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ホーン 第一章  作者: 忍 嶺胤
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鳥の王

4.鳥の王


 彼女のジョギングはクロスカントリーに近い。脚力をつけるためというよりは、全身を鍛えるために走っているので、平らな舗装道路よりは山野を好む。悪路と見ればこれ幸いとばかりにルートを替えるので、毎日同じコースという走行ではない。

 空には薄く白い雲が旗幟の如く棚引いている。振り仰ぐと十旗はあろうかという雲の群れだが、輪郭は曖昧でぼやけ、白と水色が綯い交ぜになって、熱を帯びた身体には清々しくはあった。だが、そんな秋空と彼女の心の中とは真逆の色彩にあった。美那斗の心はもはや晴れることが失くなったかのように想えた。

 砂利道を走っていると、昨夜の雨の名残の水溜りがあって、飛び越そうと跳躍するも、足は泥水の中へ着地し、派手な飛沫を撒き散らせ、彼女を大いに濡らした。それを切っ掛けに脚の速度を緩めながらふと周囲を見渡すと、それほど大きくはない寺の前だった。侘びしい物腰に誘われるように山門まで歩いてゆくと、扁額が掛けられてあり、板に毛筆で「淋梅寺」と横書きで記されている。

 奥深い味わいのある扁額の下をくぐり抜け、気が付くと社寺の賽銭箱の前に立っていた。

「月というのは不思議な天体だ。新月から満月へ、たった十五日で姿を大きく変えていく。生命体と月との因果関係は今も証明されていないが、科学者とて月を見て何かを感じずにおれないのは、我々は皆等しく地球の子孫だからなのか。その点、子供というのも又、月に似て神秘的な程に速く成長していく」

 七五三縄の下に佇みながら思い出していたのは、昨夜開いた父の記憶データだった。

「美那斗の弾くピアノのメロディを聴いていると気持ちが落ち着いてくる。学会や家のごたごたに疲れた心が、静かになって活力が湧いてくる。まるで月を見ているように。私の研究の意図も方向性も誰も理解してくれない。孤独感に苛まれているが、この子のピアノがあれば、まだもう少しやって行けるかもしれない。この子の慰撫が人類の、地球の希望かもしれない」

 随分と感傷的な護の言葉は、少し大袈裟に発想しただけのことであろう。しかし、美那斗には又一つ暗い塊が増したように感じられた。以前なら父の期待は支援と捉えることが出来たし、目標へと続く道を照らす灯りであった。だが怪人による事件が頻発し、犠牲者が出続けている現在、対応可能な環境にあり、人類の希望に最も近いはずの美那斗は、その力を行使できずにいる。力の顕現を得ぬまま日々は過ぎ、そうする間にも犠牲者数は増していく。父の希望は娘の重圧でしかないのだろうか。

 不甲斐ない自分への感情を、美那斗はどうすることも出来ずにいる。

「おやおや、これはこれは。ただならぬ気配がするので、修羅か鬼でも居るのかと思えば、存外に若い女人であったか」

 唐突に聞こえてきた穏やかな声音は、風や虫など自然界の一部のようで、手を伸ばせば触れられる所に人が近寄っていた事に、美那斗は一切気付かなかった。

 この寺の住職だろう。年の頃が不明な破顔、手には竹箒を持ち、袈裟懸けの出で立ちだ。

 柔和な雰囲気の和尚の口を出た言葉が美那斗をはっとさせた。鬼の形相、という例えがあるが、それ程までに恐ろしい顔をしているのだろうか。和尚の言葉には真実味があり、美那斗は髪を掻き上げる手を止め、そのまま指の腹で額に突起が無いか捜したい衝動に囚われた。鬼の角など付いているはずもないのに、千々に乱れる心の内を押し隠しながら、努めて穏やかで丁寧に頭を下げた。

「断りもなく入ってきてしまいました。申し訳ございません」

「いえいえ、構いませんよ。山門はいかなる衆生に対しても等しく開かれております。何か悩み事ですか」

「悩みーーーー」

 問われて美那斗は意を決する様に和尚と目を合わせた。だが聡明で知的な光を宿す瞳に逢い、たじろぐように視線はすぐに逸脱される。

「私には悩んでいる暇なんてないんです。急がないと、早くしないと・・・」

「そうですか。どんなに急いても地上界は地上界の速度でしか廻りはしません」

「和尚様ーーーー」

「拙僧は理芳と申します。嶺道理芳(れいどうりほう)です」

「理芳和尚。私は月崎美那斗といいます」

 和尚は月崎の名に聞き覚えがあるようで、改めて目の前に立つ相手を眺めたが、口には出さなかった。

「ーーーー鬼はなりませぬか」

 柔らかな微笑を崩しはしなかったが、数瞬息を呑んだ和尚は秋の陽射しを眩しそうに見上げた後、本堂へ続く階段に腰を降ろすと、鬼はならぬかと問う若い女を手招き、隣に座らせた。

「是と言わば是。否と言わば否。是も否もないと言わば是も否もない。あなたはどう思うのですか」

「鬼を制するに鬼になるのも、致し方無いと想います」

「武力を圧するに武力を以って為す。戦争の理論ですね」

「戦争ならそこに至る過程もありますし、相手も人間ですが、相手が鬼で、突然戦いが始まってしまったら、対応するには如何すれば善いのでしょう」

「鬼になるしかないと。そう決めているのなら、迷いはないはず」

「迷ってはいません。鬼になる覚悟は出来ています。ただ、為れぬのです」

「鬼の道を選んだというのですね」

「はい」

 和尚の視線が、美那斗の内面を見透かすように注がれる。

「選択はしたが、望んだことではないのでしょう」

 美那斗が唇を噛む。和尚の言葉に胸が痛むが、痛みの数が一つ増えようが、総量で言えば微増にしか過ぎない。

 悲痛な想いを読み取ると、和尚は少し間を置き、話題を変えた。

「この寺は淋梅寺と言いまして、その昔寺を建てた際、十二神将に準えて山門から本堂へ続く路の両側に六本ずつの梅の木を植えました。木が根付き、立派に生育したにもかかわらず、花の時期に綻ぶ梅の花は毎年たったの一輪なのです」

「それで淋しい梅」

「はい。一輪だけなので咲いても見つけづらいし、誰にも気付かれぬ内に散ることもしばしばで。何か大いなる事を為そうとする人というのは、この梅の様に孤独感に苛まれるものなのかもしれませんね」

 美那斗が梅の木へ視線を遣ろうと顔を上げた時、偶然にも何かがバサバサとけたたましい音を立てながら横切って行った。それは梅の木の枝に止まると、翼を整えて折りたたみ、真っ赤な鶏冠を震わせている。

「あれはニワトリですよね。あんな高いところまで・・・」

「どこからか紛れ込んだ雄鶏です。いつの間にか住み着いてしまって。ペンギンやダチョウのような飛べない鳥と違って、ニワトリは苦手ではあっても飛ぶ機能が全く無いわけではないそうですね。不思議なもので、あの雄鶏を見ていると、今にも大空へ飛び立とうと空を見上げているように思えてきます」

 飛べるのに飛ばない鳥。それはまるで自分のことのようだと、美那斗は一輪しか咲かない梅の木に停まる雄鶏を凝視した。父に期待され、力を託されたにも関わらず、その力を使えずにいる。鬼を斃す力がありながら、ただ淋しさの上に停まり、大空を見上げている。

