満ち潮の夜
1. 満ち潮の夜
青く照りつける冴えた光が月崎邸の広壮な庭園を斟酌せずに痛めつけている。丹念に剪定された樹々花木や、そこに身を寄せる小鳥や虫の類は無論のこと、館で生活する人間達の心をも妙にざわつかせるのに充分な光量で降り注いでくる。
それは満月の夜のことであった。
真円の輪郭が強く浮き上がる月が中天に差し掛かる頃、月崎護は研究の手を止めると、まるで満月の夜に誘われて移動する産卵期の甲殻類のように、意図するわけでもなく戸外へその身を晒した。
外気に触れるのは実に5日ぶりのことで、生活時間のほぼ全てを占拠する研究と、あるかないかの睡眠や食事を摂る時間を、研究施設の在る豪奢な屋敷の中の地下階で過ごしている護の肌が夜の空気に触れると、次いで耳が異様な音を捕える。
音を文字で表すなら、それは、
「イーッ、イーッ」
と、聞こえた。
音は不快で、不安と怒りの感情を交互に手繰り寄せられるような気がして、耳を塞ぎたくなる。
夜が異様な変貌を遂げてゆくのを察知したのか、邸の人々もまた、眠りと静寂を破られ、誘われるように屋外へ足を運んできて、そこで月光の中に浮かび上がる異形を目の当たりにするのであった。
「お父様、あれは何なの?」
異形に目を釘付けにされていた護は、腕に触れた娘の細い指に体を激しく震わせた。思いがけない程の大きな動揺は触れた娘の方をも驚かせ、日常行っている呼吸さえも心身的な痛みを伴ってくるのを知っていて、息を潜めながら、二人は視線を合わすことなくその怪異を見つめるのだった。
怪異ーーーー
基本的な形状は、頭部が一つ、二本足で直立し、両の側面に垂れた腕があり、ほぼ人のそれに似てはいる。似てはいるから、怪人と呼んでも差し支え無いだろう。
だが、明らかに人とは呼べない形状をしているし、何より雰囲気がすでに人ではない。
かつては人であったのだろうか。
ふとそんな思考を脳裏に過ぎらせた者は、全身が粟立つ驚怖を覚え、叫ばずにはいられなかった。
人間が斯程にも不気味で、異様で、異質に変化できるものだというのか。神への冒瀆ではないのか。
見つめる人々から幾つもの音が湧き出してくる。嘆き悲しみ咽び泣く喉の立てる音。鼻を啜る音。引き攣ったように口腔の奥から空気の漏れる音。何の意味もなさない言葉に似た音。数々の音が静寂な夜を引き裂こうとする中、怪人はゆっくりと歩みを始めた。
気味の悪い肢体が視覚を犯すことへ、今宵のあまりにも冴え渡る光を放つ月は加担することを決めたかのようだ。
浮かび上がる姿。
そこにはまず、尻尾のようなものがあった。猿や狗のそれよりもよほど太く、尾というよりも腹に近いのだろう。蟷螂のように脚の付け根の後方から膨らんで伸び、地を這っている。
体に浮かぶ模様、紋様は、何を表すのだろう。細かい糸のような炎が連なっているようでもあり、幾重にも折り重なった波のようでもある。護はどこかで見た記憶を無意識の裡に辿ったが、古代の土偶や土器の柄を連想させると思い、更にその土偶らを見たのがこの屋敷内であったことを認識し、驚愕した。
大きく張り出した肩から下がる腕は長く、直立の状態で膝まで届いている。脚は骨盤の外側から生え出し、蟹股になり、広くゆるい膨らみを見せる股間が曝け出され、ひどく下品で淫らにすら思える。
顔、そう呼べるものが在るとしてだが、そこは逆三角形の平らな板状のものがまるで仮面のように乗せられている。仮面には細長い溝が彫られ、その奥は目があるのかもしれないが月影に隠されよく見えない。
頬の外側には襞や鰭を思わせるうねった板が起立して横顔を隠し、首から胸元に降りてくると左右が一つに重なる。服の襟を立てているようにも見えると思ったのは、護の娘の美那斗であった。
護の横で驚愕に見開いた目を閉ざすことが出来ずにいる美那斗の思惟に入り込んできたヴィジョンは白衣の襟を立てた女性の姿であったが、それは考えてはいけないこととして彼女の拒絶反応を引き起こし、心臓が激しく脈を打ち始め、苦しくてたまらなかった。
