転校一日目。
緊張に震える手で、一文字、一文字、丁寧に黒板に書いていく。
16年間書きなれた文字のはずなのに、間違えないように気を張りすぎたせいか、書き上げた文字は全体的に下に傾いており、ちょっといびつだ。
くるりと振り向けば、教室中の好奇の視線が自分に集まる。
手が震えないよう、ローブをギュッと握った。
「す…スズキエリナです、よろしくお願い…します…」
視線は段々と床に落ちていったが、なんとか言いきれた。
心の中でホッと息をつくと、先生にドア側の一番後ろの席を指定された。
とにかくこの注目を集める立ち位置から逃げたくて、足早に席に着いた。
隣の人にペコリと頭を下げ--ただし視線は逸らしたまま、一時間目の授業の用意をする。
不意に、とんと肩を突かれた。
びっくりして振り向くと、犯人はいたずらっぽい笑顔を向ける隣の人だった。
とても顔立ちの整った綺麗な人で、こちらを見る目は好奇心に輝いている。
「珍しい名前だね、どこの出身なの?」
「あ…えっと、」
ごくりと唾を飲み込んで、用意していた台詞を紡ぐ。
「東洋の、海に浮かぶ小さな島です。み、見た目とか、名前が珍しいかもしれませんが…あの、どうぞよろしくお願いします…」
少しどもってしまったが、きちんと目を見て言えた。
こうしてみると、隣の人は本当に綺麗で思わずそのまま見とれてしまう。
隣の人は一瞬目をキラリとさせ、ふぅん、と呟いた。
「うん、よろしくね」
太陽が輝くような笑顔に眩しさを感じて目を逸らしてしまったが、頑張って首を縦に振った。
--ーお昼ご飯はぼっちを覚悟していたが、隣の人が誘ってくれた。
もともと、友達を作るのが得意では無いので、転校1日目で友達?ができたことに感動して、危うく泣きそうになってしまった。
隣の人は名前を「リフェル」と言うらしい。綺麗な彼女にぴったりの素敵な名前だと褒めちぎった。
彼女は困ったように苦笑いしていたから、あまり自分の名前が好きでは無いみたいだけど、私が名前で呼ぶことを許してくれた。
「どうしてこっちに来たの?」
わわ、また来た。
さっきはどもってしまったから、今度こそ何気ない風を装わなければならない。
「親戚が、こっちにいて…。話を聞くたびに素敵だと思ってて…。親戚が、誘ってくれたから…。」
どもらなかったけど、後ろめたくて相手の目は見れなかった。
ちょっとした沈黙が下りて、居心地が悪い。冷や汗を拭いながらチラチラとリフェルを盗み見る。
リフェルは難しい顔をして宙を見つめていた。
藍色の目が空を写していて、とても綺麗だ。
ふいに、彼女がこちらを向いた。
どこか挑むような目で。
「…その親戚って学園長と仲良いの?」
「なんっ…!」
びっくりして、思わず持っていたパンを落としてしまったが、それすら気にならない程に頭がグルグルと目まぐるしく回る。心臓がバクバクしてもう口から出てしまいそう。ふうと息を長く吐き出して気持ちを整える。大丈夫、大丈夫。
「なんで…、そう思ったの?」
震える口でぽそりと呟いたから、リフェルには届いてないかもしれない。それでも彼女はそれに答えた。
「昨日見たんだ。学園長とエリナと、知らない男の人とで帰っていくの。
うちの学園長って変わり者で有名だし、人間と懇意にできるとは正直思ってなかった」
これ、内緒ね。と彼女はおどけたように笑ったけど、
私の心境は決して穏やかじゃなかった。
ごくりと唾を飲む音が大きく響く。
大丈夫、まだ大丈夫よ。アレさえ見られた訳じゃなければ、大丈夫。
とにかく…確認を…。
「他には…なにか見た?」
青い顔でうつむく私に、彼女は一瞬だけ怪訝な顔をしてから「他には何も」と答えた。
それを聞いた途端に、大きな安堵に包まれた。
よかった、アレを見られた訳じゃなかった。
「あ…その、学園長とは、家族ぐるみで…付き合いがあって…」
「そうなの?驚いたよ、人間嫌いで有名なひとだからさ。
それがまさかこんな可愛い人間の女の子の知り合いがいたとはねえ。あはは」
「あ、あはは…」
あああああ神様っ!
心臓がもう限界ですうううう!