 苦悶する美那斗への啓示のような鳥を見ながら、己の額にそっと手を当ててみる。そこに、角は生えていなかった。

「私どうすればいいの・・・」

 想いに耽り、独語が洩れ出た事にさえ気付かなかった。

「花は一輪しか咲かなくとも、梅の木は咲いた事を知っています。見てもいます。空に輝く日輪は、遍く人々を照らす大業を為すがため孤高のように見えますが、夜道を照らす務めは月が受け持ち、共に我らを支えてくれています。

 あなたにも、あなたを助けてくれる存在がおられるのではありませんか。太陽になろうとするのなら、月のような誰かがあなたを支えてくれると想います。きっとその方は切っ掛けを待っているのでしょう。いつか飛ぼうとするあの雄鶏のように」

 和尚が言い終わるのを待っていたように、ニワトリは梅の枝から四本の爪を離し、大きな羽音で滑空すると、境内の奥へ姿を消した。

 目に映る事象を組み合わせ、理屈付け、巧みに語る和尚に美那斗は驚き、そしてほんの少しだけ頬を弛ませた。

「お話がお上手なんですね」

「まあ、坊主などという者は四六時中問答を繰り返すのが生業ですから」

 美那斗が立ち上がる。身のこなしはいつも同様に小鳥が跳ねる如くに軽かったが、全身に闇の蛇が絡みつき呪縛するのか、想いは重い。初めて訪れた寺での出逢いが彼女の抱える物を肩代りするわけではない。それでも、とりあえず美那斗は腰を上げることが出来た。今はまだ辛うじて動けるらしい。

 動けるからには一歩を踏み出そう。倒れてもう動けないという所までは行かなくては。例え額に角のある鬼に成り果てようとも。

「お邪魔いたしました。これにて失礼致します」

「またおいでなさい。拙僧の問答のお相手を願いたい」

「私でよろしければ、喜んで」

「悩み事があるのなら、次の機会には座禅をなさい。答えは大抵己の中にあるものです。座禅は心との対話の良いきっかけになりますから」

「はい。肩が凝ったらお伺いいたします」



 理芳和尚に別れを告げて走り出した美那斗が向かったのは、「弁天格闘ジム」であった。日当たりの悪い雑居ビルの狭い階段を上がる時に大柄な女性と遭遇したが、僅かな隙間をすり抜けるように躱してジムに駆け込むと、いつも通りのメニューをこなしていく。

 ストレッチに続いて腹筋、背筋、懸垂を繰り返し、とことん自身の肉体を極限まで追い詰めてやると、休みたがる己に鞭打って、苦しみを叩きつけるようにサンドバックへ拳と蹴りを当てる。全身を濡らす汗が動きに合わせて四方へ飛散する。荒い息が鼻腔を流速を上げて通過し、困窮し始めると喉がひゅうと音を立て、呼吸一つで取り込む酸素量では不足だと肺が喘ぎ出すが、それでも自分を傷めつけるように躰の酷使を止めようとしない。

 それは傍目には、見えない何者かと死闘を繰り広げているかのようだ。

「おい、月崎。三分休憩だ。水分補給しろ」

 見るに見かねたオーナーが声を掛ける。三分という制限と水分補給という正当な名目を与えない限り、声に従うことはせず倒れるまで続けたろう。実際そうやって何度気を失い、水をかけて意識を醒させてやったことか。

 ギシギシと音を鳴らして揺れるサンドバックから離れようとして、足が縺れて倒れるように、美那斗は床に座り込んだ。両手をついて喉を反らせて喘ぐ。大量の空気を欲している彼女の頬に冷えてないペットボトルが押し当てられる。

「水だ」

「あ、ありがとうございます」

 苦しく喘ぐ時にも律儀に礼を言う姿に、呆れるやら感心するやらの苦笑を弁天は浮かべた。

「お前、何でそこまで頑張るんだ?」

 単なる興味本位で弁天は訊いてみた。護身のためではないだろうし、剰えダイエットなどではないだろう。彼女には鬼気迫るものがあり、弁天は少し気圧されながら、相手の息が落ち着くのを待った。その美那斗には、だが弁天の姿は見えていないようだ。不意にかけられた質問を放った主は、絶えず四肢に絡みついている闇色の大蛇の真っ赤な双の目で、鋭い眼光を射ながら睨み返す。色褪せた唇が開くと、

「復讐と対話」

 意識せず勝手に溢れた言葉が、誰よりも美那斗自身を驚かせた。

 父を喪った事への復讐がまずある。だから日々、嘔吐するまで、気を失うまで鍛錬をしている。父の遺産の伝承が、願いを叶える唯一の道だと、彼女は盲目的に信じている。力さえあれば、変身さえ出来たら、それは可能となる。今日、淋梅寺へ行って解った事がある。復讐を果たせるなら、私は鬼になることも厭わない。

 だが、相手は「イーッ」としか発する言葉を持たない怪人と化した母だ。対話とは、どういう意味だろう。対話が成り立つとは考えにくい。美那斗は自分の口から出た言葉に首をかしげていた。

「あぁ・・・」

 自分の心の中にあるものにふと気付いて、荒い呼吸音の合間に嘆息を紛らわせた。様々な映像が脳内を駆け巡りだす。それは母の姿であった。怒った顔、泣いた顔、悲しみに曇った顔、悔しそうな顔、時折見せる優しい顔、そして逆三角形の仮面を被った怪人の顔。ぐるぐると回りながら目まぐるしく入れ替わる思い出の中の母。

(私は今でもお母様が好きなのかもしれない・・・)

 幼い頃は確かに母が大好きだったように想う。それが小学、中学と成長していき、授業参観や運動会、発表会という行事にクラスで一人だけ誰も来てくれない事が続き、次第に母が嫌いになっていった。ただ、それは単純な拗ねた子供の思考だ。今にしてみれば、母にも何か理由があったのかもしれない。自分に原因があったとも考えられる。父の事でさえ、何か理由が・・・。

 それ故の対話なのだろうか。

「今日はすごい対談が実現しました」

 唐突に聞こえてきた声に顔を向けると、ジムの壁に掛けられたテレビからの音声であった。大型画面の前に数名の練習生がたむろしている。誰かが音量を上げたのだろう、かなり騒がしい位の音が、トレーニング空間に響く。

「スタジオにはWMMAグランドスラムを達成しました、キャノン泰朋さんに来ていただきました」

 若く華やいだ声は、明るく飛び跳ねるような抑揚のキャスターのものだが、そこには艶っぽい印象もあって、何とはなしに視線を画面に向けると、ピンクのワンピース姿の女性が椅子に座って脚を組んでいた。白いヒールを微かに揺らしながら、カメラと対面に腰掛けている男性とに交互に目線を泳がせている。歳で言えば美那斗とほとんど変わらない。

 かつてはこのキャスターに似た印象を抱かせる知人が大勢いた。平たく言えば、自分もそちら側に属していたが、今では百八十度反対側に回ってしまった。良し悪しの判断基準を適応させる問題ではないが、かつての自分を見ているような、何とも言えない不思議な感覚を美那斗は味わっていた。

 そうか、このキャスターは相手の男性に気があるのか、そんな世俗的な事をぼんやりと想像してしまったことを少し恥じる。

 テレビ画面では闘いの場面が次々と流れている。ものすごい打撃や技のシーンに、見ている男たちが野太い歓声を上げる。

 総合格闘技、MMA。数ある格闘技の中で最強はどれかを決しようと始まった異種格闘戦は、総合格闘技という名称を持ちつつも、大会毎に異なるルールがあった。これを統一し、世界大会を開催できる規模に拡大、組織化したものが世界総合格闘技大会、通称WMMAである。大会は年四回、世界の四大都市で開かれ、テニス等の大会に準えて四大会を制覇することをグランドスラムと呼んでいる。