父と娘の予感とも疑念とも呼べないその想いは等しく、怪人の正体に対してのものであったが、二人にはそれを確かめる術も方策もなかったが、仮に確認できたにしても理解も受容も出来ないまま、ただ恐怖に打ち震えているだけだった。
「イーッ、イーッ、イーッ」
寄せては引いていく潮のように、断続的に声は続いている。
誰かの悲鳴混じりの声が、「何を食うつもりだ。何を喰らいたがっているんだっ」と、絶望をにじませながら叫んでいた。言われれば、それはイートとも聞こえた。
「食ってやる。食らってやる!!」
一歩、また一歩と、妙にカクカクした動きで近づいてくる怪人が、まるで言葉を発したように思えた瞬間、人々は遂に恐怖に耐えかね、自らの叫び声で怪人の鳴き声をかき消そうと足掻きながら逃げ出した。思考から健全さが喪失させられたからか、両足首に枷と錘を嵌められたように動きはひどくのろく、無様で、滑稽ですらあったが、それでも人々は懸命であった。
月崎護だけは別だった。まるで怪人に魅せられ、惹かれるように、自らの足を前へ前へと踏み出して行く。
制止したい娘の手は、その指先が触れて捉えているべき場所を失うが、彼女の足は地面の猟具に噛まれてしまったようで、前へも進めず、後にも退けず、瞳だけを父の背に向けるしかなかった。前方へ突き出された白い手は、ただ空気を掻くしかなかった。
「お父様」
娘のその小さく弱々しい声は護を繋ぎ止める最後の錨になったが、鎖はあまりにも脆弱すぎた。怪人と父の距離が次第に狭まるのを、娘は涙のフィルターがおぼろにさせるのを拒むことも出来ないまま見つめている。
昆虫の節足に似た節が動物の筋肉の筋になっているような、沢山の節から成り立っている腕がゆっくりと持ち上がってくる頃には、その腕の先にある掌の型をした部位の、そのまた先にある長い指と爪とは、人間の肉体に直に触れるところまで接近していた。
見上げるほどの巨体かに思えたが近寄ってみるとそこまでではない。それでも見上げなければ、顔は窺えなかった。逆三角の仮面が蟷螂を連想させるその奥に、目はあるのだろうか。口は在るのだろうか。牙が生えていたり、舌の先が二つに割れていたとしても、全く違和感がない。
それでも、あの耳を覆いたくなる「イーッ、イーッ」という嘔吐感を誘う鳴き声は、確かに仮面の奥、口があると思しき辺りから漏れてくる。
風が吹いてきた。
静寂の月の夜に相応しくない、強く生温かい風で、異臭を孕んでいる。怪人の吐息だと言われれば信じてしまうだろう風が、護の白衣の裾を、美那斗の黒く長い髪を揺らす。
涙が溢れ出し、零れた。頬を真っ直ぐに伝い流れる涙の理由を、美那斗は計りかねている。人智を超越した怪現象を単純に恐怖したのかもしれない。奇妙な音が耳に入り込み神経に爪を立てる痛みが起因するのかもしれない。物に恵まれた裕福な生活がこれを機に一変する予感。あるいは、この怪人が父をどこかへ連れ去ってしまう怖れへの慄き。怪人の中に得も言われぬ悲しみを連れたある人の面影を見てしまう己への憐憫。それらが渾然と押し寄せてくるのかもしれないし、その内のどれかが涙へと姿を変えて溢れるのかもしれない。
声はなく、ただ涙ばかりが溢れるまま、彼女は父と怪人を見つめ続けている。
その時、怪人の手が動いた。
長い指が目の前の人間の股間に刺し込まれる。文字通り、それは股間に突き刺さり、体内にめり込んでいくのだ。
護の口腔が大きく開かれ、夜気に晒されるが、絶叫はない。
反り上がる喉、剥き開かれる眼、両の足は地を離れていき、両の手は何かを押しとどめようとするのか、己の左胸へ向けられるが、手が到達するよりも早く隆起が始まる。
映画の特殊効果でならあるのだろうが、肉体の内側から何らかの異物が持ち上がってくる、そんな悍ましいことが現実に起きている。もはや感覚的なものだけでなく、視覚的にも明らかな隆起がシャツや白衣をも破るように大きくなって、それは遂に全ての壁を打ち破り、外へ飛び出した。
