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ホーン 第一章  作者: 忍 嶺胤
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風来坊

5.風来坊


 平坦な路が目の前に続いている。秋のよく晴れた日だ。

 これまで歩んできた人生の道は決して平坦なそれではなかった。人生を月並みに山に例えるなら、洗川泰朋の前には常に大いなる山が立ち塞がっていたといえよう。山を一つ越える度に、眼前には別の山が見えてくる。今まで越えたどの山よりも峻厳な威容を誇る山が。

 それらを目標に弛まず進んできた。

 だが、WMMAグランドスラムという世界最高峰の登頂を果たした時、その先には何もなかった。その偉業は前人未到故、そこに立った時、目の前に路はなく、荒野すら広がってはいない。進むべき方向が見えない。

 呆然と自分を喪った。何をすべきか望みが見えず、息することさえ苦しかった。

 だが今、泰朋は緩やかな足取りで路を歩きながら、昨日のことを思い出していた。変身、それは奇妙な体験であった。この世に生を受けてから感じてきたどの感覚ともまるで次元が違う。喜怒哀楽を超越した事象。しかし、思い出しているのはそのことではなかった。

 右側に丈の高い鉄柵が並んでいる。柵の向こうは公園なのか、密という程ではなく、よく手入れされた樹木が植えられている。昨日のホテルの植え込みよりも自然に近い樹形、樹勢で、逞しい生命力が感じられる。

 左手は車道だ。広い幅員の割に交通量はそれほど多くはないのは、高級住宅が並ぶ土地柄なのだろう。

 ホーンに変身した時、肉体に様々な変化が起きたが、その一つに視野がある。顔は前面に向けられているのに、後方も見えていた。つまり、首を回すことなく常にほぼ全周囲の状況を見ることができていたのだ。敵と闘いながらも、彼女の位置に注目し、把握していたのだ。

 彼女とは、月崎美那斗という名前だった。自己紹介され、名前も聞いてはいたが覚えてなかった。元来人の、特に女性の名前を覚えるのが苦手だった。執事の辺見に渡された名刺で改めて彼女の名前を文字で見て、自ら声に出して耳で聞いてみた。

 すると、その名は昨日の感触と共に、深く泰朋の心に刻まれるのだった。その感触というのは、泰朋が彼女の躰に触れた時、手に伝わってきた感覚である。

 ラスツイーターとの闘いを終え、下腹部に着けたコアを外し、人間の姿に戻った泰朋は、地面にへたり込んで動けずにいる美那斗へ歩み寄った。

 尋常ならざる闘いの直後で気が昂ぶっていたから鼻息も荒く、形相も鬼のようであったかもしれない。それ故なのか、美那斗が泰朋の顔を見た後で失神した。

 泰朋が近づいた時、その姿を横座りの姿勢で見上げた美那斗の双眸は、太陽の光が眩しそうに細められ、土に汚れた手を上げて翳す動きは、力なく弱々しいというのとは違い、典雅や流麗という形容に近いと感じられた。そして、ふっ、と口元を綻ばせたかに見えた次の瞬間には、細くて今にも折れそうな肢体が陽炎のように揺らめき、そのまま後方へ倒れていった。

「あっ」

 咄嗟に伸ばした腕が彼女の肩を掴む。長い髪が垂れる。

 泰朋は驚いた。

 彼女が卒倒したことに、ではない。その肩を掴む己の手の感触にだ。

 そこに女性らしさは微塵もなかった。

 どこをどう見ても、見るからに女性らしい彼女なのに、触れたのは筋肉の塊のような硬い肩だ。見た目の印象とは全く逆の強靭な肉体が、触れた掌と指先に伝わってくる。

 衝撃だった。

 声を失ったまま、時間が凍結したように、ただただ手の中の彼女を見つめた。

 視覚が訴えてくるものと触覚が訴えてくるものがあまりに相違していて、どっちを信じたら良いのか己が解らなくなりそうな、不思議で強烈な感覚に陥っていく。

 夜が明け、それでもまざまざと掌に残る感触。それが何か知りたいと、泰朋は歩みを進め始めたのだ。

 それは山頂から見下ろす雲海の隙間に覗けた曙の初光程に眩しく、無辺の暗い夜の荒野をあてどなく彷徨い続けた先で出逢った月光程にやさしい道標かもしれない。

 少し往くと鉄柵の一部分が安っぽく変わっていることに気付いた。まるで柵が踏み倒され、その向こうの樹々が余波の痛手を受けてようやく回復してきた所のようだ。

 柵自体は新しい物に修繕されているが、左右に接する柵に比べると様式も年代も別物ということが素人目にも解る。

 そこから更に数分、角を曲がると鉄柵は豪華な門扉へと続いていた。

 泰朋が公園と思っていたのは、月崎邸であった。

 無論泰朋の知るところではなかったが、今しがた通ってきた鉄柵の破壊の痕は、過ぎし日の怪人襲来の名残である。

 大きな門扉は閉ざされ、手で押しても鍵がかかっているようだ。どうしたものかと周囲に目をやると、脇に人が通るゲートとインターホンがあったので、ボリボリと頭を掻いた指を思い切ってスイッチに当てた。

 程なく応えがあったので、

「洗川といいます。そのーーーー」

 何と説明したら良いのかと思案していると、インターホン越しに聞き覚えのある声が返ってきた。執事の、名は何と言っただろう。

「今お迎えに参ります。解錠しますのでどうぞお入り下さい」

 ピッ、という電子音がしてカチッとキーロックの外れる音がした。泰朋はゲートの柵を潜り、月崎邸の敷地内に足を入れた。

 ぐるりと首を巡らせてみても、泰朋にはやはりそこは公園のように想えた。未だ青々と茂る木もあれば、季節柄色付き始めた葉の混じった木もあり、様々な樹種にあふれている。公園というよりは庭園だろうか。そんな樹々の向こうに少し頭を覗かせている黒い塔が二本あって、何となくそれがこの月崎という広い敷地の角のように感じられたのだった。

 人間にはない突起物で、ある種の武器であり、力の象徴でもある角ーーーー。

 車が余裕で二台すれ違える幅の路を進むと、屋敷の威容が見えてきて、寄り添うようだった二本の塔もその間隔を広げていき、更に角のイメージが濃くなっていく。高く聳える先は円錐形に伸び、更に上に避雷針が立っているのを見上げている所へ、辺見が小走りでやって来た。

「これはこれは、よくいらっしゃいました、洗川様」

「いや、泰朋でいいです」

「わかりました、泰朋様」

「いや、ただの泰朋で。様はなしでお願いします」

「そうですか? では、さんで」

 それも断りたいのだと言いたげに泰朋の指が頭を掻く。執事の辺見という男、丁寧な口調に柔らかな物腰だが、頑固な一面もあるようだ。促されるままに後をついて行くとロータリーがあって、広い廂の玄関につながっている。昭和かそれ以前を想像させる古い様式の建築物で、豪邸と呼ぶのを躊躇う者はまずいないだろう。