 キャノン泰朋、本名洗川泰朋(あらいかわやすとも)。二十九歳。身長211cm。体重115kg。日本人としては桁外れな体躯の持ち主で、その事実を伝えようと女性キャスターが掌を重ねて比較したり、二の腕や大腿部の太さに驚いてみせたり、触れて硬さを表現しようと懸命なのは判るが、その度に媚びたような嬌声を上げるのが、美那斗の鼻についたし、舌打ちしたい気持ちにもなったが、それこそが自分がもうすっかり変貌した証であり、悲しくもあり、心寂しくもあり、孤独にさいなまれるのであった。

「世界一ってだけでもスゴイのに、それを四回連続だなんて、想像を絶する強さですが、子供の頃からずっとそうだったんですか?」

「い、いえ。子供の頃はいじめられてました」

 泰朋が吃ったのは、少し前かがみになって髪をかきあげたり、ミニのワンピースで脚を組み直したりというキャスターの動きや仕草が気になるからで、視線が泳いだり咳払いしたりして答えている。

「えーっ、そうなんですかー。とっても意外、ですね。その当時は今みたいに大きくなかったとか?」

「躰は大きかったです。でもそれが理由になって、足をひっかけられたり、物を投げられたり。昔はトロかったので、やられ放題でした。それが悔しくて・・・」

 悔しい、という言葉が強い印象となって美那斗の耳に飛び込んできた。そこで初めて、美那斗は女性キャスターではなく相手の男性に着目した。歪でゴツゴツした顔面に、短髪のへばり付いた頭部も同様に岩石に似ているのは、試合後間もないことで腫れがひいていないからか。肌は浅く日焼けし、モスグリーンの皺々のミリタリーシャツの上からでも筋肉が可成り発達しているのが判る。

 幼少の頃を思い出して悔しいと呟く渋面が汗だらけだ。キャスターの色香に当てられ、平常心を失う程にタジタジとさせられている。その様子が妙に可笑しかった。

「昔の苦い思い出をバネに強い男になった、という事なんですね」

 強くなった、ではなく、敢えて強い男、という言葉を使った辺りにキャスターの毒気を感じずにいられない。

「では、もう時間も僅かなようですので、最後にお訊きします。強さの秘訣とは何でしょう」

 言い終わると手にしていたファイルをサイドテーブルの上に置き、名残惜しそうな指先でファイルの縁をなぞってから、離した手を腰の辺りで組み、同じくなぞるような視線で泰朋を見つめる。明らかに問いかけ以上の問いかけを視線に込めている。

 だが、泰朋は今度はたじろがず、真険な面持ちであった。椅子の背凭れに深く上体を預けると、

「実際の所、強さとは何だろう?」

 束の間の沈黙が襲う。間を取り繕おうとキャスターはこれまでの挑発的な仕草は狼狽に変わるが、もう彼女の物腰など泰朋の目には入ってこなかった。

「試合には勝ったけど、それだけの事だった。グランドスラムを達成すれば今まで見えていなかったものが見えると思っていたが、何も変わらなかった。強くなろうとずっと頑張って来たが、俺は強くなったのだろうか。周りの人間は強いというが、実感が一つもわかない。こうやって悩んでいるのだから、強くはないのだろう。では、強さとは何だ。あなたはどう思う?」

 逆に問われ、残り時間も少ない中、キャスターがどう返し、まとめるのか、カメラ越しに大勢の視線を浴びて心なしか表情が引き攣って見える。だが、もう美那斗はその画面を見ていなかった。泰朋の発言を聞き、ふつふつと怒りに似た感情が湧いてくる。

 立ち上がると、再びサンドバックを相手に格闘する。ステップワークも軽く、右へ左へと流れるように動いては、拳や蹴りをぶつける。美那斗には泰朋の話す内容が贅沢な悩みに思えた。大金持ちが金の使いみちがないと嘆いているようなものだ。

 かつては物の値段や所持金など気にしたこともなかったが、今は研究費の捻出に四苦八苦している。自責を含んだ懊悩と相まって、サンドバックは激しく揺れ続けた。



「ーーーー何なの、辺見」

 長く長く沈黙を続けた後、ようやく開いた薄桃色の唇であったが、うまい言葉が漏れてはくれなかった。

「と、おっしゃいますと?」

「判っているでしょう、この車のことです」

「ああ、はい」

 合点がいったというように、美那斗の執事である辺見高雄は声音を明るくさせた。運転席でハンドルを握る執事の顔は後部座席の美那斗からは覗うことが出来ないが、にこやかな笑顔を口元に浮かべていることは容易に想像できた。

「これは、メルセデス・ベンツ W189 300d リムジンという車です。何と言っても特徴的なのは、そのエレガントでありながらも重厚なフォルムで、所謂クラシックカーの集大成とも言える車体です。一番に目に飛び込んでくる輝ける漆黒と銀の織りなす色彩は、まさしく宝石の如くでーーーー」

「ーーーーそうじゃなくて」

「おっと、内装の話でしたか? 勿論お嬢様が今座っておられるのは本革で、肌にしっくり来るでございましょう。クッションも車の震動を充分に緩和してくれるので、応接室が移動しているかのような快適な空間になっています。更に加えて、ベンツといえば堅牢で名高く、安全性も保証されています」

「ーーーーそうじゃなくて」

「おっと、では足回りのことでしょうか? はたまたエンジンですか? エンジンはSOHC直列6気筒エンジンで、現代の車と比べればいかんせん性能的に劣りますが、当時としては最高クラスで、秀逸な音を聴いてもらえば分かる通りーーーー」

「ーーーーそうじゃなくて」

 ついたまりかねて、美那斗の声が大きくなる。そこで漸く辺見は自分が夢中になってしまっていたことに気付いた。

 ラスツイーターのデータ収集の実行作戦にあたって、指揮、情報収集を大型のボックスカーに機材を積載して行ったが、運転を辺見が受け持った。月崎邸へのラスツイーター襲撃事件以来、辺見はずっと遣る瀬無い思いに苦杯を舐めていた。主が消え、息女が仇討を誓い、日々自己を傷つけるように苦しみ喘いでいる。研究スタッフは昼夜問わず寝る間を惜しんで対応策を検討している。そんな中、自分にできることは何もない。それが辛かった。ようやく役目を得ることが出来たのが嬉しいのだろう。

「何なの、この車は」

 いつもの彼女らしからぬ言葉遣いは、腹立たしく思っている証拠だろうけれど、辺見は気づいていないようだ。信号待ちの際にルームミラーで様子を窺ってみると、窓枠に片肘をついて、指をこめかみに当てている。眉根も思い切り曇っている。

「えーと、その、これは先代の旦那様が所有しておりましたもので、私が管理を任されておりましたものです。普段はガレージにてお手入れしておりますが、お嬢様は見たことございませんでしたでしょうか。ああ、はい。左様で御座いますね」

 多少しどろもどろしてしまうのは、何か心に疾しい所があるのか、あるいは他に何か隠していることがあるのか。

「高級車、よね」

「それはもう、月崎代議士の御車ですからには、それなりの風貌も趣もございませんといけませんし、何より先代のセンスと権威の象徴でもありますし、そこはやはり、金に糸目はつけぬと申しますか」

