第百一話 黒ノ見上ゲタ白火ノ包ム虚
─少年たちが、青郡から退いた頃。動けないほどの怪我を負ったヤブと、元殺し屋の女は、それぞれが倒れた場所から這いずり、擦れたような血液で道が作られていた。ホゼは魔石の欠片のみを持ち、そこから姿を消してしまっている。彼らは、何の慈悲もなく置き去りにされていた。
全身血塗れで、呼吸をするのに力を使う彼らは、言葉を交わすこともなく、ただこの場を離れることだけを考えていた。こんな場で、尽きてしまうわけにはいかないと。辺りも静まり、暗い中で二人の呼吸だけが風に混じり、ただ這う音だけが辛うじて聞こえる。時折吐き出すどろりとした液体は、当人たちの痛みを表すには十分なほどの量で、地に滲み切れずに形を残す。
一度は討たれたヤブも、再度現れながら、またしても敗れたことに、悔しさと憤りを感じながら、ついてきた人物の元に帰ろうとあがく。野垂れ死ぬのはごめんだと、助けるわけでもなかった者を諦めきれずに。
「ちっ……こん、な……はず……」
こんなはずではない。命を捨てるつもりでついてきていたのではない。その思いばかりめぐるヤブは、入る限りの力で拳を握る。ホゼに初めて会った時のことを思い出しながら、休息のつもりで、目を瞑った。
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何年前になるだろうか。親に反抗するようになって、自己主張ばかりをするようになったような、ちょうど思春期真っ盛りの頃から、悪さばかりをしてきた。毎日毎日、犯罪すれすれのことを繰り返していたある日。あの男は偶然にもその目の前に現れた。
何をしているわけでもなく、ぶらぶらとしているだけという男。古傷だらけの少年は、その男のもつ雰囲気に僅かに惹かれ、人差し指を立てて男に向けていた。
「あんた、強いのか」
名を言う前に、その者の力量を計るべくして挑戦的に睨み付ける。体格も相まってか、余裕で隙もない男は、少年を全く相手にせずに背を向けた。それでも、挑発をやめない少年に対し、「一度だけだ」と、武器を持たない手で固い拳を作った男は、容赦なく少年を殴り飛ばした。回避する暇は全く与えられない。倒れた少年を起こすこともなく、その場を離れていった。
痛みで歪む顔をさすりながら立ち上がる。衝撃を受けたが、間髪入れずに拳を振ったその男のその力がほしいと、すでに小さくなっている男を追った少年は、鬱陶しいほどの懇願の末、特別に教えを受けることができることになった。
それは少年にとって、これまでになかった道。それまでに見なかった未来を作っていく、最も重要なきっかけになった。定期的に少年の元に足を運ぶ男の支援あって、少年は徐々に、確実に力を上げた。
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そうして作り上げた力。忠誠心。尊敬。それらは、この時すでに崩壊していた。屋敷で冷たく放たれた言葉は、ヤブが男に言われるには、あまりに残酷で、心を砕き折る一番の材料だった。
─ああ、でも、それがあいつなら。アレを利用して二度現れることになったのも、あいつの中では当然のことで。それを全うできたのならば、あいつのためにはなったかもしれない。
視界が霞む目を無理やり開けて、再び腕に力を入れる。覚醒した二人につけられた大きな傷は、思いの外出血が酷い。力むたびに出血は促され、結末を自身で悟るのに時間は必要ない。
それならばと。茂みを越えてある程度進んだ先で仰向けになる。その近くに、女の姿もあった。一度目を合わせたが、お互いに一つの結論に辿り着いていたようで、すぐにその視界を暗転させた。
どうせ散るのならば、他に与えられたものではなく、己のもので。力が及ばなかった自身を許さないために。その鼓動を、直接切ってやろうと。
─女は青郡の少年と交えた剣を手に。男は腰の短剣を手に。
ほぼ同時に、二人は、自身の手でその苦痛から自身を解放へと導いた。その解放が、二人の救いになるのか、あるいは、その逆か。