 建屋に入ると昼のことで照明は使われておらず、採光窓から得られるだけの心地よい穏やかな光量に満たされている。

「お嬢様は応接室でお待ちです。こちらへどうぞ」

 多少緊張した面持ちの泰朋が重厚な木造りの扉を抑える辺見の横をすり抜けると、背もたれの高い椅子に端座する気品ある女性の姿がそこにあった。

「洗川泰朋様です」

 締めたドアの前に直立して宣するが、美那斗の応えがないことを執事は不思議に思った。いつもなら沈黙からくる困惑を作らぬよう間を置かず挨拶をするし、何よりもまずは立ち上がるはずだ。その様な礼儀作法は幼い頃から教えてきたし、言われなくても自然に体が動いてしまう程身についている。

 三者の間に音も動きもない時間が流れていくのを嫌うように、辺見が口を開く。

「こちらは月崎美那斗様です。当館の主人です」

 所在なげな様子の泰朋が、少し驚いた表情で辺見を振り返る。まだ二十歳そこそこに見える若い女性が、二本の角を生やしたような豪壮な館の主人という事実が意外だったのだ。その辺りの経緯について想いを巡らせていると、長い沈黙を破って美那斗が声を発した。

「コアを返して下さい」

 視線を斜め下に落としたまま、静かに言う。声音は穏やかで、早口でもなく、そこから感情を読み取るのは難しい。

「それはあのメダルのことか?」

 コアの大きさが五輪の金メダルのサイズに感じられたので泰朋はメダルと呼んだのだが、コア、つまり核というからには、単なる飾りとは違う意味合いが含まれているように想えた。

「勿論返すが、その前に訊きたい。あれは一体ーーーー」

 変身のこと、怪人のこと、理由の解らない疑問だらけで、知りたいことはいくらでもあった。そして、何よりも気になるのが、何故かは解らないが美那斗のことだった。

 だがその当人は椅子をすっと音もなく離れると、疑念だらけの泰朋の眼を逃れるように応接室を後にしようとした。その背を泰朋の制止の声が打つ。

「待って。あ、あの、俺は…」

「後のことは執事にお訊きください」

 残した言葉は小さく儚げで、自信なさげで、いつもの彼女とは全く様子が違っていた。

 虚を突かれたと言おうか、拍子抜けしたと言おうか、泰朋はどうしていいのか判らなくなった。砂漠の大地に膝を着き、手の平の砂粒が指の間から流れ落ちてゆくのを止めることが出来ずに呆然となり、自分を見失うのに近い胸の疼きが去来する。

 扉が静かに閉まる音が拒絶の鐘音のように泰朋の胸に響くと、途方に暮れた顔を辺見の方へ向けるしか他にすることがなくなってしまった。視界の先に現れた辺見も、驚いた表情で戸惑っている。

 昨日リムジンの側に立つ彼女は、言いたいことをどう切り出すか迷って言い淀み、心をざわめかせている様子だったが、その雰囲気とは全く変貌してしまった物腰は何かを恥じているようにも、後悔しているようにも見えた。本当の所を知りたいという思いが込み上げて来た時には、もう彼女はそこから離れていってしまい、泰朋には大切な何かを喪ったような心の痛みが残った。

「彼女は何か、気を悪くしたのだろうか」

 独語のように呟く泰朋に辺見が返す。

「私もあのようなお嬢様は初めてでして。正直なところ、どうなさってしまわれたのか…。ああ、そうでした。スタッフからの伝言がございました。体に不調があってはいけないので、検査をしたいとのことです。只今準備をしておりますので、それまでお茶でもいかがですか」

「コーヒーをいただけると有り難い。それで、検査というのは?」

「詳細については後程説明していただけると思います。では、コーヒーを淹れてまいりますので、少々このままお待ち下さい」

 乞われた後に拒絶される。怒りがこみ上げるのではないが、呆気にとられた。一体自分は何のためにこの館にやって来たのだったかと泰朋は自問をしなければならなかった。ここに来さえすれば無条件で受け入れられ、望みは叶うと信じていたが、甘い考えだった。格闘家として体を使うことは得意だが、それに比べて考えることはあまり得意とは言えないが、それでもこの情勢に対する多少の戦略が必要になった。試合前夜と同じことだ。どうやって相手を切り崩していくか、窓の外で風になびく木の枝を見つめながら想像力を働かせていった。

 一方、応接室を出た辺見は厨房で湯を沸かし、コーヒー豆を挽き、ドリップを始めた。芳しい香が周囲に広がっていく時間を慈しむ様な淹れ方で、熱いコーヒーをカップに注いでゆく。漆塗りに金粉の蒔絵が施された、静謐で贅沢な盆の上に白磁の花弁型のコーヒーカップ、ソーサー、ミルクポット、シュガーポットと銀のスプーンを乗せて持ち、応接室に戻ろうと廊下を歩いている辺見は、エントランスホールに二階から下りてくるジョギングウェア姿の美那斗を見つけた。

「お嬢様」

 廊下の所々に点在する小型テーブルに盆を置くと、辺見は玄関で靴紐を締め直している美那斗に近付いて行く。バツが悪い様子で美那斗は辺見の方を向きもせず、日課のトレーニングの黙々と準備を整えている。

「先程の態度は些か礼を欠いておられましたが、如何なさいましたか。あれでは洗川様も困惑なさいましょう」

「ええ、解っているわ」

「解っていると? さて、それはどういう事ですか」

「辺見、私どうしたのかしら。自分でもよく判らないの。ただ、今は逢いたくない」

 両側のこめかみから広げた指を通して、長い髪を項の上で束ね終わっても未だ出かけようとしないのは、執事に何か話したいのか、泰朋に伝言を頼みたいのか。

 こんな煮え切らない態度の美那斗を見たのはもう十年以上前ではないかと、辺見は考えていた。だが、こうしている内に淹れたコーヒーが冷めてしまう。一旦泰朋の待つ応接室へ向うため盆を取りに戻ると、背後で美那斗が外へ行こうとする気配があった。

「ーーーーこれって多分、嫉妬だと思う」

 存外な言葉に視線を巡らせた時には、美那斗の姿は外へ消えていた。



「お待たせしてしまって申し訳ございません、泰朋さん」

 応接室に戻ってきた時、辺見の口元はどういう訳か微笑で緩んでいた。出掛けに残された美那斗の言葉の意味を、辺見は曲解して捉えたようだ。初さ故に経験の少ない感情を嫉妬と履き違えているが、それは男女の心理から起こるものと邪推したのだ。

