第百二十五話 黒ノ力ヲ掬ウ者
講技を終えたのは、恒の三時。ラクラスとの一件を伝えるため、教育師室にいる屋敷長とルノを訪ねると、そこにはソムがいた。
一度はソムの介入に救われたものの、その後、結局僕があんな目に遭ってしまい、八つ当たりだが恨まずにはいられなかった。
「何であの時は察しなかった……」
「え? 何、ガネ、怖い怖い」
事情を知らないソムは、ただただ僕の目線から顔を背けていた。
「へえ、そんなことがあったんだ」
報告ついでにソムにも話をすると、軽い感じで受け止められる。僕としては、そう軽いものではないのだけれど。ルノはルノで、笑ってしまうのを堪えているようで、普段の落ち着いた表情が揺れていた。
その中でも、屋敷長だけは困った顔をしながら、僕の話を聞いていた。
「大変じゃったなあ」
「……屋敷長、聞いてもらってあれですが、ちょっとだけいいですか」
「おお、なんじゃ?」
ルノの腕を掴み、教育師室の外に出る。状況についていけていないのか、ルノはただ力任せに引っ張られるだけだった。
「ルノ」
「何だ」
「許せ、僕は許せない」
「え? なに、痛っ!!」
それは、室内にも聞こえるほどの音だったらしい。室内に戻り、ルノの赤くなっている額を見て、その音だったのか、とソムが言った。
「ガネ教育師にはストレスがかかったじゃろうな。いやはや困ったものじゃ。ラクラス=モック教育師は、確かに以前から本当の意味で怖がられてはいたようだしな。少し行動に自粛を求めても良いかもしれん。まあ、今回はガネ教育師への嫉妬心からだったようにも思えるが?」
「はあ……。とにかく、脅しをかけてきたことは間違いありませんので、それなりの処置をお願いします」
「承知したよ」
気を付けておいた方が良いとは思うが、これはほんの小さな問題。彼らの命に関わらないのであれば、これ以上僕が首を突っ込む必要のない話ではある。ホゼや怪異、あれらに比べれば、何と微弱な力であるだろうか。それを相手にしたことで無駄にしてしまった時間は、すでに過ぎ去ってしまっている。
申し訳ない話だけれど、ラクラスに構っている時間ほど、意味のなく惜しいものはない。
一通りの報告を終え、その部屋から出た。後ろからはルノがついてきているが、気付いてはいたものの、気疲れからか相手にしようとする余裕はなかった。それでも、赤みの引いた額が目に入る。
「……何ですか、ルノ」
「いや……お前、大丈夫か?」
「え? 何が」
その異常、その違い。彼は、僕よりも先に気付いたという。その手は僕の首元に当てられ、ひんやりとした大きな手を、心地よく感じていた。同時に、自身に起きている異常というのも、理解することができた。それは何の前兆も、何の違和感もなく、忍び寄るように僕の身に降りかかって来ていた。
「俺を殴って来た時の一瞬だが、お前の手が熱く感じた。目に覇気もないし、首も熱い。もう寝ておいた方がいい。……頭痛は」
「頭痛……? しません」
「そうか、後でゲランから薬を貰ってきてやるから、すぐ部屋に帰れ」
講技を再開することができたと思ったら、今度は僕自身が体調を崩しているとは。
全く、己を恨まずにはいられない。
▽ ▲ ▽ ▲
「は!? ガネさん体調悪いの!?」
恒の時間に行われた講技中に、僅かではあるが擦り傷を作っていた俺は、ラオに言われるがままに医療室で消毒薬をもらい、自身でそれを患部に吹き付けていた。ちょうどその時、ルノさんがゲランさんを訪ねて入って来たかと思えば、ガネさんの不調を伝えられ、驚きを隠せなかった。講技中はいつも通りで、変わったことと言えばラクラス教育師によって講技開始が遅れたことくらいだ。
「頭痛はないと言っているし、明日には元通りだと思う。あいつも全然休めていないだろうし、少しは休ませないとな」
「頭痛って?」
「ああ……体調を崩すときは、決まって頭痛を訴えるんだ。それがなかったから自分で気付かなかったんだろうけど……まあそういうことだから、問題の話し合いも、もう少し先延ばしな」
それは構わないが、そうして体調を崩してしまったことは、俺たちにも関係があるはずだ。チェインが言っていたように、常に俺たちと共に行動していて、休息の時間もままならなかっただろう。加えて、教育師としての職務、立場、様々なものが、ガネさんには圧し掛かっている。
ガネさんが落ち着いて休めるように、俺たちは大人しく明日の講技の時間を待つことにした。
「ザイは体調良いの? 疲れてないわけはないよね」
「……俺は、何か、体動かしてないと落ち着かなくて」
その理由は、きっと考えたくないから。死にかけたことを、思い出したくないから。一人で何もしない時間が続くと、蘇って来そうで。そうしないでいることは、今はまだ難しかった。
「……ま、俺も似たような感じなんだけどな」
「え?」
「俺はともかく、ゼスは確実な弱点を確実に知っていた。それが分かってたのに、一歩間違えればザイが死ぬところだった。考えただけで、怖くなる」
その目は、未だに後悔を思わせるもので、それが俺にも伝わってくる。
まだ、あの場を思い浮かべるだけで体が氷で張りついていくような、冷ややかな血液の逆流を感じる。その感覚を何とか正すために、自分の肩をさすった。
「ラオは心配しすぎなんだって。自己管理ができてない俺だって悪いんだし。だから、今から試合付き合って」
「ぶっ、さすがに一日やりすぎだって! 言うとは思ったけど! でもいいよ」