「高価なのよね」

「・・・ええ、まぁ」

「今の家の現状は知っているのよね。資金がないのよ。別邸は売り出し、ファンドも崩したわ」

「いや、しかし・・・」

「売ってしまいなさい、辺見」

「そんなぁーーーー」

 車体へ伝わるエンジンのハミングが高域へ移っていくのを躰と耳で知覚しながら、機体の要請に応じるようにクラッチを踏んでシフトアップし、アクセルへと繋いでいく。車と人との意志の疎通が円滑に機能、調和して速度を上げ、車は唄声を上げていく。

 だが、辺見の動揺の結果、ベンツのリムジンは往来の中央でエンストし、後方からクラクションの批難の洗礼を浴びることになった。

 後方からの音と美那斗の冷ややかな視線に押されながら、何度も車体を上下に揺らし、おおよそエレガントとはかけ離れたぎこちない動きで、辺見は車を走らせた。

 程なく辺見自慢の自動車が乗り付けたのは、とある高層ホテルの裏手にある資材搬入口近くであった。地下へと伸びる坂へと続く道の手前の分岐を左折すれば、大型トラックが数台荷降ろしできる下屋が設置されている他、待機する駐車スペースも充分な開けた空間があるが、大いに葉を茂らす樹木が並び立ち、通りから隠しおおせている。この時間、トラックの姿は見えないが、偶然かどうかは定かで無い。車長の長いリムジンでさえ広すぎる敷地に停車させると、執事がドアを開けてくれるのを待たず、美那斗が脱出するように外界に身を晒す。ドアを大きく開放したまま側に立つ彼女の装いは、楚々としていながらにもエレガントであった。

 白いニットシャツの胸元はきっちりとボタンを止め、膝下丈のタイトな巻きスカートはブラウン系のチェック柄で秋という季節に程よく釣り合っている。上には薄カーキ色のトレンチコートを羽織り、腕の辺りをシャツと一緒にたくし上げて着崩している。ちょっと大人っぽい所が美那斗のお気に入りであったし、昨日ジムのモニターに映った女性キャスターとは違うコーディネートを意識して決めたものであった。ほんの少しではあったけれど、もう何ヶ月としていない化粧もした。ストレートで腰まである黒髪が風に揺らされる。頬にかかる髪を時々整えながら、視線は坂の下へ注がれている。

 かつての大財閥の情報網を駆使した手腕で、辺見が時間と場所を探し当てたのが正しかったかどうか、それは間もなく判る。美那斗に遅れて車を降りると、辺見は彼女のやや後方に立つ。黒の燕尾服姿だ。

 二人の見つめる視線の先に、やがて一人の男が姿を現す。

 洗川泰朋である。

 しわくちゃのミリタリーシャツには見覚えがあった。おそらくはテレビに映っていた時のものと同じであろう。下は同系色のカーゴパンツに褐色のドクターマーチンのブーツを履いている。登山にでも行くかのような大型のデイバックを背負っている。何を置いてもその大きな躰は、何物にも代え難い程の彼という人物の名札、表札であろう。こんなにも大きな人間を、美那斗は未だかつて見たことがなく、沸き起こってくる感情は怯えよりも、むしろ感動に近いかもしれない。

「洗川さんですね」

 およそ十メートルの距離を開けて美那斗が声を掛けると、泰朋の足が声の主を求め、認めるまでの束の間止まるが、再び歩みを進める。泰朋としては道に沿って歩いているだけだが、必然的に黒いリムジンの女性に近づく形になる。

「月崎美那斗と申します」

 自己紹介をする女性は、見るからに品の良い若い女性であった。女らしさを強調しないようにという美那斗の意図するところとは逆に、泰朋にとっては警戒心を誘うのに充分な女性らしさとドキっとする美しさを覚えさせた。泰朋の脳内で警告音が鳴り始める。正直な所、泰朋は美人が苦手であった。心臓がドキドキと鼓動を早めるし、脇の下の発汗は冷静な判断力を失いかけているサインだ。逃れるすべは関わらないことで、自然と足が速まるが、道を塞ぐように辺見が進み出て、両手に持った名刺を差し出した。反射的に受け取ってしまうと、その名前と住所と電話番号しか載っていない四角い紙片を目にしながら、気が付くとその場に立ち止まっていた。

「少々お話させて下さい」

 美那斗自身は先程から一歩も動かず、体の前で手を重ねて静かに佇んでいる。

 仕方なく泰朋は彼女の方に向きをかえるが、迷惑そうな表情を厳つい相貌に張り付かせて、緊張と戸惑いと羞恥心を隠そうとしていた。

「それにしても本当に大きいのですね」

 泰朋のこわばった様子とは逆に、美那斗は心持ち楽しそうに見える程度の笑みを浮かべていた。社交的で人当たりのよい微笑は、いつどんな時でも創りだして浮かべるようにと躾けられた類のものとは、少し違うようだと辺見は感じたが、無論初対面の泰朋にそれが判るはずもなく、素直に秀麗な笑みを強烈な印象として心に刻まされた。

「ホテルの人がこっちから出るように言ってたが、正面玄関を避けるためじゃなくて、あんたらに遭わせるためだったのか?」

 気恥ずかしさを誤魔化すように別のことに意識を巡らせる泰朋の言葉に、美那斗は辺見の采配だと思い当たったが、その件には触れずに続ける。

「昨日のテレビ見ました」

「それは、どうも」

 テレビという単語に泰朋の眉間に皺が寄る。そうは思えないが、この女性も又単なる興味本位の物好きな群衆の一人にすぎないのだろうか。だが、そんな疑念を一気に払拭する美那斗の言葉が続く。

「ニワトリみたいな事をおしゃるのですね」

「えっ!?」

 美那斗の視線が上へ向けられる。小さく尖った顎が上がると、白い喉元が顕になる。黒い大きな眼で真っ直ぐに見つめられると、泰朋はドキリとさせられた。それは、インタビューの女性キャスターに感じたそれとは全く別種の焦燥や動揺というよりも、驚きに近かったかもしれない。例えるなら純真無垢な赤ん坊の瞳に射竦められたような、道傍で出会った薄汚れた身なりの老人が高名な僧侶で心の奥底を言い当てられたような、あるいは遠い記憶の中の少年の自分が恋していた少女の幻影が現実化して微笑みかけてきたような、そんな既知感に似た思いが彼の胸中で拡大していくにつれ、それに合わせるように心臓の鼓動も大きくなっていった。

 泰朋から見たら、大概の女性はそうなのだが、美那斗は小さくて儚げに見える。そんな女性の口から出たニワトリみたいという言葉がまず意表を突いた。ニワトリのよう、とはつまりチキンということだろうか。つまり、目の前のこの小さな女性は、俺を臆病者と罵るためにわざわざやって来て、待ち伏せしていたのだろうか。

「ニワトリというのは飛ばない鳥です。あなたは強いにもかかわらず、強さとは何か解らないという。強くなろうとする者に道を示すべき立場であるにも関わらず、それをせず、強者としての態度もとろうとしない。飛べるのに飛ぼうとしないのと同じではないですか」

 静かで淡々とした口調の底に、激しい憤りを宿しているのが判る。強さとは何か判らないとは泰朋の本心であるが、それを批難されても何と返答していいのか。泰朋は口を開いたが、言葉は出てこなかった。

