後に教育師室で時間をとることになり、ラオと一緒に広間を後にした。
昼食をとるために食堂を訪れ、食事を手に机に座ると、当然のようにユラが同席してきた。視界に入ることと、隣に座ること、どちらが許せるだろうかと考え、結果、俺はラオの隣に座った。
「お疲れー。ザイちゃんはやっぱすげーな! 身軽ってーの?」
「ユラは明日だね。ぼこぼこにされろ」
「酷いって! オレだってそれなりに実力あるんだから! ラオスも明日だな!」
「俺ね、今凄くザイの気持ちが分かる。今まで普通に呼んでたのに、何で急にその呼び方に変えたんだよ」
呼び方が変わったことで、初めは俺のことをフォローしてきたラオだったが、ユラに対しての態度が急変していた。口調だけは優しいものの、顔は笑っていない。心底恐怖を感じながら、どうなることやらと静かに見守っていると、ユラはうーんと腕を組んで考えていた。
「何でだろ。親近感もたせようと思ったからかなあ。じゃあ、ラオガ。ガネ教育師との演習の助言なんかあったらほしい!」
「そうだなあ、ガネさんはとにかく隙を見せない感じだからなあ」
ラオは機嫌が戻ったようで、ユラの質問に対して真剣に答えようとしている。俺は俺で、一人で靄つきと戦うことになった。
「ちょっと待て、そこで元に戻すなら俺の呼び方も改めろ。何で俺だけ聞く耳持たねーんだよ」
「ザイちゃんはザイちゃんじゃん。定着したから無理。ザイちゃんも俺にガネ教育師のアドバイス頂戴」
食い気味に来るユラに、引き気味の俺。ようやく俺の言葉に返してきたと思えばそんな言葉で、俺はユラとは一生分かり合えないことを感じた。腕を組んで冷めた目を彼に向け、ただ一言言い放つ。
「ひ み つ」
「何その匂わせる感じ! ……いや、ガネ教育師の動きをあそこまで分かっての演習……さてはただならない関係だな!?」
「ふざけんな表出ろ、俺がぼこぼこにしてやる」
「ザイちゃん強いから、死ぬかもなあ」
音を立てて立ち上がり、向かい合うユラの胸倉を掴む。食事はお構いなしだ。ラオは「まあまあ」と声をかけて仲裁に入ろうとしているが、変わらないユラの態度に対し、俺がその言葉を素直に聞く気になることはなかった。この場が食堂ではなく、また、ユラにも〈暗黒〉のことを伝えていたら、その首に鎌を添えてやったかもしれない。そう考えるあたり、俺も多方面からの影響を受けていることは間違いない。この状況でも、冷静に分析ができる自分が怖かった。
「……それが望みなら、そのつもりでぼこぼこにする」
「待って、ちょっと怖い。すいませんすいません」
ラオはついに俺の腕を引いて、その腰を落ち着かせた。俺が気に入らなかっただけのことであって、事を荒げるようなものでもない。
「……これくらいの勢いでやんねーと、ガネさんには歯向かえないと思ってる」
「あ、アドバイス? 何だーザイちゃん優しい」
その話に切り替えて、改めて食事に手を付けた。
食事を終え、俺たち三人はその場で解散する。俺はガネさんとの約束があるため、その足でまっすぐ教育師室に向かう。久しぶりに向かったその部屋を軽く叩いてから開けると、近くにガネさんの姿を確認できた。
「あ、ザイ君。ちょうど良いところに来ました。どうぞ」
前にも入ったことのある、教育師室の中にある一つの小部屋に通され、ガネさんと向かい合う形で座る。飲み物でも飲みながら話そう、というガネさんの気配りで、目の前には茶の入ったマグが置かれていた。
「とりあえず、調子から窺いましょうか?」
「調子はまずまずだけど……ていうか、講技やっただろ」
「そういう話ではありません。昨日もほぼ一日広間にいたんでしょう? あんなことがあって、それだけ体を動かそうとするのは、恐怖に対する防衛本能が働いているようにも感じられますけど」
ラオにも同じようなことを言われたが、人から見れば、それは間違いない変容なのだろう。ゲランさんも言っていたが、まだ気持ちが元には戻っていないことに変わりはない。
「……普通には見えてなかった?」
「まあ、死ぬ思いをしたんですし、当然と言えば当然の行動です。でも、それで逆に体を壊しかねない状態を作ってしまうと、それこそ気持ちが弱っていきます。休息はしっかりと取ってくださいね」
「分かった」
水溜槽を前にして、俺がどうなるのかは分からない。ただ、植え付けられた恐怖だけが、その答えを知っている。
一口口に含まれる温かい水分は、喉の奥を熱く刺激し、一瞬で全身に巡っていったような感覚を残してすぐに消え失せた。
その感覚が心地よくて、俺はもうひと口だけ、口に含んだ。