第百八話 黒ノ憶エル傷ヲ掘ル手
目の前に流れる、俺の血液を見て吐きそうになる。確かに血液に違いないのにその色を成さず、疑うほかない。しかし、俺の体には間違いなく痛みがあり、そうであるはずなのだ。不気味ながらも、ウィンが調べようと、俺の傷に触れようとすると、その手は弾かれるように俺から離れた。
「痛っ! 何、触れない……っ」
「え……?」
先程、俺は普通に触ることができた。ウィンの言葉を半信半疑に聞き、試しに俺も再度触れてみるが、当然のように触ることができる。ラオも俺と同様に触れることができた。それが意味することは、一つしかない。しかしそんなこと、信じたくはない。
「……ちっ、そんなキモい現象が起きるのは想定外だぜ」
「てめぇ!!!」
俺の血を見たガントも、顔を歪めて足を一歩引いた。その手にはナイフが握られていて、恐らくあれが俺の身を今の状態にしたのだろう。そんなガントの胸倉に掴みかかったラオが、その頬を思い切り殴った。予想以上に鈍い音が聞こえ、俺とウィンは目を逸らす。視線を戻すと、ガントはちょうど床に倒れ、その近くにナイフが転がっていた。そしてガントの横には、ラオが立っていた。
「話を戻して、もう一回だけ聞くぜ……。何でここに来たんだよ。わざわざ来たんだ、何かあるはずだろ!」
「……はっ、信じる信じないは勝手だぜ。てめぇの面、見に来たんだよ」
「はぁ? 意図は? あれだけの暴力をしといて、何のつもりだよ。ザイが現に傷付いた。それだけで、今にも自分を失いそうなんだよ!」
ラオは、実の兄に対する威嚇をやめない。自身が受けた傷が、どれだけ体に浸み込んでいるのか。その程度は、目の前の友人がここまで敵意を剥き出しにしていることで語られる。
「はははははっ! そー焦んな。てめぇの元気な面見たんだ、誠意をもってその心へし折らせてもらうからよ!」
「なっ……!」
そう言ったガントは、ラオを躱してウィンに近づき、手を伸ばそうとしていた。瞬時にそれに反応し、横にいたウィンを庇おうとしたが、俺の体はズタズタに傷ついていて、かなりの痛みを感じた。
「くっ……」
「っ……私だって弱いままじゃないの! あんたみたいな卑怯な人には負けないから!」
それを聞いたガントの顔といったら、とてもほどではないが、恐ろしく歪んでいた。ウィンにまでそう言われたことが、癪に障ったのだろう。伸ばしていた手の反対側には、しっかりとナイフが握られていて、それを容赦なく振り上げていた。
「ウィン!」
「手ぇ出すな!」
すかさずウィンの前に出て、ナイフに対し大きな鎌で、それを思い切り弾いた。しかし、俺が鎌を振ったのをいいことに、ガントによって首を捕らえられ、壁に強く押し当てられた。もちろん苦しいし、痛い。鎌を手放し、ガントの手を退けようともがくが、ガントも本気で掴んでいるようで、腕はなかなか離れなかった。
「ぐっ、ゔっ……!」
「やめて! 人を何だと思ってるのよ!」
ウィンが、俺を掴む腕を引っ張る姿が見える。俺も自身の力で解放されようと、続けて力を込める。
そうやって、誰もがガントに気を向けていた中。人一倍それに徹していた彼は、好機を逃しはしなかった。
「づっ……!」
俺の目の前には、後方から腕を貫通して、俺の鼻先に届かない辺りまで鋼槍の刃が迫って来た。ガントが腕に込める力が抜け、俺は解放されて壁を伝いながら座り込む。それを確認したのか、鋼槍は腕から抜かれ、ガントの足元には血が滴っていた。
「しっかりしてザイ!」
「げほっ……」
「へぇ……やってくれんじゃん」
鋼槍で腕を貫かれながらも、にやにやと笑う口を閉じる様子のないガントは、ラオと向き合うように体を回し、俺とウィンはその視界から外れた。
「もう我慢できねぇ。お前らは、俺が守ってやる。だから絶対入ってくるな」
悲しそうな、それなのに温かみをまとった顔。その顔を作る心情が、どれほどぐちゃぐちゃになっているのか。想像もできない。ただ、ラオはラオで、多くの混ざり合う感情を消化しながら、こうして俺たちを守ろうとして戦うことを決めている。俺とした約束を忘れたわけではないだろうが、そんな余裕も、もしかしたらもうないのかもしれない。
「……今更、後悔するなよ。ガント」
それでも、その口調だけは、ラオの優しさを物語っている。