血飛沫が飛ぶことはなかった。しかしそれは、心臓であった。
幾筋かの血管をぶら下げたまま、急速に色彩を失っていく。ハートの形のなめらかな表面に直径5センチ程の種子に似た瘤が二つ浮き出て、怪人の鼻面わずかの所で停止した。
心臓の背面には怪人の指が二本突き刺さり、人体とを繋いでいる。
よく見るとその灰色に転じた心臓が鼓動を打っている。それも平常時の脈の速度で、正確な律動で。
ドクンっ、ドクンっ、と。
人間の四肢は時折ピクッと震える他は力を失い、肉体的にも精神的にも抗う術もない。怪人の指人形のようだ。怪人と指人形は、互いに心臓の表側と裏側を見つめている。
無意識下で、あるいは研究の徒の習性で、護、あるいは彼が何者かへと変化しようとしているそれが、宙に浮く心臓の打つ鼓動の数をカウントしていく。遂にその値が百八に到達した時、股間に埋もれていた怪人の腕がゆっくりと引き抜かれていった。
灰色の心臓は再度宿主の体内に戻りーーーー
ズルっ、という肉と肉が擦れる音とは違う、そこに金属音と粘着液の音が綯い交ぜになったような異音がわき起こると、怪人の腕は男の体から抜き取られる。心臓を取り戻した体が地に堕ちる。
色彩を失くした心臓の疫病に、急激な速さで感染していくのだろう、男の皮膚もまた同じ色に、灰色の濃淡と黒色のみに変色し、髪毛は硬化していく。メデューサの邪眼に見つめられ石化した人のように。だが、驚くべきことに、それは石ではなかった。
その証拠に、暗い岩石色のそれは、ゆっくりと体を起こし始めたのだ。
生まれたばかりの哺乳類が上手に立ち上がれないように、それも何度となく体をふらつかせ、なんとか上半身が持ち上がると、その襟首を怪人の節くれだった手が掴む。向きを変えた怪人は、掴んだ物体を引きずり、連れ去っていく。狼の母親が幼い子の首を噛んで運ぶように、決して傷つけようというのではなく、大切に扱う所作で。
運ばれる方は、地面を削りながら、引きずられる跡を線状に残していく。
その痕跡が伸びてゆくのを、残された人々は見いてることしか許されなかった。信じられないとわななくしかなかったし、取り憑かれたように全身を震わせるしかなかった。
中天にあって真円を晒す月は、物事の一切を俯瞰してはいたが、果たしてこの事象を嘆いているのか、悦んでいるのか、人の身に知るすべはない。ただ、月崎美那斗にとって、この後宙の月は大きな存在になっていく。
今はただ、涙も枯れぬまま、怪異が去った見えない後ろ姿を凝視している。
執事が彼女の打ちひしがれた肩に手をおいた感触もなく、平常を取り戻した証の虫達の声も耳には届かない。
風が吹く。
薄く幕を敷くような雲に、やがて月光は隠されるだろう。
月崎美那斗はこの半年余りの間に両親を失ったことになる。
父親、月崎護は不可解な事件で怪人に連れ去られた。警察に届けは出したものの、目撃者数に反して信憑性に乏しいとされ、聴取も形式的なものにすぎず、失踪扱いになったのもかろうじての感が否めない。警察側の反応としては、むしろ多数による殺害遺棄、隠蔽の疑いがある旨を匂わせるものであった。
月崎というのが昔からの豪家で、今は亡き護の父、新道が辣腕で知名度の高い議員であったことが幸いして、この程度で済んだのだから、これ以上波風立てぬ方が無難であろうなどと揶揄されもした。
だが、美那斗にはどうでもいい事だった。
誰が信じて、何をどう思おうが、事実は変わらない。父はもういないのだ。
およそ半年前、春の遅い北国で残雪と呼ぶにはまだ早い時期に、標高二千メートル級の休火山が突如として噴煙を上げた。重い火山灰が雪を黒く染めていき、降灰は四日間にも及んだ。天から降り注いだのは灰だけではなく、大きなものでは直径数十メートルもの岩や石が雪解けを呼ぶ雨に変わって降りてきて、死傷者、行方不明者合わせて五十余名に上る大惨事となった。季節が夏であれば登山客も多く、被害は数倍以上に上ったであろうことを考えれば、むしろ最小限にとどまったとも言える。