 泰朋は名前で呼ばれたことで緊張がほぐれたのか、コーヒーの香の効果もあって室内の雰囲気はがらりと一変した。

 窓の外に広がる中庭の木々で遊ぶ小鳥たちから目を離すと、泰朋は辺見に勧められるままに椅子に腰掛け、コーヒーカップを手に取った。立ち昇る湯気を胸に吸い込み、一口濃い琥珀色の液体を啜ると、途端に気持ちが和らいでくる。品の良い装飾品、採光と照明の調度、改めて室内を眺めると、こんなに落ち着ける応接室というのも滅多にない。カチリとカップをソーサーに置く音が耳障りよく鳴る。

 泰朋はカーゴパンツのポケットからコアを取り出すと、テーブルの上に乗せた。

「これがコアってやつですか」

 太陽の紋様の浮いた銀盤を泰朋の指の腹がとんとんと叩く。

「はい」

 泰朋はコアを使った時の事を想い出していた。彼女の手から放射線を描いて投げられたコアを受け止めた。まるでそのコアには彼女の大切な想いや願いが一緒に托されているようで、重く、切なく、暖かく感じられた。

(太陽に翳して)

(おへその下に当てて)

 あの時の彼女の声が蘇る。想いを伝えようと一生懸命なのがよく判る声。

(変身して)

 生まれてから今に至るまでの全ての秒数を涙に変えて絞り出し結晶化させるように切実な願いが溢れ出し、泰朋は宙を舞う鱗片の全てを掻き集めるようにそれに応えようとした。彼女が望むからそうした。

「何からお話すれば良いのか。ことは少々複雑なものですから」

「では、細かいことは省きましょう。一番大切なことから教えてください」

「一番大切なこと、ですか」

「そうです」

 泰朋は残りのコーヒーを飲み干した。

「彼女の夢を知ってますか?」

 辺見の顔が驚きの表情に変わった。コアの事でも変身の事でも怪人の事でもなく、一番大切なのが美那斗の願望だという。辺見は事務的な、しかも常識を大きく逸脱した事柄を解り易くしなければならないと考えていた。超常現象を科学的な知見に基づいて説明するなど上手く出来ないし、怪人がこの邸を襲った夜を含めた月崎家の事情をどこまで教えて良いのかの判断にも迷う。

 だが、泰朋は彼女のことが知りたいという。

 幼少の頃より、いや生まれた時から彼女の世話係、教育係をして、ずっと共に過ごし成長を見守ってきた辺見は、この泰朋の言葉でまた少し勘違いをしたかもしれない。泰朋は美那斗に興味があるのだ、と。

 先刻の美那斗への勘違いと相俟って、辺見の二人への感情はこれを境に微妙に変化したようだが、執事としてのスタンスは基本的に見守ることで、両者を無理やりくっつけようという気持ちは毛頭なかった。それでも、自然と目元が和らぐのを押さえることは出来なかった。

「お嬢様の夢ですか、そうですね」

「夢に向かって真っ直ぐひた走っているのは解る。あんな女性、今まで見たことがないよ」

 泰朋はコーヒーカップから離した手を目の前で開いてみた。

 掌や指の皺一本一本に記憶が刻まれているように、美那斗の肩に触れた感触が鮮明に蘇る。女性特有の肌の柔らかさはそこには無く、玄翁で叩き続けて鍛造した鉄塊のような熱と硬さ。ラスツイーターとの闘いの後、人間の肉体を取り戻した泰朋が倒れていた美那斗を助け起こした時に掌が覚えた質感は、あまりにも異質で驚愕を覚えた。

「成し遂げたいことがあって、必死に足掻いて、苦しんで、そうな風だった。痛々しかった」

 美那斗の苦悩や痛みを想うと胸が締め付けられそうになる。何故だかは判らない。

 ホテルの裏口で最初に見た時はそうでもなかった。確かに美しいとは思ったし、素敵な女性だとも思った。だが、変身した後では、彼女への気持ちがどんどん内側で膨らんでいくのを抑えられない。

「おそらく怪人を討伐するのが、お嬢様の目下の願望でしょう。約一年前に怪人がこの屋敷を襲い、旦那様が亡くなられてからというもの、復讐するためだけの生活に変わってしまいました」

「その怪人というのが、でかい手のアイツなのか」

「いえ、あれとはまた別の怪人です」

「ではまだ復讐は終わっていないのか」

「はい。今も走りに出掛けてゆきましたが、体を鍛えて力を得ようとしているのは、全て怪人と闘うためです」

「ラスツイーターという怪人がここに来て、彼女の親父さんを殺した」

「正確にはそうではないのですが、結果的にお嬢様は天涯孤独の身になりました。そういえば泰朋さん、お家族は?」

「母が田舎に」

「お母様が、そうですか。それで、その、奥様は?」

「えっ、い、いえ。そんなものはいません」

「独身ですか? 今まで結婚されていたことはないのですか?」

 妙な話になったと内心焦りながら困った様子でいると、応接室の扉が忙しなく叩かれた。中からの応答をまたずに扉が開かれると、白衣姿が無遠慮に入ってくる。

「検査の用意が出来たわ」

 それは向浜紙戯であった。

 紫色に白のボーダー入りジャージのファスナーを一番上まで閉め、その上に白衣を羽織っている。ジャージは大きめのサイズらしく、裾は太腿の半分程度隠してはいるが、その下に履いているだろうものは見えず、素の脚がすっと伸び、足には茶色いサンダルが引っかかっている。

「うちの設備で可能な限りのことしか出来ないから、普通の病院の検査という訳にはいかないわ」

 バインダーに挟んだ用紙をパラパラと捲りながら紙戯が呟く。

「検査って、何ですか」

「あ、ああ。貴方が洗川泰朋さんね。向浜と言います。よろしくね。検査については未だ話してないの、辺見さん。ああ、そう。コアを使って変身したのよね。それが人間の体にどう影響するのか知りたくて。こう言うと実験の対象物と捉えていると思われるかもしれないけど、もしも機能的な障害を併発していたら不味いでしょ。超人的な動きをしたわけだから、筋肉の疲弊や関節の痛みなんかは感じられない? 自覚症状はなくとも脳細胞の減退や癌細胞の活性化等の悪影響の有無も興味あるところだわね」

「あれってそんなに危ない事だったのか」

 泰朋の不安を遮るように紙戯の掌が上がる。

「全く予測が立たないわ。何しろファーストケースなんだから」

 そう言うと紙戯は反対を向く。すぐにも検査に移るために部屋を出て行きたい様子が窺える。その背には輪ゴムで束ねたボサボサの髪が垂れ下がっている。

「ファーストケース。俺が最初だったというのか」

「そうなるわ。貴方が人類史上最初にコアによる変身を果たした人物で、ラスツイーターを倒した唯一の人間よ」

「検査は構わないが、体の調子が悪いということはないです。むしろ長年の疲れが一気に消えてしまったように体が軽いのを不思議に思っていた所です」

「ふうん。では、行きましょう」

 紙戯がドアを開ける。

 立ち上がりながら、泰朋はテーブルの上のコアを握り、自分のポケットに戻した。

 その後、約二時間を検査に費やした。

 採血、心電図、MRIが終わると、機能チェックを兼ねた身体測定を行った。最後には紙戯の問診があった。紙戯が注目しているのは体の面よりも、むしろ心の問題のようだった。科学的な根拠の判断をつけづらい事柄を材料にするのは、これまでの紙戯にしては珍しいし、疑念を解消するための手段が話を聞く作業であり、必ずしも得意な分野ではない。