「お人好しめ」
その後俺たちは、日が暮れ、俺たちの様子に気付いたソムさんが声をかけてくる再の三時頃まで、ひたすら広間で体を動かしていた。他のことは何も考えず、目の前の友人との時間で自身の不安を正そうと、俺は一人でもがいていた。
昨日と何ら変わらない朝。講技中止の知らせもないため、今日も昨日と同様に身支度を整えて広間に向かう。道中でラオを誘うことは、いつの間にか俺の中で当然のこととなっていて、今更変えることもできずに今日もそれを繰り返す。
「昨日は寝られた?」
「うん、すげー動いたからだろうね。夢も見なかった」
「それは良かった」
ラオにも同様に聞き返すと、全く同じような答えが返って来た。互いに眠ることはできたようで安心し、自分の中にあった恐怖も、あの時よりは薄れていっているようにも思えた。ただ、その実物を目の前にできるかどうか、という話はまた別のことにはなる。
他愛もない話をしながら広間に向かって歩いていると、ウィンもこれから講技があるようで、鉢合わせた。ウィンは変わらず基本クラスの在籍のままだが、ノームさんがわざわざソムさんのクラスに出向いて、ウィンへの指導を行っているらしい。
「頑張らないと」というウィンの意気込みに元気づけられ、すぐに別れた俺たちは、足早に広間に行った。
広間の扉を開けると、すでにガネさんがそこにいて、自主練をしている応用生に指導を行っていた。見たところの体調は良さそうだが、こうして早くに指導を行っているというのは、一体どういう魂胆なのか。広間に入ったその足で、まっすぐガネさんの元に向かった。
「あ、おはようございます。昨日は寝られましたか?」
「おはようガネさん。俺たちより、ガネさん具合いいの?」
「……ルノから君たちにも知らせてあるとは聞いていましたが、そんなに心配するような言い方をされたんですか? 全く問題ありませんよ」
いつも通りの話し方、いつも通りの表情。その変わらなさすぎるそのものに、疑問など出てくるはずもない。
「そっか。急な話だったからびっくりしてたんだよ」
「君たちこそ、昨日は遅くまでここにいたらしいですね。ちゃんと休めたんですか? ……そうだ、ザイ君。今日は講技後、少し話でもしませんか? 近いうちに水対応講技を組みたいんですけど、ザイ君が落ち着くまではそういうわけにいかないので」
以前、確かに「ケアをする」とガネさんが言っていた。具体的に何を話すのか、というところはさておき、俺が医療室で寝付けなかった日、ガネさんは、ゲランさんから俺の様子を聞いていたらしい。今俺に必要なことを、これから少しずつとり行っていくつもりだと大まかなことを伝えられ、講技後は時間をとることになった。
そういうことであれば、ラオのことも気がかりではある。ただ、彼は他人──特に俺とウィンに対する過保護さからきているものが、無きにしも非ず。そう思うと、彼は彼で、違った時間の取り方をした方が良いのかもしれないと、今日だけはガネさんの提示してきた時間の過ごし方を選んだ。
「では、それでお願いします。今日は明日までの継続講技で、順に僕との実戦を組んでいますので、よろしくお願いしますね」
「!!?」
先程まで俺を気遣っていた素振りが、突然どこに捨てられたのか。爽やかに見せる笑顔からは、そんなとんでもない発言が飛び出した。
近くで自主練をしていた応用生にも聞こえていたようで、その動きは石のように固まっていた。言うまでもない衝撃が走っている。
「……ザイ、生きて会おうな……」
「いや、相手がガネさんとはいえ、相手はガネさんだから……」
「言ってること意味分かんないのに分かる……あれ? 俺どうなったんだ……?」
「これまでのガネさんとの実戦で、何があったのか俺に教えてくれ」
講技が始まる前に、ラオの遠くなってしまった視線を取り戻すべく、それから数分間、ラオの話に耳を傾けていた。その話が終わるころ、俺の視線はどこを捉えているのか、俺自身も分からなくなっていた。
「と、いうわけで、今日から二日間にかけて実戦演習を行います。僕が多く留守にしている間につけたであろう実力を、一分間で見せてください。勝ち負けが評価ではありませんが、できる限り負けないでください」
ラオから聞いた、俺が応用に上がる前から定期的に行われていた対ガネさんの実戦演習。時間はその都度異なり、その中でどういった動きを見せられるか、どういった攻防を成すことができるか。また、技術、精度、技能の身につき方を見て、矯正、課題提示をしていくものだという。ガネさんに何本取られようと、時間いっぱい使用しなければならず、その評価次第ではその後の個別講技の内容がかなり厳しいものになるのだとか。
「そんなもんあるって知ってたら、俺は今日の講技を放棄したはずだ」
「それは君だけではありませんし、それが分かっているから言わなかったんです。まあ、事前に知らせておいて放棄なんてしようものなら、問答無用で部屋までお迎えに上がるところです」
「やめろよ、何なんだよその顔。楽しそうだな」
「楽しいですよ。何ですか、みなさんのその命が終わりそうな顔。何も今すぐ始めるわけではないので、練習に精を出してください。初の四時になったら声をかけますね」
その制約時間、一時間。応用生たちの顔は曇っていながらも、この場において逃げ出すことなどできない。
その迫る時間を前に、ただ竹剣を振るしかなかった。