この火山噴火の惨劇に遭遇したのが月崎環汽、美那斗の母である。
子供の頃から興味のあった考古学の道を環汽は成人してもずっと追ってきた。大学卒業後もその大学に留まり、研究畑一筋であった。月崎護と出会い結婚。美那斗出産の前後数年を除けば、人生のほぼ全てを古代の謎に傾けてきたと言える。一意専心、一つのことにそれ程まで情熱を注げることに尊敬の念がないわけではないが、子供にとっては母との親密な時間を作るのに困難な状況は寂しさが募る。学校や友人、将来のことなどを相談したい、話をしたいという気持ちを母に向けることが出来ないくらい、環汽はほとんど家に寄り付かず、大学の研究室にいるか、地方の遺跡群の発掘に精を出していた。
それは家にも問題があったのだろう。護とは有り体に言えば不仲であったし、義父新道は不仲と言う以前に、環汽を単なる後継者作りの機械としか捉えていなかった。結婚当夜、新道は医師団を環汽に当て、健康診断や体調管理を毎日行い、食事制限、運動の義務付け、排卵日の性行為強要、逆に排卵日以外の性行為を禁止した。まさに妊娠させられるためだけに生かされているようだと感じたし、実際新道にとってはそうだったろう。
一人息子の護という名は、代々続く月崎家を継ぎ、後世まで護り続けて欲しいという願いが込められていたが、意に反して護は科学を志し、しかも天賦の才を見せてしまった。精力盛んな頃は政治家として行動することが面白くて、多くの時間と労力、気力を傾けてきたが、一般の企業人らが定年と呼ばれる歳を過ぎると、第一線で活躍しながらも、後継という事柄に意識が向いてしまう。歳を取るとはこういうことを言うのかと自嘲しながら、この世に生を受けた孫が女子であったことに大きく落胆した。
加えて、出産のストレスやプレッシャーからか、産褥期に発症した病により、母胎は以降の受胎ができなくなってしまう。新道はそのことで嫁を口汚くなじり、息子に対しては離別し、新しい母胎を入手するよう強く迫ったが、護は老人の戯言として請け負わなかった。かと言って妻を保庇することも慰謝することもなく、煩累から逃れるように自らの研究に専念していった。その結果、数々の新発見や開発、功績など輝かしい名声を上げていったが、脚光とは真逆に家庭内は暗く冷たく、閑散とし、環汽の居場所はそこにはなかった。
発掘といえばまだ聞こえは良いが、有り体に言ってやっていることは土いじりだ。土を掘って砕き、篩に掛ける。僅かな痕跡も見逃さないように、ゆっくり丁寧な作業になるから、懸けた時間の割に遅々として捗らない。来る日も来る日も土に触れているだけ。そんな作業に環汽は没頭した。
考古学は科学とは違う、と護は言う。科学が証拠を追うのに対して、考古学は夢やロマンを追う。対して環汽は反駁しない。この世の中で過去以外に夢を見せてくれるものがあるだろうか。
かくして、環汽は春まだ早き頃、雪解けを待たずして北方の越海山を訪れた。
全国各地になにがし富士と呼ばれる麗峰があるが、標高は二千メートルそこそこと遠く足元に及ばないまでも、威風堂々とそびえる姿形を見て覚える荘厳さは、その名に冠するに充分値する。環汽が調査地に選択したのは、その山の裾野南側にあり、古代の人々は朝に夕にその威容を目にしていただろう。霊山と呼ばれ、山には山岳信仰が生まれる。越海山にもそれにまつわる伝説がいくつも残されているが、かつては越界という文字が当てられ、この世とあの世、現世と過去、人間界と魔界、物質界と精神界など、様々な界の堺とされ、民話の題材にもされてきた。
渡来人が海を越えて最初に見た山という逸話に由来するというのがその名の通説ではあったが、今なお妖怪だの神々だの、不思議な力だのの噂が耐えない土地柄であった。