 おまけに泰朋はすっかり退屈していて、関係のないことを口にしたり、答えをはぐらかせたりと、紙戯は少しイライラしているようだった。

「じゃあ、今までの所をちょっと纏めてみるけど、変身した時のことは今でも覚えていて意識もしっかりとあったのよね。それでいながら、人間以上の感覚を宿していたのも解っていた。例えば、見えるものが違っていた、と」

「目に見えるものについてはそうだ。上手く言えないが、人間の姿の時とは見えるものが同じでありながら、そこから得られる情報が段違い、そんな感じだった」

「人間の視覚情報は脳で処理される際、特に重要と判断しないものは見えているけど気にしないフィルターのようなものがあるから、それが取り払われた、ということは考えられるけど、それよりも私が想像するに、赤外センサーで見えるもの、温度感知器で見えるもの、レントゲンカメラで捕えるもの、それに実像、そうした映像が一つに重なって見えるような感じではないのかしら。人間の眼がインスタントカメラだとしたら、変身後は高性能カメラの機能をフル活用しているような」

「ああ、成程。上手い例えだな、そんな感じだったよ」

 泰朋の回答を訊きながらメモを取る手の動きが速い。向い合って椅子に座る紙戯は両膝の上にファイルを置き、前屈みになって文字を書き綴っている。時折ちらっと目線を上げて泰朋を観察している。

「ところで、えっと、何さんだっけ?」

「向浜ですけど」

「そっか。えっと、向浜さんは何歳ですか?」

 上げた目線がそのまま数瞬間固まり、

「名前は会話不便をきたすので必要ですが、年齢は特に必要性を感じないので、教えようとは思いません」

「見た所俺と同じ位かと思うんだけど、ここの施設のリーダーですか?」

「リーダーではありません。今の研究スタッフは皆が各々専門分野で作業を行っているので、まとめ役がいないという点では円滑に機能しているとは云い難いでしょう」

「研究というと、やっぱり怪人の研究ということになるんですか?」

「ええ、まあ。それよりも、今度は感情について尋ねます。変身中、そうですね、あの怪人のことはどう思ってましたか? 憎いとか、醜いとか、可哀想だとか、殺してやりたいとか、どうです」

「うーん、そうだな。感情とは少し違うかもしれないけど、兎に角うるさかった」

「うるさい?」

「そう。変身する前は聴こえなかったんだが、変身した後には声が聴こえてきた。あいつ、ずっと喋り続けていて、頭に響くというか、癇に障るというか。不快で、その声を消したいと思ってた」

 怪人がよく発する「イーッ」という音、あれは言語の一種だったのかと、紙戯はその点を深く追求した。

「何と言ってたの?」

「そうだなぁ。ほとんどが同じことの繰り返しで、『壊したい』、『破壊したい』、『めちゃくちゃにしてやりたい』そんな欲求を吐き出してた。『破壊してやる』、『破壊したい』、『破壊させろ』って感じかな。俺はそれを聴く度に頭が割れそうになり、嫌な感じがしたよ」

紙戯は暫くの間質問を止め、考えに耽っていた。膝の上のファイルに顔面をくっつけるようにじっと動かない。不審に思った泰朋が覗き込もうとした所で、不意にガバっと頭をあげる。

「わっ」

「では、美那斗ちゃんについてはどうです。どう思いました?」

「えっ」

 紙戯の動きと問いの両方に不意を突かれ、泰朋の言葉は出てこなかった。

「超人的な視覚を得て、闘いながらも彼女のことは見えていたのではないですか? 辺見さんに聞いた話だと美那斗ちゃんを助けた、と」

「ーーーーあの人のことは、護りたいと思った」

 上目遣いに何度も頷きながらメモを取った紙戯は、何か納得した様子だった。いくつかの用紙や録取したメモをバインダーに挟むと、おもむろに立ち上がる。

「ご協力ありがとうございました」

「終わりか?」

「はい」

 そのまま立ち去ろうという勢いの紙戯に、泰朋が慌てて声を掛ける。

「そっちの知りたいことだけ訊いといて、こっちの疑問は放ったらかしなのか」

「身体検査の結果はすぐには出ないわ。解析終了後にデータを見て診断結果を提示します。無料で健康診断ができたのだから、イーブンでしょ」

「そのデータを研究に使うっていうなら、イーブンでもフェアでもないだろ」

 さすがは格闘家というべきか、少し語気が荒くなっただけで凄みが感じられるし、言い分も最もらしく、頭の回転も悪くはないようだと、紙戯は内心軽んじていた目の前の巨漢を改めて見つめ返すと、ややしてから

「・・・何を訊きたいの?」

 バインダーを胸に抱くように座ったままの泰朋を見下ろしている。見下ろすとはいっても、巨大な体の泰朋に対しては大して視線は下を向かない。全身が筋肉の塊のような巨軀だから容易く変身が出来たのだろうか。今日採取したデータからその辺の因果関係を探れないものか検討したいと考えていると、その想いを見透かしたように泰朋が訊いてきた。

「変身って、何なんだ。何であんな事が起こるんだ」

 月崎研究チームスタッフ一同その答えを捜しているといえる、それは根本的な問題であり、未だ解答は得られていない。予測や推定の域を出ていないことを前提としてと紙戯は前置きしてから、自分の考えを一時纏める上でも、簡単で解り易い表現を心掛けながら話していった。

「泰朋くんが対戦したラスツイーター、私はクラブと呼んでいるのだけれど、私達が遭遇したのは今回が二度目なのね。前回クラブを見た時は両手が有ったわ。手よ、五本の指の付いた手。それが今回は手ではなく棍棒の様な、ただの叩く武器に変化していた。泰朋くんの話によると、あの怪人は破壊を望んでいた。つまり手よりも二回目の形態の方がより破壊に特化できると考えて自らの形を変えたという事になるわ。これが怪人の最大の特徴とも言えるわね。そして、コアも同じよ」

 検査着から私服に着替えた泰朋のカーゴパンツのポケットにはまだコアが納まったままだ。ズボンの布越しに手をそっと当て、コアの輪郭を指で撫でるように存在を確かめる。

「怪人の変異能力と人間の科学技術の融合した結晶、それがコアよ」

 研究室の一つを簡易的に診察室に仕立てた部屋は、様々な機材や書類が山積みにされている。求められるものは機能であって、豪壮な館の内部に似つかわしくない程に装飾の類は一切ない。グレーの事務机に寄りかかるように座りながら、紙戯の語りは続く。