△ ▼ △ ▼
書庫にはオミがいる。僕が見つけた、アーバンアングランドのことをさらに詳しく調べようとして。僕は僕で、得た情報を整理することにした。
ジェック君は、僕のクラスの応用生。真面目で、助言をしたことは次の講技までに何とかしようと努力ができる子。
エスカ君は、ザイ君と似たところがあって、本が苦手なことは僕もよく知っている。前に一度、僕の代わりに応用生を見てくれた、ラクラス=モック教育師のクラスの子で、集中力もあまり保たないと聞いたことがある。
そして、ゼス君。彼は特に周りを見ているように思える、見たところ、剣の腕は立ちそうな子だ。疑いのかかった二人の教育師については、次の動きがあってからでも遅くはないだろうと推測したものの、これ以上絞り切れなくなってしまった。
それならばと、僕は知り得た謎のことについても考えてみることにした。オミ一人に任せきりでは、彼の身が保たないかもしれない。それに、あの記述通りになるというのであれば、僕たちはどうあがいても世界と共に死んでしまうことになる。
「ルノにこれを伝えることができればいいんですが……」
今は耐える時、とはいえこの重要事項。僕とオミの二人では、どうしようもない。ラオ君たちも一波乱あるようで、他の屋敷生たちが巻き込まれなければいいが、どうなっていることか。
とりあえず、現在の屋敷の状況をどこまで把握、まとめているのかを屋敷長に尋ねてみることにし、屋敷長室に急いだ。
ノックをするが、中からの返事はない。しかし、確かに中からは話し声が聞こえてくる。取り込み中のために返事ができないのかもしれないと、静かにその扉を開けた。扉も音を立てないように閉め、話が終わるのを待とうとじっと立っていたが、これがまた非常に面倒な状態になってしまった。
「だから、今もうろついているあの眼帯の男をですね!」
ある男性教育師が感極まったのか、屋敷長に怒鳴り始めた。内容は、恐らくガント=ビスの件。この教育師は、一人で歩き回っているガントが目障りなのだろう。経緯はともかく、どうにか外に出そうと、屋敷長に頼み込んでいるようだ。
「落ち着きなさい、それは管理の者が手順を踏んで通したんじゃろう? だったらお前がそうカッカする意味もない。それに、もっと必要な話があるのではないか?」
「はあ!? 屋敷生たちが集まり始めているんですよ!」
教育師が一人で苛ついている中、屋敷長は僕の存在に気付き、僕に話を振ろうと身を乗り出そうとする素振りを見せていたが、教育師がそうさせず、僕が入る間を全く作らなかった。
何とか僕の存在を認識してもらおうと、控えめに声を掛けてみるが、無駄だった。
「イライラさせないでください!」
来訪者は、確かに身内とはいえ屋敷生に手を出そうとしている。それを見過ごすつもりはないが、彼らには彼らの問題がある。ラオ君の気持ちを汲めば、僕たちが手を加えられるものではないと判断できる。しかし、この教育師は自由に動き回る訪問者に腹を立てているだけのようで、苛つきは僕にまで伝染してきた。教育師たちも、恐らく余裕がないのだろうが。
屋敷長も面倒になったのか、彼に僕がいることを伝えていた。その瞬間、彼は態度が小さくなった。
「す、すいません」
「とりあえず、一度頭を冷やしてください。何も、屋敷に悪さをしようっていう者ではないようなので」
「は、はい……」
教育師は屋敷長に一礼して、逃げるように部屋を出て行った。やれやれと腰を上げる屋敷長は、茶を入れてきても良いかと僕に一言詫びを入れて、少しだけ席を立った。その瞬間だ。
「ガネどうしたの!!」
何を感じ取ったのか、ソムが屋敷長室に勢いよく入って来た。僕が一人でソファにかけようとしていたところに来たものだから、ソムも状況がつかめていない様子。それはこちらも同じではある。
「あれ? 今ただならないものを感じたんだけど」
「……ただならないのはあなたみたいですよ」
「え、何?」
全く、長けた察知力だ。
「そんなものが……」
茶を人数分淹れて戻って来た屋敷長に、アーバンアングランドについての話と、裏切り者についてまとめた話を伝える。場にはソムにも残ってもらい、情報を提示する。共有者も数がいた方が都合が良い。
「誰か知っている人がいないものかと、思っているのですが……」