越海山噴火の一報を聞いても、美那斗にピンとくるものはなかった。大学の研究室から護へ連絡が行くも、こちらも研究に没頭するあまり、外部と連絡を断っており、月崎親子がその自然災害の意味、つまり妻が、母が被災した事実を知ったのは翌日のことであった。環汽が遺跡発掘に出掛けた場所を二人共知らなかったのだ。
事実を認識すると、ただ愕然とし、言葉を失い、途方に暮れた。
行方不明者の捜索に山岳警備隊、自衛隊が派遣され、山岳愛好家や勇士がボランティアとして参加した。大学の学生が多数遺跡の調査隊に参加していたこともあって、大きく報道もされたし、内閣総理大臣は特別対策室を設置した。
事が肥大する中、何故か親子は動けなかった。生命の安否を心配し現地に赴くこともなかった。
噴煙は十日以上続いた後、漸くの収束をみたものの、この時すでに積もった灰は八メートルに及び、下の雪を溶かして泥の海、泥の山となって、一面を覆っていた。人が踏み入れる場所を作るために重機や人員を導入しても単なる徒労、税金の無駄使いだということが、空撮した映像を報道の画面を通して一瞥しただけで明らかであったので、捜索打ち切りが宣言されても、国中のどこからか反対の声が上がることもなく、哀悼を捧げるだけで、比較的早期の段階で平時が戻ってきた。
相手が自然では被害者も、その代弁者たる遺族も、唾棄する相手を別に向けざるを得ない。このような場合、大抵は天災を人災に転換しようとする。今回の被災に関しては、遺跡発掘調査の時期の適切性であった。雪がまだ降り積もっている季節に、発掘調査を誰が計画し、誰が許可したのかと、大学側の責任が問われた。計画の責任者は大学の教授であったが、発案者の環汽が半ば強引に実施したと、後にその教授から美那斗は愚痴るように教えられた。
母の死亡宣告をどのように受け止めたらいいのか、どんな感情を抱いたらいいのか、答えを得られないまま美那斗は無為の日々を過ごしていた。
時節は若葉の頃から梅雨、夏の盛りを過ぎ、通っている大学も長い夏期休講が終わると、人々の記憶から災害があったことが陽に焼けた肌の色が徐々に抜けていくように薄らいでいった。晩夏を迎え、空気の暑さに出無精だった足が多少の涼を得て何とか動き出すように、美那斗は漸く家を出て勉学に復帰することが出来た。
久方ぶりの学びの時間はとても楽しかった。知識や見識に逢うことがこんなにも喜びに満ちたものだったのかと、改めて想いもした。
母の死を受け入れられたわけではない。と言うよりも、死んだという認識は持てなかった。事故に遭遇したということすら、他人事としか思えない。幼い時分から常にそうであったように、母は今もどこかの遺跡で調査や研究をしている。意固地にも想える程、彼女にはそれ以外の感慨が湧いてこなかった。
そんな折、今度は怪異に見舞われる。
父、護の場合はそんな呆けた状況とはさすがにいかなかった。目の前で事の一部始終を目撃したのだから。それがどんなに現実離れした、夢想や妄想の類にしか想えないものであったとしてもだ。
父は殺された。しかし、自ら起き上がり、連れ去られた。母と同じく遺体はない。死亡の証明もない。それでも今回の件は美那斗の心に寂寥の闇を降り注いだ。
父親として、人間として、美那斗は父を好いていたし、尊敬もしていた。母との間にあるいざこざはさておき、科学が人間の生活に与える影響の尊さを信じ、その道に殉ずることを天命と受け止め、真摯に貫き通そうとする姿勢に子供の頃から感銘を受け、誇りにすら思っていた。
この十数年来、護の研究課題は自然エネルギーの高効率化であった。一般に知られるエネルギー源である太陽、その光を電力変換する技術は現代普及しているもので、高いもので二十%であるが、理論限界値でいえば85〜90%と、まだまだ余力を示しているものの、高い効率を得る為の機構は未だ開発途上にある。一般住宅の屋根や休耕田にソーラーパネルが並ぶようになったとはいえ、設備は決して安価とはいえない。もしも安く、高効率の太陽光発電が創造されたら、それは人間という文明の転換期になる。