「太陽光をパワー源としてコアが活性化すると、その力で第二のチャクラを回す。人間の潜在能力が発動すると脈管が伸び、全身を覆い尽くす。これが変身のシステムよ。美那斗ちゃんが言ってたわ、『ホーン』って。いい名前だわ。私はその姿、まだ見ていないから、今度是非見せて欲しいものだわ。それはそうと、コアは外見の変容もさることながら、おそらく内的な変異もあるはず。元来の自分とは違う、誰か別人の意識を感じるとか、衝き動かされるものがあるとか、変身の前後で考え方や感じ方が変わったというようなことはないの?」

「さっきもその事を訊いてたけど、ないこともない」

「やっぱり」

 紙戯が勢い良くデスクから飛び降りる。ジャージの裾がめくれ上がり、日焼けのない白い太腿が顕になると、泰朋は目のやり場に困って天井を見上げた。そんな仕草も紙戯には伝わるものが何もないらしく、話の続きをせがむような目で見つめてくる。

「あの後、ネットで検索して、噂になっている怪人が他にもいるらしいということが解った。倒した奴以外にもまだいる、そう思うと落ち着かなくなった。こういうのを多分正義感とか使命感って言うんだと思う。俺にはそんなもの、全然なかったのに」

 使命感と聴いて、紙戯には想い当たる節があった。想い浮かぶ人がいた。

 月崎護だ。

 幼少の頃から泰朋には友と呼べる仲間はいなかった。シングルマザーの母に育てられ、学校でも家でも常に孤独だったせいか、いつしか周囲の人に関心を寄せない様になっていった。極端かもしれないが、自分さえよければ他者はどうなってもかまわない。根っこのところではそう考えていた。格闘技を習い、強くなりたくて、母の稼ぎが少ないのを承知で必死に道場に通わせてくれと懇願した。強くなれば誰もいなくても淋しくない。そう考えていた。

 だがそれは、他者を寄せつけない生き方とも言えた。間違いだったろうか。

 近頃怪異が起きていることを海外を転戦していた泰朋は全く知らなかった。仮に自分がその場面に逢ったとして、降りかかる火の粉は払えると自負している。だが、他人に降り注ぐ火の粉まで払いのけるつもりはない。

 そう考えるはずであった。だがーーーー

「心の中で何かが叫んでるみたいだ」

「そう。そうなのね」

 家庭でのことは置いておいても、科学という領域において、護という人物は使命感に燃えていたと紙戯は感じているし、そこに感銘を受けもした。人類に科学で貢献する。その為の研究なのだと、心底信じて疑わない。ともすれば絵空事にもとられかねない事を真険に考え、突き進んでいた。そんな護だから、これまで紙戯はついて来たのだ。

 いや、彼女だけではない。今残っているスタッフは一様にそうだろう。

 その想いがきっと、コアにも詰まっているに違いない。

 その想いにどう応えようか、紙戯は思考を巡らせるのだった。



 普段より数時間遅く帰宅した美那斗はシャワーで汗を流しながら、酷使してきた筋肉をクールダウンさせると、部屋着に着替えて厨房で食事を摂った。かつて食事といえばリビングで頂くのが当然だったが、広い食卓にわざわざ一人分の食器を並べ、料理を運ぶのは効率が悪いからと、美那斗の提案で今のスタイルに変更した。

 厨房には小さなテーブルがシェフの賄い用として配置してあったが、その上に夕食が一人分乗せられている。作ったのは執事の辺見だ。管理栄養士に教えてもらったアスリート用のメニューを基に、二人で話し合って決める。美那斗の要望は食材や味付けに関するものではなく、なるべく品数を減らし、食べ易いやわらかいものを、という点であった。なるべく時間を掛けなくて済む様に、それでいて肉体を作り上げるのに不可欠な栄養が充分補給できるようにという狙いだが、辺見にしてみればせめて食事と睡眠くらいはゆっくりとって欲しいと願うのだった。

 この日はテーブルの上に、豆腐ハンバーグに大根おろしを添えたもの、温野菜サラダ、あさりとネギの味噌汁、玄米ご飯が並んでいた。

「いただきます」

 一口一口しっかりと噛んで栄養を摂取するような食べ方だった。食器を鳴らすこともなく、汁を啜る音も立てない。静かなテーブルは味気なく、時々口の中の味が感じられなくなる。きっちりと計算された量の載った皿が空になる頃、最後にグレープフルーツの入った白磁の小皿が辺見から差し出される。

「コアは返してもらったの」

「それがすっかり失念してしまいまして。後程連絡して戻していただくようにします」

「そう」

 ため息混じりの美那斗の返事には複雑な想いが混じっていた。落胆を装ってはいるが、内心ほっとしてもいた。ただ、預けておく理由が思い浮かばない。

「ごちそうさま」

 自室に入るといつもの癖でパソコンを立ち上げる。ラスツイーターの関連情報は全て共用のアーカイブに保存され、関係者であればいつでもどこからでもアクセス出来るシステムが構築されている。新しい情報があればフラッグが立っているので、一目で解る仕組みだ。この時はNEWのフラッグがShigi Report に付いていて、開くとテキストデータに紙戯が書きなぐった文字の羅列があった。

 項目は二つあって、一つが「LE#03 クラブ」というタイトルが記されていた。昨日遭遇したラスツイーターに対する記述のようだ。もう一つはタイトルに「ホーン」とある。

 どんな情報でも把握しておく重要性は理解していたが、この夜は何故か読み進める気になれなかった。

 ベッドの端に腰を下ろすと、足の裏を床につけたまま上体を後ろに投げ出す。両の腕を左右に広げ、シーツの冷たい感覚を味わうように天井を見上げた。

 あれ以来、事ある毎に思い出すのはホーンの姿だった。雄々しく猛々しい、圧倒的な力の象徴のような姿形。

 何故彼はいとも簡単に変身出来たのだろう。

 毎日体を痛めるように鍛錬を重ね、苦しくて、吐いてしまいそうになる程辛くて、切望し、渇望しても、未だ変身出来ずにいる自分を嘲笑するが如く、まるでそれが当然であるかのようにホーンへ姿を変え、更には怪人を葬り去ってしまった。

 勿論、それが悪いわけではない。むしろこんなに喜ばしいことはない。怪人に対抗できる手段を人類は手に入れたのだから。

 だが、どうしてそれが自分ではないのだろう。

 こんなにも努力しているのに報われない気分だった。

 これまでして来た事は、全て徒労にしかすぎないのだろうか。

 部屋着のロングワンピのカンガルーポケットに手を突っ込み、指先に伝わる感触を確かめる。陰のコアがそこに有るが、つまらないアクセサリー同様、何の役にも立たない物体でしかない。