「私はさすがに……。屋敷長は……知りませんか?」
「……うぅむ……。個人の情報はそう詳しくはないが……まあ私の手元にある資料を貸そう。解決するか分からんが、まぁ役に立つじゃろう。ただ、私が言えることは一つ。ホゼの協力者である可能性は極めて高い、ということだ。書庫を出入り禁止にしたのは良い判断だった。あとは、その疑いのかかる者を徹底的に調べ上げるが良い」
それにしても、屋敷長室内にある書物などは持ち出し禁止と言われていたのに、簡単に貸してくれるらしい。そちらの方が、僕からしてみれば驚いた。
「……資料、借りていいんですか?」
「ここまで来るのも面倒じゃろう? ガネ教育師のことは信頼しておる。屋敷のために動いていることもよく分かっている。だからこそ、提供してやれるのじゃ」
「良かったねーガネ」
僕をからかい気味に叩いてくるソムを、適当にあしらって手を払う。資料を探そうとソファから離れ、資料のある棚を調べようと目を向けた時、屋敷長の机の傍に少し大きめの荷物が置いてあることに気付いた。どこかに出張にでも行きそうな感じのものだ。
「その荷物はどうされたんですか?」
「ああ、本部に行こうと思ってな。あそこの方が情報も多かろう」
本部、ということは、ルノとの接触も可能だろう。屋敷長に伝えたことと書庫で見つけた書物を託すため、再度屋敷長の前に足を運んだ。ルノへの言伝を快諾して受け取ってくれた屋敷長は、こんな時にすまないと謝っていたが、屋敷長も今の状態に対処しようとしているからこその行動だ。とにかく、ルノに情報が行ってくれれば良い。
「いえ、こちらこそ。お手数ですが、お願いします。僕はまだ、入れる立場ではないので残念です」
「あぁ。早めに戻ろう」
そう言って、屋敷長はここを後にした。屋敷長室のソファにはまだソムが残っていて、僕の資料探しを手伝うと言って横に並んだ。
「ねぇ、ガネ」
「何ですか?」
「……大丈夫、よね」
今の状態では、何も言えない。何とかなる気もするし、どうにもならない気もする。微妙なラインにいることが、僕には何となく分かっている。いや、だからこそ、今の状態を打開するために調べを進めている。“大丈夫”にするために、僕は動く。
「……何もしてないわけじゃない。最善を尽くす」
不安そうなソムは、どこか表情が暗い。背中を軽く撫でると、ソムは少し安心できたのか、顔を上げて微笑みかけてきた。その表情に申し訳なさを覚えながら、必要な資料を持って、僕たちも屋敷長室を出た。
△ ▼ △ ▼
ガントの血が流れ、俺の目の前に溜まる。自身の血液も、そこにじわりと滲んでいる。穏慈なら、何か分かるはず。そして、力を貸してくれるはず。そう思いながらも、呼び出すのを躊躇っていた。
もしも、悪いものだったら。もしも、俺が思った通りのものだったら。という考えが頭を巡っている。
しかし、ウィンは俺の横で少し怯えたようで、小刻みに身を震わせている。手を出すなとは言われたものの、ラオはどうするつもりなのか、友人でありながら、今の状態のラオの行動を読むことはほとんどできなかった。
「ウィン、穏慈を喚んで……いい……?」
「う、ん……」
とりあえず打開策を持ってこないと。俺だけでは何もできない。この血であろうもののことも、恐れていてはだめだ。躊躇うことを止め、思い切って穏慈を喚ぶと、すぐにその大きな体は目の前に現れる。屋敷内であることを一瞬で察知したようで、すぐに人の形をとって横に来てくれた。
『何だ……ん? この液体は……! 何があった!』
さすがの穏慈も、俺の怪我、いや、俺の体から流れる透明な液体を見て顔を強ばらせた。それは、焦っているためなのか、分かっているからこそなのか。
「……ガントに斬られて、血だって思って見たら……。これ、本当に血なの?」
『案外早かったな……〈暗黒者-デッド-〉の覚醒が大きくなってきている印だ。この透明血色は……覚醒の副反応の一つだ』
「穏慈さん、それって……」
『ザイヴの中で〈暗黒者〉の力が、増幅している。つまり同時に、片割れとして満足しなくなっている。もしかしたら……』
─“その時”が近いかもしれない。
つまり、俺が考えた通り。
闇に呑まれる〈暗黒者〉の力が、元に戻ろうとする時。即ち、二つの力が、一つのものになろうとしている。