石油やシェールガスを巡る競争や紛争は意味を失くす。太陽は人種、宗教、貧富に関係なく、等しく天にあるのだから。安易な発想は禁物だが、テロを無くすことだって可能かもしれない。美那斗が生まれた頃の護の言葉は、潤沢な月崎財閥の資産を基に私設の研究開発チームを組織した御曹司の戯言として、妬みや反感と共に批判的に執られていたが、年を追う毎に世界的な権威の賞賛や表彰の数を重ね、脚光を浴び、伴ってエネルギー革命者だの呼ばれる程に影響力を認められるようになった。
信念を貫く大切さを美那斗は父に教わって育った。護の好きな言葉は上杉鷹山の有名な和歌だと、子供の頃に話を聞いた覚えがある。
「私が子供の頃やっていたテレビ番組の主題歌にこの言葉があって、よく歌っていたものだ。でも、そこには前半分しかなくてね。大人になってから後半を知って、いい言葉だなって思ったよ」
そう言って護が教えてくれたのは、
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、為らぬは人の為さぬなりけり
という努力を尊ぶものであった。
自分を戒めるかのように娘に語る父親の顔を思い出しながら、美那斗は一人には大きすぎるベッドの片隅で膝に頭を埋めている。剥き出しの小さな膝頭の頂から生じた熱い涙の流れる感触が、肌を一条、二条と伝い落ちていく。白くきめ細やかな脚に川の道筋を築いた涙は、部屋着の裾を濡らして染みていくだろう。
どれ位の時をそうしてやり過ごしたろう。彼女はゆっくりと身をベッドの外へと移すと、重く鈍い足取りでありながらも、幼い頃からの躾の影響なのか、一切の足音を立てぬまま自室を出て、館内を歩いて行く。ある部屋の前に立ち、木彫模様の装飾が施されていない、質素な戸口をノックする。あまりにも細い指が奏でた音は小さく、軽く、ほとんど聞き取れないかだったが、その部屋の主は応えながら内側からドアを押し開いた。
「辺見、お腹がすいたわ。なにか作ってくれない」
「解りました、お嬢様」
辺見高雄はもう随分長く勤めているこの家の執事だ。美那斗が生まれる前から月崎家に仕えて、館内の全てを取り仕切っている、他の執事や家政婦達の長でもある。美那斗にとっては父や母、誰よりもともに過ごした時間が長いといえる人物で、唯一心を許せる存在になってしまったかもしれない。
白髪交じりというにはかなり黒い髪のほうが少なくなった頭髪を短く刈り込んで、普段は燕尾服が正装であり、仕事着であったが、今はずっとラフでいながらも清潔感を損なうことないよう気遣いの行き届いた白いシャツにジーンズという出で立ちであった。特にシャツはインドの手織りの綿布、カディという生地で作られた、ホワイトなのに温もりが感じられる独特の風合いのシャツで、彼の人柄をよく表している。襟のあるなしのバリエーションくらいで、同じシャツを何枚も持っているようだ。というより、他の私服を持っていないらしい。
今もその歳の割に若々しい格好の辺見の後ろを美那斗がついて歩き、二人は台所に入った。
月崎家が抱えている家政婦は少なくない。広い館内を維持管理する掃除婦、庭師、料理人、小間使いや、財務を担当する秘書、等。だが、例の怪人が現れた恐怖心は彼らをこの館に繋ぎ止める思いや高額な報酬という舫綱を容易く断ち切ってしまった。総五十名以上の使用人で残ったのは辺見唯一人であった。
館のことは大抵掌握している辺見は、部屋の隅々まで掃除や手入れを行き届かせることは不可能であったが、どんな食材が今残っているのかは把握していたし、多少の料理の技術も持ち合わせていたので、台所に入るなり早速料理にとりかかった。
「おにぎりでよろしゅうございますか」
「不思議なものね。あんな事があってもお腹が空くのだから」