「口惜しい」

 思わず呟いてみる。

「なんで、なんで、なんでなのお父様ーーーー」

 父が遺してくれた力は自分へ託されたものではないのか。自分に受け継いで欲しいと父は想っていたのではないのか。

 父の記憶のデータにコアに関する記述は少ない。コアという概念はあっても、形になる前に生を閉じてしまったからかもしれない。父はこれをどう使って欲しかったのであろう。

 解のない問は深く夜気に飲み込まれていき、そのまま美那斗は眠りについた。



 翌日も美那斗は走った。いつもより気分が乗らないと自覚していたが、体を鍛えることは習慣化させてあったので、ルーティンをこなさないと気持ち悪い感じがして、そうせずにはいられないのだ。

 白地にスパイダー柄のウェアの他に、最近は防護用のコートとブーツとグローブを装着するようにしている。外で突然怪人に出くわした場合に備える意味もあるが、重い装備は躰への負荷になるからだ。流石に武器の携行は法律違反だが、それに近い重量物を代替品として身に着けている。

 傍目には不自然な印象を抱かれるのも否めない様な格好で、美那斗は疾駆していく。

 ストライドの大きな走法で街中を駆け抜け、三角公園と呼ばれる自然林のアップダウンを走破する。

 木々の間を縫って抜けると、小路に飛び出した所で足を緩め、そのまま歩きに変える。はぁはぁと息を切らせ、両手を腰に当てて進むと、木造りのベンチが何客か並んでいる。そこで美那斗は小休止することにした。

 コートを脱いでベンチの背凭れにかけると、ゴトンと重たい音がして周囲の注目を浴びないかと警戒しながら、トレーニングウェア姿になった美那斗は両手を両膝に当てて呼吸を整えている。遠くからでも荒い呼吸音が聞こえそうで、その様子を見ている者がいた。

 コートのポケットに仕舞っていたペットボトルを取ると、水を口に含む。必要最低限の水分補給の後、ペットボトルを首筋に押し当てると、少しだけ熱が引いてゆくようだった。呼吸が整ってきた。普段ならここで再び走者へ戻っていく頃合いだが、やはり気乗りしないのか、脚が動き出さない。

「ふぅ」

 溜息の混じった深呼吸で気持ちを切り替えようとしていると、目の前を小学校低学年位の男の子がはしゃぎながら走っていく。意図せず目で追っていると、男の子は躓き、派手に転んでしまった。

「あっ」

 思わず叫んで、男の子を助けようと近付いて行くと、

「止めて下さい」

 と、制止する声がした。振り返るとコートを掛けた隣のベンチに男性が座っていた。直ぐ側に人がいることに全く気づかず、美那斗はまずそのことに驚き、次いで地面に伏して痛み苦しんでいる男の子を助けようとしない父親の挙動に驚いた。

 不審がる様子を見せる美那斗の表情は、父親に説明を求めているようだった。それへ、

「その子は自分で立ち上がりますから、手は貸さないでくれませんか」

 意外な言葉に戸惑いながら、後ろ髪を引かれる思いで男の子の傍を離れる。

 やがて男の子は一人で起き上がると、手を払い、服の袖で頬を拭い、また走り出した。

「すみませんでした。親切にしてくださったのに、あんな事言っちゃって」

 父親の視線が泳いでいるのは、奇妙な美那斗の装いが気になっているからだろう。ショートパンツから伸びた脚にはホルダーを固定するための黒いバンドが巻かれているが、あたかもボンデージファッションのようにも見え、ドキリとさせられる。

「いえ、私の方こそ余計なことをして、申し訳ありませんでした」

 奇抜なファッシヨンとは似合わない丁寧な口調の美那斗のちぐはぐさが可笑しかったのか、父親は彼女への興味の度合いを更に増幅させ、気さくさを装いつつ話しかけてきた。

「子供が転んだら手を差し出して助け起こして、怪我してないか気にかけ、泣いていたら宥めてやりたくなる。それが親というものです。でもそれじゃあ、子供は一人で起き上がることを覚えられない。転んだ時は起き上がる訓練の絶好の機会なんです」

「そう言われると、そうですね」

「手を貸してしまうと、あの子は転べば助けてもらえると考えてしまう。それでは成長できないので、助けたい気持ちを抑えて我慢する。父親って案外心苦しいものなんですよ」

 子の父、というのはそんな風に子供のことを考えるものなのか、美那斗は初めてその想いに触れた気がした。

「少し伺ってもよろしいですか?」

「えっ、はいどうぞ」

 若い女性の気を引くことに成功した気恥ずかしさと悦びとで口元が機嫌よく緩んで仕舞わないように、下心を悟られないように、父親は美那斗よりも子供に幾分多めに視線を渡らせる。

「あの子のお母様はどうしますか? 今みたいに子供がころんだ時」

「うーん、そうですね。あの子の母親はもう亡くなってしまったんですが、きっと手助けしてしまうでしょうね。抱き起こして、痛みを癒そうとするんじゃないかなぁ。まあ想像でしかないですけどね。やはり男と女は考え方が違うでしょうから」

「パパーーーー」

 向こうで子供が呼んでいる。

「おう、今行く」

 父親は立ち上がり、美那斗に軽く頭を下げ、かなり後ろ髪がひかれる様子ではあったが、子供の方へと近づいて行った。

「これ持ってて」

 転倒した痛みなどすでに忘れたように、子供は被っていた水色のキャップを放り投げて走り出す。つばの部分を強く手で握る癖があるのだろう、先端が丸まったキャップは小さなタモ網か柄の短い柄杓のように見え、地面から拾い上げた父親はそれを振り回して空気をすくい取るようにキャップを膨らますと、自分の頭に乗せた。子供サイズの帽子はただ乗っかっただけで、少しの振動でも落っこちそうだ。

 可笑しな格好の父親のことを子供が揶揄するように指差して騒いでいる光景を、美那斗は複雑な想いで見送ると、ペットボトルを仕舞い、再び防護コートに袖を通し、親子とは反対の方向に走り出した。

 樹々がざわめく。

 風はない。

 空には遥か遠くに小さく白い真円の月が浮かんでいた。



 古びた黒い洋館である月崎邸の東側二階の一室は、隣接する部屋と合わせて書庫兼書斎となっている。

 美那斗の祖父の新道の蔵書に護と環汽の専門書が加わり、重厚な書棚に数千冊と陳列された様は圧巻だ。書棚の一角に児童文学や図鑑が並んだ美那斗用のエリアがある。

 午前中のトレーニングを切り上げ、美那斗は書斎に居た。

 蔵書の中から一冊を引き抜く。表紙には鳥類図鑑とあり、顔を近づけるとインクのかすかな香が漂い、幼少の頃の記憶を蘇らせてくれる。

 自室に戻り、机上に図鑑を置いたままパソコンを起動させる。

 父の記憶の記録の中に、本に関係する話があったはずだ。鳥類図鑑という文字を検索していく。

 あれは確か、小学校に入学して間もない頃だったと思う。それまで知らなかった沢山の事を知ることの出来る学校という場所へ毎日通うのが大好きだった。懐かしく思い出しながら、検索して開いたページを読んでく。