内心で半べそをかいていると、私の懇願を聞いて下さったのか救世主がそこへ現れた。
「見つけたぞエリナ!」
救世主はまなじりを吊り上げて憤怒の表情でこちらに近づいてきた。
その足音は華奢な体躯に似合わぬドスドスと重々しい音をたてて彼の機嫌の悪さを表していた。
「教室に行ってもいないし!見つけたと思ったら変な奴に絡まれてるし!」
彼は一気にまくしたてると隣にいたリフェルをじろりと睨み上げた。
「か、絡まれてた訳じゃ…」
せっかくできた友達に言いがかりをつけられては困ると思い、精一杯かばったつもりだったが彼に一睨みされればもう口をつぐむしかない。彼と私の関係は昔から蛇と蛙のまま進展はない。
せめてリフェルが気を悪くしませんように…と祈るような気持ちで彼女を見上げ、そのような様子がないことに安堵した。リフェルはきょとんと私たちを見比べこてんと首を傾げた。
「…妹さん?」
ぶちっと「弟」の堪忍袋の緒が切れたのが先か、エリナが「終わった…」と気を飛ばしたのが先か。
「おいエリナ…ちょっと下がってろ…。この馬鹿ぶっ殺してやる…」
少なくともせっかくできた友達とは、今日限りのご縁のようだ。
友達のできた速さが過去最速なら、終わる速さも過去最速だった。
学校生活も今日限りのものとなるだろう。
神様…助けてとは言ったけど、代償をこんなに奪っていくなんてあんまりですうう…。
「弟」の周りをどす黒い殺気が覆う。
彼は正直者で、今まで一度たりとも嘘なんて言ったことがない。
複雑な文様を描いた魔法陣が彼の足元に煌々と現れ、彼の姿が徐々に変化していく。
太陽の光を浴びて艶やかに光る黒い鱗にびっしりと覆われた、全長十数メートルはある巨大な体躯。
爛々としたルビーの瞳は怒りに燃え、敵を鋭く見下ろしている。
口は裂け、そこに大きな牙がのぞき、威嚇するような唸り声。
黒いドラゴンが、目の前に現れた。
「あわ、あわわわわわわ」
有言実行、時には自身の発言を真にするため街一つを壊滅寸前まで追い込んだ弟だ。
頑固さは天下一品。
鈍く光る手の爪を、リフェルに振り下ろす。
せっかくの友達…私に話しかけてくれた…優しいリフェル。
これを止めるには…、ああ、もう考えてる時間なんてないっ!
「やめなさあああああああい!」
彼が鋭い爪を振り下ろすまえに、彼女は弟の前に立ちはだかった。
彼と同じく、黒い鱗に覆われた体で。
その目に大粒の涙をぼろぼろ零しながら。
「うっうぇえ、ひっく…。酷いよリヒト…こ、今度こそ上手くやろうって…うぅ、お願い…したのに…」
「エリナ…」
「せ、せっかく女の子の友達が…できたのにぃ…うえぇえ…」
「……」
「途中まで上手くごまかせてたのにぃ…リヒトのばかぁ…」
「……」
彼の瞳から怒りの色は消え、体もしゅるしゅると人間サイズに戻っていった。
その表情はばつが悪そうに眉をしゅんと垂らしている。
エリナも人間サイズに戻ると、リフェルを一瞥してごめんね、と呟いた。
しかしパッと目を逸らすと、眼前に広がっていた森に泣きながら飛び込んでいってしまった。
取り残されたリフェルは茫然とその後姿を目で追ったが、ハッと何かに気付いて彼女の後を追った。
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エリナは欝々とした気分で森の中を宛もなくさ迷い歩いていた。
喉からはひっくひっくと掠れた音が漏れる。
おしまいだ、おしまいだ…。
せっかくできた、綺麗な女の子のお友達。
今度こそと決心したのに、こんなに早くばれちゃうなんて…。
リヒトの馬鹿、子供、あほ、ちび、短気、ばか、あほぅ…。
天下一級品の怒りんぼ!!