「才能を持って生まれた者、あるいは才能を開花させた者には等しくその才能を世に役立てる責務があるのです。貴方にも為すべきことがあって、迷っている時間などないはず。貴方はニワトリではなく、大鷲なのですから」

「で、では訊くが、俺の為すべきことというのは、何だ」

「そんなのは簡単です。他者を助けるのです。頭脳明晰なものは智慧を振り絞り、肉体の強靭な者は力の限りを尽くし、世界を良き方向へ誘うのです」

 綺麗事を何といとも簡単に口にする女だろうと、半ば呆れるように見とれた。

「父がそうでした。父はいつも世界に貢献することを考え、実践していました。方法こそ違えども、貴方もそうあるべきではないでしょうか。それだけの能力があるのですから」

「つまりあんた、えっと、月崎さん、かな。俺を怒るために来た、という事なのか? その為にわざわざ?」

 今度は美那斗が黙する番であった。勢いに任せるように一気に思いの丈の、それでも半分くらいだったが、を吐露するように喋ってしまった。客観的に考えてみると自分が何か奇妙な行為をしているように感じられて来て、気恥ずかしさで視線を逸らしてしまった。それに、実際は罵詈を浴びせるために来たわけではなく、むしろ頼みたい事があったのだが、話の流れが妙な方向へ進んでしまい、どう切り出したらいいのか判らなくなって目線を伏せたのだが、その様が泰朋にははにかむような楚々とした女性というか、少女の姿にも見えてしまい、尚一層ドキリとしてしまうのだった。

「ーーーー実は、貴方におねーーーー」

 意を決して話し始めた時、二人のやり取りを見ていた辺見の胸ポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴り出した。携帯を引っ張りだして開き、画面を確認すると、

「向浜さんからです」

 美那斗と辺見の顔にさっと緊張が走る。足早に近寄る辺見の手元から紙戯の声が告げる。

「LE出現。近くよ」

 近くと言われて条件反射のように周囲をキョロキョロ見回すと、突然空気を裂くように絶叫が起こる。

「何だっ」

 驚きの声を上げる泰朋の脇を抜けて辺見が走っていく。間髪をおかず泰朋もその後を追う。数十メートルも進むと絶叫の理由が判明する。

 ホテルのゲートの詰所から警備員が両手両足を振り回しながら、慌てふためいて逃げ出してくる。その後方には、ラスツイーターが立っていた。

「イーーーーッ、イーーーーッ」

 それは過日、月崎研究スタッフと辺見、美那斗が遭遇した怪人であった。

 灰色の全身、首を突き出し、外へ開いた脚、長い腕は重く地を這っている。紛れも無く美那斗が対決したラスツイーターではあったが、その時と異なる点があった。それは手である。

 異様な程に巨大な両手であったが、それでもあの時は手であった。指があり、掌があり、開いたり物を掴む機能はあったはずだが、今眼の前にいる怪人の手首から先にあるのは、単なる物体に見える。涙型に沢山の棘をつけた右手。球に近い多面体の左手。どちらも指はついておらず、あたかも棍棒やハンマーのようで、叩き、破壊することに特化した形状へと変化している。

 その右手が高々と掲げられると、振り下ろす。黄と黒で塗られた進入禁止のバーが折れて飛ぶ。続け様に今度は左手が跳ね上がり、詰所を砕いていく。

 大きな破壊音が響く中、警備員は這々の体で去っていく。

「辺見、持ってて」

 辺見が声のした後方を振り返ると、飛んできたものを慌てて両手で掴む。剣であった。放り投げた美那斗の方は銃を持っている。警備員の叫び声に走り出した二人とは対照的に、美那斗はリムジンのトランクを開けると、万が一の時にと入れておいた武器を取り出してから後を追ったのだ。

「お嬢様、闘うおつもりですか!?」

 すっとんきょんな声の辺見の問いに、美那斗は答えない。勝ち目がないのは明らかだ。武器の改良は一部されてはいるが、効果の検証は未だだし、データ収集が出来るわけでもない。ではどうするのか、闘って何になるのか、その疑念は当然だが、見過ごすことは美那斗の選択肢にはなかった。このまま怪人の暴れるにまかせては、また犠牲者が出てしまう。それに、二度目の対峙で、美那斗には前回ほどの異様な緊張と怯えはなかった。

「アレは何だ」

 四十口径の改造銃を両手にもって歩いて、泰朋の横を通りながら「敵よ」と一言残す美那斗の横顔から転じる後姿を目で追う。正面から見た時は強い眼光が邪魔してか、後ろから見る彼女は何と儚げでか細く想えることか。仮にWMMAの試合の対戦相手がこんな体型であったら、秒殺を約束されたようなものだ。

 逆に美那斗にしてみれば巨大過ぎ、しかも異形の相手だ。一撃で倒されてしまうと怖気づきはしないのだろうか。

「お、おいーーーー」

 制止の言葉を躊躇っていると、美那斗の両手が持ち上がる。

 市販の銃を幾分大型化しているのは銃身を伸ばし射撃精度の向上を狙ったのと、特殊弾の発射に耐える強度補強と消音機能の付加によるもので、口径は同じでも弾身を長くするために握把と弾倉のスケールアップを行っている。単なる大型化では扱いにくくなるので、美那斗の手の大きさに合わせて細部も造り直してある。

 銃口が静かに火を噴く。

 詰所の残骸を踏み越え、続いて何を破壊しようかと物色していた怪人は不意に腹部に二発の衝撃を受ける。小首を傾げる様な仕草は、腹の不快感がどこから来たのかと訝るように見えた。

「イーーッ」

 獰猛な狗のような突き出た頭が左右に大きく振られる。奇音を放つ口に、唇がめくれ上がっても牙が覗けないのが不思議に想える。その鼻面が停止すると、その先の女の姿をじっと見ていた。ゆらゆらと両の肩を交互に揺らし、嘲笑っているようだ。

 決して怯えてはいけない。そう自らに言い聞かせるように、美那斗も又ラスツイーターを睨みつける。倒してやる。斃してやる。心の内はふつふつと沸き立つ想いで焦げ付く異臭が漂って来そうな程だった。

 パン、パーン。

 再び弾丸がものすごい速さで放出される。狙いは憎むべき怪人の顔面であり、思惑通り渋面に曇らすことに成功した。

「イーーッ、イーーッ、イーーッ」

 先の腹部へのものとは全く違い、今度は苦悶に泣き叫ぶような音が、絶叫のように溢れ出す。顔を庇おうとラスツイーターが背を向けると、美那斗が動き出す。顔面への攻撃が有効ととって、射撃位置を選ぼうというのだろう。

「効いてないぞ」

 泰朋の警告が耳に入る。類が違うが、それでも格闘の世界の頂点に立つ男には、他の者には知ることの出来ない何かが解るのだろう。美那斗は一瞬軽く鼻であしらう様な思考を浮かべたが、警告を心に押しとどめながら、銃を片手で握った。銃を離れた左手だけでチェック柄の巻きスカートを止める大きい穴のベルトのバックルを外してベルトを抜き取ると、次にはスカートのボタンを片手だけで素早く外し脱ぎ捨てる。

 タイトスカートは動きが制限されると考えたのだ。美那斗は奇妙な姿に変わった。普段であればするような格好ではないと幼少の頃より教えられてきたし、その様な身形を恥ずかしいと感じる心を持ち合わせているが、今はそれどころではない。