「知識欲の旺盛な子だ。次から次へと疑問を投げかけてくる。鳥はどうして飛べるの、夕日はどうして赤く変わるの、青い花と白い花ではハチミツの味は違うの、水はどうして掴めないの、飛行機の翼はパタパタしないのにどうして空を飛べるの、難しい質問ばかりだが、解り易いように教えてあげる作業はとても楽しいし、ワクワクしてくる」

 父の記憶を読み進めていくと、あの頃の記憶が蘇るようだ。

「知識を与える作業にふと疑問を抱く。心理学や育児の本を紐解いてみると、これは菓子や玩具を湯水の如く買い与えることと大差ないと思えてくる。知りたい事を与えてばかりでは、自分で調べたり、考えたりする力は養われない。自分の喜びや楽しみで子供と接するのは父親の責務ではない。子を思うなら、あえて失敗させることも視野に入れて、様々な事を体験させるようにしなくては。喜怒哀楽、いずれをも。それが子供の成長、人格形成、自立へ繋がっていく。具体的方法はこれから考えるとして、まずは図鑑を買って、解らないことは調べるように伝えてみよう」

 書斎の棚の一角を示されて、解らないことはまず図鑑を見るように言われ、それ以来訊いても直ぐに教えてくれなくなった。美那斗はそれを父親の仕事が忙しいためだと淋しく想っていたのだが、そんな理由があったとは今まで気付きもしなかった。

 立場が違えば考え方や行動が違って当たり前のことだが、父親の心理というものをこれまで想像したことがあっただろうか。父親は常に自分の味方、擁護者、そんな風に考えていなかったろうか。

 父親の愛の大きさに触れた気がした。

 道を歩いていて石に躓いて転んだ子供の姿を思い出す。

 人は失敗した時、どんな反応をとるだろう。そのまま起き上がらず、泣いてばかりいることもできる。前向きに進むにしてもやり方は色々で、その後ずっと下を向いて石がないか注意するやり方もあるし、転んでもすぐ立ち上がる素早さを身につけたり、転んでも怪我をしない受け身の方法や体を鍛え、耐性を上げることも出来る。

 対処方法は人それぞれで、どれが正しくてどれが間違いということではないが、今目の前の困難に対して感じる想いや行動は、彼女が一人で考えて身につけたものではない。その思考へ辿り着くための成長の影には、父の想いや接し方や愛があったのだ。

 胸の内側がじんわりと暖かくなる。

 陽だまりの中に立ち、見上げると樹々の枝葉の向うに太陽が輝いている。もう話をすることはできなくても、空にはいつも父がいて、見守ってくれている。そんな風に感じることができた。

 久しぶりに穏やかな気分に包まれたままトレーニングウェアを着替えて昼食を摂っていると、様子がいつもと違うことに辺見が気づく。

「何かいいことでもありましたか?」

「ーーーーなんでもないわ」

 父親の愛を感じて嬉しいと言うのが恥ずかしくて、美那斗は言葉を濁した。

 辺見はそれ以上追及しようとせず、デザートのオレンジが入った切子ガラスの皿を置いて下がっていった。

 昼食後は休憩をとり、東館の地下のワインセラーを改造した射撃場や一階のトレーニングルームで鍛錬し、その後再びランニングのために館の外へ出る。

 玄関から伸びる舗道に沿って足首や手首を回しながら歩いていると、金属の軋む音と伴にゲートが開くと、続いてエンジン音と排気音が聴こえてきた。ゲートが完全に開ききるのを待って滑り込んできたのは小型のバイクであったが、美那斗にはそうは見えなかった。

 岩のように大きな塊が移動している。

 巨大な岩石はゆったりと流れるように移動しながら、美那斗の近くで停止する。岩かと思ったそれがフルフェイスのヘルメットのシールドを上げると、洗川泰朋の顔がそこに現れた。

 ただでさえ巨大な躯体に登山家のようなリュックサックを背負い、寝袋や簡易テントの装備も一緒に括り付け、まるで引っ越しのような大荷物だ。それに対して乗っているバイクはあまりにも小さすぎる。

「よ、よう」

 遠慮がちに泰朋が声を掛けると、美那斗はそっぽを向く。完全に泰朋に背を向けているので表情は一片も覗えないが、その肩は小刻みに震えている。泰朋の戸惑う目の前で、震える肩の振幅が次第に大きくなっていき、上半身がくの字に曲がっていき、ついには堪え切れずに吹き出す音がする。

「お、おいーーーー」

 泰朋が声を出そうとすると、美那斗が手の平を突き出し、こう言った。

「待って、やめてっ」

 それだけ言うのがやっとで、後には続けて大きな笑い声が起こった。そして、止まらなかった。

「あはははは、あははっ」

「何だよ。何なんだ」

 バイクから降りた泰朋はヘルメットを脱ぎ、短髪の頭をグローブを着けた指で掻く。

 美那斗は遂に両膝を地面に落とし、片手で体を支えながら反対の腕で腹を抱えている。何が可笑しくて全身を震わせて息も出来ない位笑われているのか見当もつかない。泰朋は今日もまた、意外な美那斗の面を見せられて驚かされることになった。

 彼女に逢うといつもこうだ。

 麗しの令嬢かと思えば硬い筋肉に覆われ、いきなり逢いに来てくれたから今度はこちらから逢いに行くと目も合わせないような拒絶に会い、冷たい心の持ち主かと思ったがこんなにも大笑いしている。

「訳が判らない」

「泰朋くん、いらっしゃい」

 戸惑う泰朋とようやく少し笑いが収まってきた美那斗の方へ、屋敷の方から辺見が歩み寄ってくる。気さくに声を掛けたのは、辺見がコアの件で思い悩んでいる事を物語っていたのだが、二人はそうと気付くより先に、辺見のポケットの中から携帯電話が緊急を告げる音を響かせた。

「LE出現!」

 携帯を開いた瞬間、紙戯の叫ぶ声が聴こえた。

 三人の面に緊張が走る。

「辺見、車と武器の用意を」

「はい」

 美那斗の凛と透る声に弾かれたように、辺見が走り出す。

「泰朋さん、一緒に来て下さい」

 一瞬に表情から笑いは消え、厳然たるものに変わっている。眼差しは真剣だ。

 黒いコートの前合わせを両手で左右に引くと、ボタンが一斉に外れる。左右の大腿部に取り付けてあるホルダーには擬似銃と剣が嵌めてあるが、それらを外す。トレーニング用に重りとして釣り下げていたものだ。

 泰朋は美那斗から思わず目をそらさずにいられなかった。

 いきなり目の前で着ているものを脱ぐ所作をしてみたかと思えば、下には体のラインがはっきりと解るようなフィットしたものしか付けておらず、肌理の細やかな白い素脚に巻かれた黒いベルトが過度に艶っぽく見えたからだ。