多い時には百名以上にもなる賓客を集めてのパーティーを切り盛りしたことのある厨房はそれに相応しい広い作りになっていて、当時は料理人や食材、食器でごった返したものだが、今は閑散とし、空気がひんやりとしている。重厚なアームチェアーが一客入口付近の壁に据えられているが、やや場違いな感もある。マホガニーの背板や肘掛けに一切触れることなく座に浅く腰を落とし、背はまっすぐに伸ばす。幼い頃からの教育で自然と上品で優雅に見える姿勢を取ってしまう美那斗だったが、どうしても視線は下を向いてしまう。白いタイル張りの床の斜傾に配置された溝模様を見るでもなく眺めていると、暗い思いに沈みそうになるのを救うようなタイミングで辺見が戻ってきた。
盆の上の白磁の皿に小ぶりのおにぎりが三つ乗せられている。それを盆毎受け取って膝の上に乗せると、美那斗は早速一つを手にとった。海苔と塩と飯の匂いが鼻腔をくすぐり、食欲を誘う。
「今、お茶を用意します」
おにぎりを頬張る姿に安堵の表情を見せたのもつかの間、美那斗の頬を涙が伝い、厨房の照明に乱反射するのを見つけると、辺見の表情は固くなり、心臓の鼓動が一つ大きく動いた。容姿はもとより、佇まいや内面から醸しだされる雰囲気など、すっかり女性らしく洗練され、何よりも美しく成長してくれた。自分は女性と籍を入れたこともなければ、子を成したこともない。それでも美那斗を赤子の時より我が子のように愛くしみ育ててきた。歳を重ね、成人したその子の流す涙に女性の美的な片鱗を見て、ドキリとさせられたことを恥ずかしいと感じたのか、不思議な感情と驚きを誤魔化すように、辺見はお湯を沸かし、茶筒を開けた。
茶葉の香りが漂う。
皿の中のおにぎりが三つから二つに減った頃、突然、夜気を引き裂く悲鳴が辺りを震わせた。
「何っ!?」
鼻梁から頬骨に中指を滑らせるように涙を払い、立ち上がる美那斗。
「研究棟の方です」
ガスコンロの火を止めながら応える辺見。
二人は走り出した。
月崎邸の荘厳な構造を上空から眺める事のできるものがいたとしたら、その形をコの字、あるいはM型、またはくの字と例えただろう。正面玄関からエントランスに当たる棟を中央に、その左右に通称ツインタワーと呼ばれる二柱の高い塔が聳え立つ。そこから広げた翼のように建屋が角度を開きながら伸びていく。東側の棟は主に館主の居住スペース、西側の棟はかつて政を生業としていた仕事柄、関連した公務や催しに使用されていたが、現在では新道の逝去に伴い様相は一変している。地上二階、地下一階の月崎亭は新たな館主護の意向で、西棟は研究のための施設に当てられている。
東西の棟は中央エントランスで繋がれているので、辺見と美那斗の両名はここを抜け、研究室が並ぶ西棟地下への階段を駆け下りる。辺見に大分遅れて、息を切らせながら美那斗が着いたのはデータ解析を主とする室の前であった。護の施設研究団体、通称月崎研究チームの一員である雄川開、広面遠流の二人がそこにいて、見るからに狼狽えている。先程の悲鳴はどちらかのものだろう。
何が起きたのかと問う辺見に、信じがたい返答が来る。
「怪人が中に!」
美那斗の黒目がちな目が大きく見開かれる。心臓の鼓動が大きく打つのは、走ってきたことによる心拍の上昇が原因ではない。全身に汗が噴き出してくる。あの日の光景が確かなヴィジョンとなって眼前に展開していくようだ。
「先日のとは違う奴です」
三十代と、比較的若い広面の言葉を補うように、雄川が続けて言う。
「突然現れて、部屋の中に侵入しました。内側からロックされて開けられません」
「どういうこと・・・」
怪人、というからには人間とは似ても似つかない姿をした何かが電子キーを解除して中に入ると、今度は外側からの侵入を防ぐために施錠したという。
「そんなことが?」
疑念を抱かれるのを嫌うのが研究者の性質なのか、二名は自分の見た事実を立証しようと思考を回転させ、
「そ、そうだ。監視カメラが!」
と、言うが早いか、広面が急いで向かったのは監視室であった。続いて雄川、辺見と階段を上がり、一階奥の小さな部屋に移動する。
一人取り残された美那斗は、データ解析室前の廊下の壁近くの天井からぶら下がる監視カメラを挑むように見つめながら、重く打ち続ける鼓動を落ち着かせることが出来なかった。嫌な予感、胸騒ぎとでも言うのだろうか。