 ラスツイーターの背後を回りこみ、頭部が見える方向へと足を動かす。

「近づきすぎるな。奴の間合いに入るぞ」

 またしても泰朋の警告が空気を震わす。野太いが張りのある大声で、明瞭だ。目測で十二メートルが果たして間合いと呼べる程の近距離であろうか。通路の両脇は低木の茂みになっているので、距離を保って回りこむにはこれを飛び越えなくてはならず、美那斗は躊躇った。

 心中の惑いを見透かしたのか、ラスツイーターが首を捻り、敵愾心に暗く光る眼がこちらに向けられると、美那斗の本能が何かを叫び、彼女は生垣に飛び込んだ。向側の芝の上に一転して振り向くと、さっきまで立っていた場所に上空から怪人が飛び降りてきて、路面を棍棒のような手で叩きつけるところであった。アスファルトが砕け散り、慌てて辺見が遁走していく。続けて二度三度と路面を打ち付けてから、ようやくそこに怒りの対象物が存在していないことに気付き、ラスツイーターは首を巡らす。

 尖った鼻先のある頭部の側面が美那斗にはっきり見える位置だ。

 間髪を置かず、撃った。

 撃ちながらも美那斗は自らを訝った。何故撃ったのか、と。

 まだ枯れていない草いきれのある芝から起き上がった時、怪人の姿の向こうで辺見が走り出すのが見えたが、泰朋はその場から逃げようともしていないのが判った。判っていながら銃を放った。誤射しない絶対の自信などあるはずもないのに、何故躊躇いすらしなかったのだろう。疑念は湧き上がったが、深く考えるよりも先決すべきは敵だ。

 二射の内一発は頬に、もう一発は眼球に命中したように美那斗には見えたし、それは正しかった。

「イーーーーッ」

 泣き叫びながら、両手で顔を押さえようと藻掻くも、ラスツイーターのその手とも言えない腕の先にある器官では叶わぬ事であった。怪人は狂ったように暴れ回り、絶えず「イーッ」と喚き、やがて全ての感情と呼べるものが有ったとしたら、その想いの丈をこの苦しみを与えた対象者にぶつけ、破壊せんと決意するかに見えた。

「不味い、逃げろ!」

 バックパックの留め具を外して背中から下ろしながら、泰朋が叫ぶ。

 ラスツイーターの両腕が降ろされる。美那斗が見たその相貌には、頬にも、眼にも、かすかな傷さえついていなかった。その代わりに、ものすごい形相に固定された怒り、悲しみ、憎しみ等の負の感情が強烈なまでに刻み込まれていた。

 そのラスツイーターが走った。

 真っ直ぐこちらに向かって走って来る。

 重たい両腕を地面に垂らしたまま、引き摺るように駆けて来る。

(彼の言う通りだわ。逃げなくては)

 時間の流れが緩慢なものに突如変貌したのか、ラスツイーターの動きも、自分の躰も酷く重く、鈍臭くなってしまった。迫り来る敵の姿、振り上げられる球体の手。回避しなくては。逃げなくては。思考は駆け廻り、指令を伝えるが、躰が反応してくれない。否、躰は別の反応を選択したのだ。

 両手が持ち上がると、狙いを定める。トリガーはラスツイーターの顔面に向けて正確に引き絞られる。可能な限り引きつけ、出来るだけ近距離から。

 パーーン

 イーーッ

 二種類の破裂音が交錯する。

 ラスツイーターの頭部が勢い良く跳ね上がる。その所為で強く打ち下ろされた腕の軌道が逸れ、紙一重で美那斗の躰を掠めた。身に纏うのは前回のような防護機能のある装備ではなく、普通の服だ。当たれば一溜まりもないだろう。

 怪人の攻めは直撃しなかったが、それでも風圧で美那斗の軽い躰は吹き飛ばされた。

 躰が回転しながら弾け、樹に当たる。背中が幹に当たると、その勢いで海老反りに大木を抱くように打ち据えられ、反動で戻ると、そのままうつ伏せに樹の根元に倒れる。

 もう動けなかった。



「将来の夢。六年二組、月崎美那斗。私の将来の夢は宇宙開発の仕事をすることです」

 十二歳の自分の姿が見える。

 明るい教室。緑の黒板の前には担任の教師が立ち、クラスメイトは静かに座っている。原稿用紙を前へ持って読み上げるのは、少し気恥ずかしいが誇らしい気持ちの方が勝り、頬が熱く感じられる。一度も支えることなく全て読み終えると、教室中から拍手が湧き起こる。

 先生が感想を言っている中、後ろを振り返る。習字の半紙が壁に並べられる下に、父兄の姿がある。

 だが、そこに一番に聞いて欲しかった人物、父の姿はなかった。

 代わりに母が立っている。泣いている。

 洟をすすり上げ、嗚咽を漏らしている。

 どうして喜んではくれないのだろう。

 周りの母親が肩に手を置いて慰撫の声を掛けている。

 クラスメイトがこっちに冷たい視線を向けてくる。

 母が泣いているのは自分の所為なのだろうか。

 窓の外から光が失せる。

 母のすすり泣きは、やがて罵声に変わる。激しい批難の言葉が母の口から他の父兄、同級生へと伝播、感染していき、大合唱になる。

「お父様ーーーー」

 助けて欲しくて父を呼ぶ。だが、父は来ない。

 声だけが耳に聞こえてきたが、「研究が忙しくていけないよ」と、言う。

 こんなのは間違っている。本当のことではない。

 事実がすり替えられている。

 実際にあったのはこんな風景ではなく・・・。

 違う、違う。

 声が枯れ、喉が裂ける程に叫んでいる所で、美那斗は意識を取り戻した。

 樹に叩きつけられ、気を失ったらしい。

 そうだ、ラスツイーターは!?

 身体にへばりつく大地を剥がすように腕を押し、霞む視界で怪人を探すと、驚く程すぐ近くにその巨体はあった。あまりの驚きで、呼吸に続いて心臓までも凍りついてしまいそうだ。意識を覚醒させた次の瞬間に絶望が襲い来る。

 だが、横から何かがラスツイーターに飛び込んできた。

 その影は淋梅寺で見た光景と重なった。あの時の影の主は雄鶏であったが、今のは泰朋だ。

 素手でラスツイーターの体躯に抱きつくと、勢いのまま押し込んでいく。側面から飛びかかられたため、踏ん張りがきかず、地に倒れる。

 相手が転倒したと見るや、泰朋は踵を返して走り出す。

 不意打ちを食らったラスツイーターがのろのろと躰を起こしていく。どうやらこの両手は立ち上がるのに向いているとは言い難いようだ。暫時過ぎてようやく立ち上がると、標的は女から男に変わっていた。

 一方泰朋は逃げ出したのではなく、再び戻った時、その手には美那斗が辺見に預けておいた剣が握られている。最初の接触でラスツイーターの躰の異常なほどの硬さを悟ったのだろう。生身の体で対抗できない以上、頭に浮かんだのがそれだった。

 美那斗の腕の長さとぼ等しい刀身を持つ剣だが、長身の泰朋の手に握られると、短刀のように感じられる。

 武器を入手しはしたが、泰朋に勝算はなかった。もしこの剣が有効性を示せるとしたら、相手の弱い部分を探し当てて集中的に攻めることしかない。例えば、喉や脇のように関節の内側は人間なら弱点になるが、その法則は灰色と黒色の躰の異様な敵にも当て嵌まるだろうか。