普段は決してしないような口調の悪さで吐く罵詈雑言も、この荒んだ気持ちを表すにはピッタリだった。
涙はとめどなく彼女の頬を濡らし、視界を歪ませる。
彼女が袖で涙を拭いて一歩踏み出したのと、
「危ないっ」誰かが彼女を抱えて後ろに引き上げたのはほぼ同時だった。
一瞬遅れて働きを再開した脳が捉えたのは、眼下に広がる≪捕獲用緊縛魔法陣≫だった。
「……」
思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「あ、危なかった…」
背後から安堵の溜息を吐かれたことで、ようやく後ろの存在に気付いた。
パッ振り返れば綺麗な顔をした元・友達のリフェルと視線がかち合う。
確かに、あれに捕まればいかに大きな魔力を宿すドラゴンといえど、意識を失っていたかもしれない。
それも緊縛という、ちょっと屈辱的な恰好で。
「目、赤いね」
ふっと笑ったリフェルが、親指で涙の跡の残るエリナの目じりを優しく拭った。
自分よりも、節くれだった、大きな親指。
今更だが、自分のお腹にまわった腕も、女性のそれよりがっしりと骨ばっている。
胸が高鳴り、体温が上昇していく。
あ、あれ?
「…やっと気づいた?俺のこと」
どうやら、綺麗な元・友達は、女性ではなく男性だったらしい。
必死に首を縦に振り、同時に恥ずかしさといたたまれなさに彼から視線を外した。
「変だと思ったんだよ、アノ学園長が人間と仲良くするなんて」
『人間嫌い』で有名な学園長は業務そっちのけで生物研究に勤しむ変人で、エリナがドラゴン故に学園入学のお願いを快く聞いてくれた恩人でもある。
あの日も、弟は居なかったけど、お願いを聞く代わりにドラゴンの背に乗って空を飛んでみたいという彼に頼まれて叔父と一緒に出掛けたのだ。
私もやっぱり女の子なので、男性を背中に乗せるのは気が引けたし、かといって人間嫌いの弟には頼めない。そこで学園長とも親交のある叔父に頼んだ。
ご満悦の学園長は「エリナが心配だから当然俺もついていく」という、毎度お馴染みのシスコンの暴挙にも笑顔で(若干鼻息荒く)応えてくれた。
--という経緯を観念して伝えると、彼は「ああ、だからか…」と遠い目をしながら、何かを諦めたような顔で乾いた笑みをこぼした。
「でも、もうここには居られない…」
顔を伏せて、なるべくリフェルの方を見ないよう努める。
先ほどの淡い感情の変化に、気付いてはいけない気がした。
「短い間だったけど…仲良くしてくれて…ありがとう」
せめて最後は笑顔でと思い、彼に力なく笑いかける。
これでいい、さっきは助けてくれたけど、きっと彼もみんなと同じように私から離れていく。
お別れは辛いけど、…しばらくは里でゆっくりして、次こそ上手くいくといいな。
「え、なんで最後?」
しかし彼はエリナの感傷的な心情を知ってか知らずか、あっけらかんと言い放った。
「あ、もしかして弟君のこと間違えたの怒ってる?」
「え…いや…。えっと、私、ドラゴンだよ?」
おそるおそる尋ねてみるも彼は心底不思議そうに「だから?」とのたまった。
「今さら、ドラゴンぐらいで驚かないよ。そりゃ珍しいけど。アノ学園長の学園だよ?
それこそクラスには精霊もいるし、ドラキュラに、獣人に、悪魔に天使と、まさに人外のデパート!
普通の人間なんて俺含めて三割弱くらいしかいないよ?」
思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「あーでも、君のことは正直わからかったなぁ。探り入れても妙に人間っぽいし。」
「あ、ありがとう…?」
混乱のなか、謎のお礼を述べたエリナにリフェルがプっと吹き出した。
「ジジィの思惑に乗るのは癪だけど…、うん、悪くない」
何事かをブツブツ呟いたかと思うと、リフェルは「エリナ」と優しく呼びかけた。
彼女がいまだ彼の腕の中にいる状況は大変好都合で、「ふぇ?」と間抜けな声で応えたエリナの顎をとらえ、その唇を彼自身の唇でふさいだ。
彼女のなかに何か温かい魔力が流れ込んでくるのを、彼女は無意識に受け入れてしまった。
「よし、契約完了」
ひどく満足そうな彼に、動機の早くなった心臓とめまぐるしく回る頭が、彼女の許容量を超えた。
彼女の名前を呼ぶ、男子にしては高めの優しい声を聴きながら意識を失った彼女が目覚めたころには。
すでにエリナはリフェルの彼女という事になっていて。
いつの間にやら彼とパートナー契約を結んでいて。
学園長の企みだと知って乗り込んだところで、学園長が弟に踏まれながら恍惚とした表情を浮かべていて。
自分の気持ちに気付く前に、外堀を完全に埋められた事に気付いたけど、隣で優しく笑うリフェルを見ると、なんだか…もうどうでも良くなってしまうのでした…。うぅ。