言葉も、音も、時も。すべてを終わらせた二人の手は、その柄をずるずると滑っていった。
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青郡を背に、暗い中を進む俺と穏慈は、全くと言って話をしなかった。俺の中で、何かが引っかかる。青精珀が守られ、良かったはずなのに。心のどこかが落ち着かないままで。それが何によるものなのかは、少し考えると分かった。
そわそわとしていれば、穏慈は俺の様子に気付いた。
『まだ気になることがあったか?』
「……あの二人」
『二人? ……もしやあの殺し屋とトンファー使いのことか』
あの二人は、俺たちが傷つけたとはいえまだ生きていた。ホゼが二人を見放して去って行ったのも、俺の目は捉えている。どこかで、崚泉の時と同様に姿を消しているかもしれないと思っていたこともあって、周囲の見回りに行ってそのまま青郡を出てきてしまったが、あの怪我だ。
「……さっき見回った時は見かけなかったし、勝手にどっか行ってるかもしれないけど。ちょっと、気になる」
『……死んだと思えば出てきた奴もいるからな。確認するに越したことはないか。引き返すか?』
先に屋敷に向かったラオたちは、きっともうしばらくしたら屋敷に着くだろう。俺も帰った方がいいことは承知の上だが、念のためだ。また元気な姿でやって来られたら、堪ったものではない。しかし、あの場ですでに絶えていたらと考えると、それもそれで堪らない。
「頼める?」
『もちろんだ』
─この時は、確かに何かを感じていてその行動に出たのだと、後から考えれば思う。しかし、茂みの奥、その暗闇で目にした現実は、俺の脳の働きを一時的に麻痺させた。
二人の手に塗られたそれぞれの血と、二人の胸に刺さったそれぞれの刃と、そして、吹いてくる穏やかな風に反して、冷たく発しない音。
俺が見たものは、俺たちによる傷と、ホゼの残忍酷薄な行動が招いた、二人の末路だった。
「これ、こんな……こんなこと……俺……」
その姿はあまりに残酷で、敵でありながらも俺に衝撃を与えるには十分だった。とどめこそ刺していないが、追い詰めたのは俺たちに変わりはない。まさか、自ら終わりを作ってここに横たわっているとは、考えもしなかった。
『……気分は、良くないな。お前が考えていることくらいもう分かる。せめて、こいつらを清めてやればいい』
「でも、これ、だって……」
頭が回らない。言葉がうまく出てこない。命を狙ってきた相手でも、辺りを染めるほどの血が語るそれを、俺たちにとっての利益と考えることは不可能だった。
『ザイヴ。人の最期は、どうするものなのだ』
穏慈が言おうとしていることは分かった。人として、最期に何をしてやるのか。方法はいろいろある。
焼失か、埋葬か、または、消失か。
「……そう、だね。ここに置き去りのままには、できないよな。俺ができるやり方は、焼失しかない」
生を終えた者をまとめてある場所など、この地にはない。骨まで焼ける、特殊な火を使うことが主流だ。こうまでする俺は、甘いだろうか。お人好しだと言われるだろうか。それでも、このまま目を逸らすのは怖かった。
『必要な物を持って来い、付き合ってやる』
穏慈は怪異の癖に、今の俺のことを何も否定してこない。諦めろ、とは決して言わない。心ある怪異が、俺の荒れた心を少しだけ癒してくれた。
特殊な火を手に、二人を穏慈に運んでもらい、広い場所に来た俺たちは、火をあげるために準備を整えた。二人の身を並べ、特殊な火─【召聖】と呼ばれるものをつける。
それは一気に燃え上がり、二人を包み込むと、色を白に変えて大きくなった。燃えているとは思えないその光景に、俺は背を向ける。
少しくらい、これで救いの方に一歩でも行ってもらえたらと思いながら、穏慈を引っ張った。
「行こう」
『……あぁ』
─残された白。上がる命。白が消えた場所に、二人の姿は、残らない。
泡影編 了