 泰朋が走り出した。

 ラスツイーターが身構える。相手の頭を叩き割ろうというように、右手を高々と上げる。と見るや、泰朋は進行方向を変える。

 怪人の巨軀を廻り込むように横向きに走り、背後を抜け、一周して無防備な右脇の下へ剣先を突っ込む。だが、ラスツイーターの躰には傷一つ負わせられなかった。

 それでも泰朋の動きに翻弄させられたのが口惜しいのか、「イーッ」という呻きを上げて姿を探す。

 その間に泰朋は一度後方へ退き、距離を取る。しかもそれは美那斗とは正反対の方向で、彼女からラスツイーターを遠ざけようという意図もあるようだ。

「グリップのスイッチを押して下さい」

 口の両側に手を当てて、遠くから辺見が叫んでいる。

 剣の柄をよく見ると、鍔の近くにスライド式のスイッチが有って、入れるとウーーンと、剣自体が唸る様な低い音が聞こえ、刃が微かにぼやけて見えた。

「よし」

 もう一度この剣をラスツイーターに突き付ける狙いを定めようと、泰朋がじりじりと足を動かしていく。

 と、ラスツイーターが跳躍する。

 急速に迫り来る敵。振り回される腕。

 泰朋は身を投げ出して地を転がる。一瞬前まで上半身のあった空間をラスツイーターの腕が切り裂くと、次いで反対の腕が振り上げられ、打ち下ろされる。

 素速く立ち上がった泰朋だが、再び横飛に転がり難を逃れていく。

 剣を使う暇すらない連続攻撃だが、泰朋は冷静に状況を判断しているように見えた。

 攻めを何とか紙一重で躱しながら移動していく。アスファルトの路面は抉れ、穴が穿たれ、破壊の爪痕を拡大してゆく。

 ラスツイーターの一撃は強力だ。かすりさえすれば可成りのダメージを与えられる。だが、それが当たらない。

「イーーーーッ」

 ラスツイーターの口から焦りの唸りが洩れ出す。

 身を捻って打撃を躱すと、泰朋はそのまま躰を一転させながら剣を薙ぐ。刃は敵の耳から首、胸へと袈裟懸けに軌跡を生む。

 金属と金属が擦れるような震動と痺れが手に伝わる。明らかに当った。が、怪人の躰には傷一つついてはいない。傷どころか、ラスツイーターは意に介した様子すらなく、続けて次の攻撃を叩きつけてくる。

 泰朋が飛び退いて攻撃を躱すが、着地点の路面が荒く削られていて足を取られる。転倒は免れたものの、脚を踏ん張って耐えている所へラスツイーターが飛び込んでくる。

 棍棒状の手が下から振り上げられる。

 防御のために剣を眼前に立てて攻撃の軌道を少しでも逸らそうとしたが、その剣が吹き飛ばされてしまった。

 泰朋は剣とは反対方向へ跳ね、地に膝と手を1つずつ着け、ラスツイーターと対峙する。

 万事休す。

 泰朋が思考を目まぐるしく働かせている。前方からはラスツイーターが余裕を誇示するようにゆっくりと歩み寄ってくる。右側には美那斗がいるはずだ。そして、左側では何かが唸る様な音が聞こえてくる。先ほど弾かれた剣が落ちた辺りだ。

 スイッチが入った状態のままであったので、高速振動する刃が何かに触れて、それを切り刻んでいるらしい。

 と、剣の唸り声にバキバキという音が加えられる。ラスツイーターの首が回され、音を探ろうとして所で、倒木の下敷きにされた。

 ムチのように跳ねる巨木の枝葉の勢力圏を辛うじて外れていた泰朋は蹌踉めくように立ち上がると、数歩後退る。

 これで助かったわけではないし、怪人が抜け出すまでほんの少しの時間を与えてもらったに過ぎない。どうすればよいのか、泰朋には僅かな策も思い浮かべられなかった。

「泰朋さん、これを」

 左腕で自らの躰を抱くように抑えながら進み出る美那斗。肋の辺りを痛めているのか、這々の体で、目一杯の力で右手を振り上げる。土に塗れた白い指先から放たれたものは、秋の風に煌めきを乱反射させながら放物線を描く。

 泰朋が受け止める。

 彼の右の掌にすっぽりと収まったものは、泰朋には銀メダルのように見えた。

「太陽に翳して。こうです」

 美那斗の掌にも同じものがあって、天を突き上げるように彼女がメダルを掲げる。

 痛ましい姿なのに、何故だか美しい所作に見えなくもない。釣られるように、泰朋も同じく円盤状のものを空へ向けた。

 途端に掌から光が濁流となって噴出する。

 手の中に小さな太陽が生まれたような眩しさに目を細める。

「それをお臍の下に当てて。変身して」

 この瞬間のことを、美那斗と泰朋は二人共、不思議な感覚だったと後日思い出すことになる。美那斗は何故泰朋に託すことが出来たのか、泰朋は何故美那斗に疑いを持たず素直に従ったのか。

 天を向いていた泰朋の手が降ろされ、丹田に当てられる。

 光が迸る。

 泰朋の全身が仄かに黄色を帯びた白い光に呑み込まれていく間、コアの側面から幅太のベルトに似たものが伸びて腰に巻きつき、人体とコアとが強く密着したと見えた時には、更にコアの全周囲から細く脈打つ血管に似たものが無数に生え出し、伸展、膨張してゆき、全身を覆ってゆこうとする。時間にしてわずか一秒か二秒の内には光が拡張して、泰朋が白く包まれてしまう。

 眩さが収束を見せると、すでにそこに泰朋の姿はなかった。

 否、泰朋は泰朋ではない何か別の物へと変わってしまっていた。

「変身した。あれは、まるでーーーー」

 嘆息を漏らしたのは辺見であり、美那斗は声もなく息を呑み、そしてその姿に見惚れるのだった。

 それは金色と白色の神々しい程の色彩でありながら、禍々しさすら覚える獣の如き姿であった。

 元々巨大であった泰朋が更に一回り巨体になって見えるのは、全身を覆う装甲、というよりはむしろ甲羅や外殻、甲皮といった類の、見るからに頑強な体躯によるものだ。

 特に拳や指先、肘、膝、足の甲、踵、あるいは額や顎といった、格闘において打撃を加えられる部位、更には前腕、二の腕、大腿の内側や脹脛等の絞め技で相手と接触する部位には、様々な形状の突起が規則的に、又はランダムに配列され、攻撃の効果を倍加させているように見える。

 二本の脚で立っているが、全体の印象としては昆虫や節足動物に近いかもしれない。

 よく見ると体表には白を基調とした濃淡で、アボリジニの壁画やボディペイントに極似した模様が浮き上がり、微かに窺い知ることが出来る。

 だが、何と言っても特徴的なのは頭部の両側面、こめかみの辺りから生えた大きく湾曲しながら螺旋を描く二本の角である。捩じれ、波打ちながら、徐々に太さを変えながら輪をかく様は羊のそれのようでありながら、先端は輪から抜け出すように外へ伸びつつ、最後は敵を睨めつけるように前方へ向けられ、鋭い眼光と相俟って、立ち向かう者を射竦める。

 その眼光を放つ眼もまた特異的で、昆虫の複眼を思惟させた。六角形の個眼が並んで一つの大きな目のように形成されるのが複眼だが、黄金色と黄色のグラデーションに光り、それ自体が二個の宝石のようである。