「コアは持ってますね」

 コートの内ポケットからタブレット携帯を取り出すと、指を走らせタップしながら、泰朋の顔を見、泰朋の肯定の応答に頷き返す。

「紙戯さん、詳しい場所は?」

「今地図を送ったわ。ここからそんなに遠くない。小学校の近くよ」

「えっ」

「現地情報はまだ不明。気をつけて」

「解った。それから、泰朋さんも一緒に行くから」

「そこにいるの? そう、じゃあ彼に伝えて。『潜在意識を解き放て』って」

「解った」

 タブレットを持つ手を下ろした時、轟音が聴こえてきた。屋敷の裏手にあるガレージからだ。

 紙戯の伝言を泰朋に伝えていると、轟音が大きくなり、直ぐに一台の車が二人の横に停まる。

「乗って下さい」

 重く底響く音を聴いた時からあった嫌な予感が的中した美那斗は、渋面を己の執事に向かって投げつけるように振り向いた。

「おっ、コプラ!」

 驚嘆の声を漏らす泰朋に辺見はニンマリしながら親指を立ててみせる。

「さぁ、早く」

 確かに呆れている場合ではない。事は一刻を争うのだ。

「泰朋さんも一緒に行くのだけれど、これ二人乗りでしょ」

「いや、俺はバイクでついて行くよ」

 泰朋の行動は速い。背中から大きなバックパックを下して傍らに置くと、再びヘルメットを装着し、ブロムという小さなバイクに跨る。

 さっきの爆笑が再来し、美那斗の頬がひくつき、やがて耐えられなくなり、ぷっと吹き出してしまう。

「お嬢様、急ぎましょう」

 辺見はサングラスを掛ける。

 泰朋もシールドを下ろす。

 男二人の視線が冷たく非難している。

「ああ、もう」

 右のドアを開けて座ると、辺見自慢の車が唸りと共に走り出した。

 ACシェルビーコブラといえば大開口のラジエターが覗けるエア・インテークや大きく膨らんだフェンダー等、他に類を見ない独創的なボディ形状のデザインは秀逸を極める反面、あまりの高出力エンジンを制御するのは困難で、運転というよりは操縦と呼ぶ方が相応しい。ブルーに縦のホワイト二本線のカラーリングが有名ではあるが、月崎のコブラはレッドウィズホワイトストラップのカラーリングで、かなり注目をあつめているのが道路脇やすれ違う車中の人々の顔から見て取れる。

 例によって辺見のこの車に対する解説が延々と語られる事になるわけだが、美那斗にとって有り難いことには、このコブラという車、オープンカーであり、風切る音で辺見の声は全く聴こえてこなかった。

 美那斗は狭い助手席で装備の用意に四苦八苦していた。銃と剣をホルダーに収めるだけの事でも車が走行中のため、体を浮かすと風をまともに受けて吹き飛ばされそうになる。

 予備の弾丸の入ったカートリッジを確認してポケットに仕舞っていると、風に煽られて後で束ねていた髪留めが外れ、長い髪を巻き上げる。

 イヤホンタイプの通信器を装着し、ブーツの紐を締め直し、オープンフィンガーのグローブを嵌めると戦闘準備完了だ。

 ふと気になって後方を振り向き、自分の髪に邪魔されないように手で視界を確保すると黄色と白のカラーリングの小型バイクに乗った巨体が追ってきている。

「美那斗ちゃん聴こえる?」

「ええ、紙戯さん」

「現場はちょっとした混乱状態にあるみたい。警察へ通報も行ってるわ。どうする?」

「警察のことは考えます。それよりも子供たちを助けなくちゃ」

「了解」

 程なく車は目的地に到着した。

 美那斗がドアを開けずに縁に足を掛けて飛び降りる。辺見が奇妙な声を上げたようだが、もはやそっちを気にしている余裕はなかった。

 午前中は白く浮かんでいた満月も今は沈んだようだ。眩しい太陽が地上を明るく照らしている。

 美那斗は背後に人の気配を感じた。すぐに黒い影が覆いかぶさるように美那斗を日向から日陰へ移す。風でボサボサの髪を見られるのが恥ずかしく、頻りと頭を手櫛で整え、

「あまり変身する所を見られたくないわ」

「わかった」

「それで、ラスツイーターは」

 耳をそばだてると、悲鳴が聴こえてくる。

 道路脇に停車した数十メートル先を左に曲がった方向からだ。二人が走り出す。

 角を曲がると真っ直ぐ伸びる道の先に小学校の門が見えた。

 周囲ではパトカーのサイレンの音が幾十も折り重なってやって来る。

 学校の正門から大勢が逃げ出してくる。

 人の波にぶつかりながら、何とか校庭に入ると、その姿が見えた。

 ラスツイーターだ。

 人間をひと回り大きくした二足歩行の怪物で、全身がグレーの濃淡のみの色彩だが、以前のラスツイーターとは形状がやはり違っている。人間であればほぼ似た姿形をしているものだが、ラスツイーターは個体個体が独特なフォルムを有している。

 校庭の端に立ち、キョロキョロと四方を探っているような怪人の頭部は、花のように見える。バラに近い形だ。その花から下へ伸びるのは髪の毛ではなく棘のついた蔓で、全身を絡まるように覆っている。その蔓の所々にも小さな花が咲いているようだ。その点を除けば、他のシルエットはどこか女性的なものを感じさせる人間の形に似ている。

 頭部には顔らしきものがあり、手足は長くしなやかに見え、腰のラインが艶めかしい。

 逃げようと走っている児童が転倒した。

 するとラスツイーターは軽やかに弾むように近付き、顔を突き出し、首をひねって見つめると、次には背中を仰け反らせながら、片手を口元に持っていき、全身を震わせた。あの耳障りの良くない「イーッ」という奇声を何度も続けて立てている。

 子供を襲う素振りはないが、転ぶ様を見て嘲笑しているかのようだ。

「何、あの体・・・」

 良く見ると全身の様々な箇所に同じような何かが付いている。亀裂のようなものがあって、その淵が盛り上がっている。その亀裂が開いたり閉じたり、目まぐるしく蠢いている。体中の所構わずあらゆるところにそれが付着しているのだ。数にして五十は下るまい。

「唇だわーーーー」

 思い至ると、薄気味悪さと理由のない憎悪が胃の底からこみ上げてくるようで、美那斗は嘔吐をこらえるように口を覆った。

「あいつは俺がなんとかする。美那斗さんは子供達の避難を頼む」

「解りました」

 気持ちが素直になっているのが、美那斗には感じられた。この感覚は先日のラスツイーター、クラブと闘った際、コアを泰朋に託した時にも味わった。

 それは、信頼感だった。この男になら任せても大丈夫。安心して任せられる。泰朋はそんな風に感じさせる何かを持っているのだろう。

 根拠や理屈より、美那斗は自分の直感を信じることにした。

 このちょっと変わった大きな男は、ホーンになるのだ。




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