知ることは人間にとって最大の喜びである。これは数少ない父と母の共通認識であり、美那斗はそう教えられて育ったし、肯定もしている。だが、今は悲しみに沈むあまりみすぼらしく変わった自分の姿を写しているだろうカメラが、ほんの数分前に捉えていた怪人の姿を見るのを躊躇している。知るのが怖くてたまらない。知りたくない。そんな否定的な感情に支配されながら、逃げ出すように階下から這い出した後は足を引き摺るように監視室に入った。
そこにはモニターが幾つか並び、録画されている監視カメラの映像を遡っているところであった。やがてその姿が映しだされる。
「これです」
研究棟の地下は地上の装飾とはまるっきり逆で、コンクリートが剥き出しの、汚れや傷が着いても放置されたままで、華やいだ雰囲気は微塵もない。そんな廊下を迷う様子も見せず、画面の左端から現出した怪人は明確な目的を持った動きで扉の前に立つと、壁面に取り付けられたコンソールパネルに手を乗せる。骨ばった大柄な手で、一本の指だけで複数のキーを同時に押してしまいそうに太く、繊細な操作はできぬだろう。だが、実際にはその奇怪な手はパネルの上に翳されただけで、映像では影になって窺えないが、おそらく手のひらの下に人間で言う指の代替になるような器官がうごめいてキー操作をしていると想像された。
次いで、驚いたことに、怪人はパネルを覗きこむような仕草をする。
「網膜スキャンだ」
研究員二人の異口同音の驚きの声が、美那斗の悲しみを誘った。数秒と待たず、扉が左右に閻かれる。セキュリティーが認識したということは、網膜が登録されているということに他ならない。
怪人が後方を振り返る。躯体が虫を連想させた先の怪人と色調こそ似ているものの、構造がまるで違うこの怪人は、全身に様々な形状の板を貼り付けたように見える。丸く歪曲したものや屋根瓦のように波打った複雑なものもあれば、四角いシンプルな板など、日本と西洋の甲冑をごちゃまぜに組み合わせて無理矢理体を覆わせたような姿をしている。
両肩から上方へ大きく聳える円柱形の突起があり、その間にある顔がカメラの位置を知っているように真っ直ぐに見据える。スキンヘッドと呼ぶよりも骸骨と呼ぶのに似つかわしいが、それ以前に、人間に近い頭部を怪人が有する事実が、見る者の嫌悪感を誘発する。
「ああ・・・」
彼女の口から漏れだした吐息が物語っているものを正確に理解できた者がこの場に誰一人いない状況は、彼女にとって残酷であった。瞳が滂沱の涙に歪む。もうこのまま一生枯れることなどないのではないかという程に、涙は止めどなく溢れては頬を伝い流れた。
モニターの中では開かれたドアが怪人を飲み込んで閉じた。
広面の操作で、研究室内の様子が続いてモニターに映し出される。
「これはライブ映像です」
室内では怪人が何やら作業をしている。コンピュータにアクセスし、脳波測定用の電極パッドを自らの頭部に貼り付けている。
「あれは父の護です」
意を決して言う美那斗の声は意外にも凛と張り、聴く者の心に鋭い刃を突き立てた。
まず始めに否定の言葉が口をついて出そうになる。だが思えば三人とも腑に落ちる点があるのだろう、その口々から意味を成す言葉が溢れることはなかった。
もはや人間の眼球とはいえない虹彩のスキャンに機械が反応したこと。広面と雄川の両名が思い至るのはその点であったし、辺見はまた、別の視点から護を思い起こしている。怪人の両肩から上へ縦長に伸びる円柱形の突起はタワーに似て、黒と暗灰色の混ざった模様が連想させるのは、この館の威容であった。また、護という名前が甲冑を思いおこさせるのも、この怪人とのイメージが繋がる。
であれば、この怪人はかつての護ということになる。
これからおよそ三日間、怪人は部屋に篭もる。
最初の怪人が月崎邸を襲い、護を連れ出した日から十五日後の出来事であった。