 輝ける獣といった風貌だが、それに相応しいものが尻臀に獅子のものに似た尻尾の形を取ってぶら下がっている。

「ホーン」

 我知らず零れ出た美那斗の言葉が、この異形の超人の名前を決定した。

 突然の変身に戸惑う様子は、敵するラスツイーターの方も同じなのか、倒木の下から這い出してくると何度も首を傾げ直して凝視する。

「イーーーーッ」

 あの、ラスツイーター特有の異声が口から漏れた時、ホーンの手が持ち上がり、頭痛に耐えようとするように頭を抑える。体をくの字に折り曲げ、頭を二度、三度と振る。

 それを見て攻撃の好機と捕えたのか、ラスツイーターが動き出す。

 駆け寄りながら、左手が斜めに振り上げられ、大きな玉ような塊が一閃する。

 木造は言うに及ばず、コンクリート片なら砕け、鉄筋等の堅固な建設資材すらへし折る剛力が、その破壊対象を生物に変えたとしたら、その破壊力が生み出すであろう肉塊を想像するだけでも気分が悪くなる。恐怖を知る脳はまず回避を命じるであろう。

 だが、ホーンの動きは、それではなかった。

 それは恐ろしく大きな掌であった。

 普通の人間の首であれば容易く片手で握り、締め付けられそうな大きな掌が、ラスツイーターの打ち下ろす腕の先の巨塊を受け止めた。

 受け止めただけではない。捕えたのだ。

 ラスツイーターが腕を引き抜こうとしても動かせない。ホーンの怪力がそれを許してはくれないのだ。

 焦燥に苛まれたのだろう。今度は右腕を振り上げて、破壊の棍棒を叩き下ろす。

 そして、同じ現象の二度目が起こる。

 ホーンの左手がラスツイーターの右手を掴むと、力と力の凌ぎ合いの中、両者は動きを止めたかに見えたが、実際にはそうではなかった。上げられた両の手は次第に下がり、左右に開いてゆく。しかもホーンの側へ引き気味なため、自然と両者の間は狭まる。歯ぎしりしているかのような顔と顔が接近すると、ホーンが首を仰け反らせ、強烈な頭突きを見舞わせた。何度も、何度も。

「イーーッ」

 頭部から顔面にかけて、まるでラスツイーターの組織片が飛沫となって散っているのかと錯覚させるほど激しい衝突が繰り返され、耳を塞ぎたくなる不快なくぐもった音が弾け、その度にラスツイーターの苦悶の喘ぎが悲鳴に近い様相を呈してくる。

 打撃が二十数回を超えた頃、ようやくホーンの掌が開かれ、最後の頭突きでラスツイーターは仰向けに倒された。無残にも顔面は酷く形を変えられていた。

 両の肩をいからせ、大きく上下させながら、ホーンが見下ろしている。

 両の足裏を交互に地に貼り付かせながら、ラスツイーターが後退りする。

 その時、バキバキと木材の折れる音と、男が叫ぶのが聴こえてきた。

「うわぁーーっ」

「辺見っ!」

 美那斗の剣が元凶であった。放り出された剣は今も振動しながら地面を這っていて、たまたま当った樹木の根方を削り、遂にそれが倒れたのだ。先刻は怪人を下敷きにしたのと同じ現象が、今度は別の場所で辺見の身に起きようとしている。奇妙な叫びと動きで辛うじて難を逃れたものの、足を縺れさせて転倒し、したたかに腰を打った。

「大丈夫? 怪我していない?」

 慌てて駆けつけた美那斗が顔面を蒼白にしながら、倒れている辺見の側にしゃがんで様子を見る。

 腰に手を当てて渋面を作る辺見だが、眉根に出来た皺は激痛から来るものと言うよりは、下半身を覆うのは黒色系のパンストと革のシューズだけという、お世辞にも上品とは呼べない彼女の格好を間近で見たことによるものだった。

「お嬢様、なんという恥ずかしい格好をーー」

「・・・」

 時と場所も忘れて、執事として、親代わりとして、つい窘める口調に変わっていく辺見の言葉と表情に、美那斗は耳まで真っ赤になりながらも敢えて無視することに決めた。

「アレを何とかしないといけないわね」

 スイッチが入れられたままの剣は刃を超振動させながら、次なるターゲットを求めて呻き声を上げながら徘徊している。美那斗は痛みに悲鳴を上げる躰を引き摺るように植栽の方へ近づく。下手に手を出して刃が少し触れでもすれば、それだけで指を切断してしまうかもしれない。細心の注意を払いながら、まずは靴底で剣の柄を踏みつけた。

 蛇のように這う動きをようやく止めた剣だが、呻きはより大きくなる。スイッチを切ろうと伸ばした美那斗の指が、咄嗟に引っ込められる。

「熱いっ」

 長時間の起動が剣をかなりな高温にしたらしく、美那斗はニットシャツの袖口を引っ張って手を覆ってスイッチを切ると、漸くその唸り声が静まっていく。

 ゴムの焦げた嫌な匂いが靴底から煙とともに立ち昇っていることに気付いて剣から足を離した時、再び辺見の叫び声が聞こえた。今度は美那斗への警告だった。

「お嬢様っ、あぶない」

 美那斗は失念し、警戒を怠っていた。ラスツイーターの存在を。

 振り返ると眼前にラスツイーターがいる。

 ホーンと闘って転倒させられていたはずなのに、どうしてここに。そう美那斗は考えてしまった。現象に対して無条件に反応するのではなく、思考を働かせてしまったことによって、躰は動けなかった。

 怪人の振り上げた腕、打ち下ろす軌道の先に美那斗がいる。

 もう駄目だという絶望が、彼女の両の足首に枷となって大地にとどめ、現実から逃れるように目を閉じてしまう。両手で頭を抱えてしまう。

(助けて、助けて助けて)

 心の中で何度も繰り返される言葉。

 そして、ふいに理芳和尚の言葉が頭を過る。

(あなたを助けてくれる存在が居られるのではありませんか)

 ラスツイーターの灰色の巨大な手が叩き降ろされる。

 だがそれは、美那斗にかすりもしなかった。

 腕の軌道が大きく逸れたのは、ラスツイーターの腰にホーンがしがみつき、力いっぱい引き離したからだった。猛烈な風圧が美那斗の黒髪を波打たせる。

 風が止んだ時、吹き流しが萎むように、美那斗はその場にへたり込んだ。

「イッ、イーーッ」

 ラスツイーターが後方に引き摺られて行く。ホーンの両腕はラスツイーターの背後から腰を抱えるように回し、全面で両手をがっしりと組み合わせると、ある程度美那斗から距離をとった所で、今度はそのラスツイーターの巨体を持ち上げようとする。

 二本の足はしっかりと地面を握りしめ、全身の筋肉が一斉に隆起し、渾身の力を込めて怪人を持ち上げ。勢い良くホーンの背面側に投げ飛ばした。

 ラスツイーターの奇異な形状の体躯が跳ね、放物線を描いて首から地に打ち付けられた。

 頭部がありえない方向に曲がっている。浜に打ち上げられた魚のように、全身がビクビクと跳ねている。その上に更にホーンが襲いかかる。

 怪人の灰色の胸部に跨ると、二本の手で喉を締めていく。鋭い爪がめりこんでいく。

「ーーーー」

 声にならない声がラスツイーターの口腔の隙間から漏れ、やがてはそれすら漏れ出さなくなる。躰も動かなくなり、灰色の眼が白く変色していく。

 ホーンの勝ちであった。




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