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短編

Good bye, My Crown.

作者:

 ひたすらに足を急がせて、一晩。

 ようやくたどり着いた我が家でひとまず身を横たえた私は、翌朝、枕元に立った気配に目を覚ました。




 起きているかい、クリストフ。

 いや、顔を上げる必要はない。昨晩は夜通し歩いてここまで来たのだろう? それでは若いおまえの足にも辛かろう。たいそう疲れているはずだ。横になったままでお聞きなさい。どれ、私もこの椅子に座らせてもらうとしよう――ああ、懐かしいことだ。小高い山をひとつ、丘を二つ越え、湖を回って。よく憶えているとも、私もかつては同じ道を馬で辿っていったものだ。長い長い道程を越え、愛しの姫、フロレンツィアのもとへと。そう、クリストフ、おまえの母親のことだ。

 あのころのフローラは星屑や月が嫉妬するような娘だった。そう、そう、国中の娘は恋慕の吐息を漏らし、男ならば彼女のかんばせを目に映すだけで顔をそむけていたほどだ。無論私も例外ではない、フローラが笑いかけてくれた日の晩は、胸が高鳴って眠りにつくことすらできなかったものだ。そんな話を土産にすれば、また彼女が微笑んでくれる。花がほころぶように。ああ、フローラはほんとうにうつくしかった。同じサンドリア人であるはずの私の瞳の青も、彼女のものに比べれば、空とそれを映した水たまりに過ぎぬものだった。

 うつくし“かった”、などと言っては、彼女に叱られてしまうだろうなあ。彼女の花は、歳を重ねても枯れてしまうことなどなかったのだから。確かに彼女の頬にはしわが刻まれ、腰は曲がり、煌めく黄金の髪色は失われたかもしれない。だが彼女は輝いていたよ。心という名の盾を持ち、芯という名の剣を構え、信という名の誇りを抱き続けていた。


 クリストフ、そのままひとつ昔語りを聞いてはくれないか。この父の話を。老人の戯言と聞き流してくれても構わないから。……そうか、ありがとう。つくづく優しい息子を持った。話というのは他でもない、お前の亡き母のことだ。ほかに語るような物語を、私は持っておらなんでな。

 この城の尖塔に飾られた絵を眺めたことぐらいはあるだろう。ああそうだ、西の窓に向かって立てかけられた、フローラの肖像画のことだ。ならば考えたことはあるかねクリストフ、肖像画の彼女が笑わぬわけを。そして彼女の両の瞳が紅く塗られているわけを? お前の目には斜陽であり、炎であり、あるいはひなげしの花の色に見えたかもしれないな。

 ――私は見たのだ。その色を。血に彩られた彼女の城のありさまを。

 当時、サンドリアはひどい飢饉に襲われていた。民は飢え、奪いあい、糧を求めて領主の館を襲う者まで現れ始めた。その波はついに、一城の主であったランセル家、フローラの家にまで及んだのだ。お前も知っていることだろう、サンドリアに城と封土を任された家はみっつある。我がバルヒェット、東のエーデル、西のランセル。急速に勢力を増したとはいえ、ランセルは未だ新興貴族のひとつであったから、彼らが槍の穂先を向けるには手頃な相手であったのだろう。

 ランセルからの要請に応えて我らバルヒェットが軍を動かしたときには、すでに彼女の城は鉄臭さに満ちていた。くわすきを手にした農民たち、青銅の鎧に身を包んだ兵たち。彼らがみな山になって倒れ、死滅していた大地はまだらの赤に染まっていた。想像できるか、そこにあるものすべてが死に絶えているのだ。地も、草も、人も、すべてが。城は燃え、食料庫はすでに空だった。到着するのが遅すぎたのだ。ただ呆然と立ちつくしていた私が彼女を見つけたのは、そのときだった。

 フローラは、凛と立っていたよ。

 もう死んでしまっているのではないかと思ったほどだ。

 彼女の城からいくらか離れた野原で――もちろんそこも血に染まっていたが――微動だにせずに城の焼け跡を見つめていた。遠い間隔で挟まれるまばたきがなければ、人形か石像のようにも見えただろう。そばには誰も従えず、宝石の類もその手にはなかった。着の身着のまま逃げ出してきたのだろう、薄手の夜間着一枚をしとどに血に濡らし、靴の無い足には切り傷がいくつもできていた。

 フローラ。フロレンツィア。

 私は名を呼んだ。呼ぶことしかできなかったのだ。想像できるか、あのときの私の心を。無力に打ちひしがれ、なお、それが自分だけではないのだと安堵すら抱いてしまったことに気付いたときの絶望を。私の焦燥など知る由もなく、彼女は一心に城を、その光景を見つめて返事をしなかった。まるで夕染めの一瞬のことごとくを焼きつけて忘れまいとするかのように、碧空の瞳を大きく開いて、我が兵の誰もが目をそむけた戦場の跡地を俯瞰していたのだ。

 フローラ。私はふたたび呼びかけた。フローラ。フローラ。何度も何度も繰り返して。そうしなければ、彼女がそのまま石と化してしまいそうだったからだ。フローラは瞳を閉じた。耐えかねたかのように。もしくは目に収めた光景を反芻するかのように。そして掠れた声で言ったのだ。「なにもかもなくなりました。バルヒェットの殿方。もうわたしにはなにも残っていない。この身一つしか」そしてもう一度目蓋をあげた。

 お前が生きているじゃないか。

 そう考えなしに吐けるほどには、私はもの知らずで矮小な子どもだったのだ。今にして思う、あの一言は、いったいどれだけの衝撃を彼女に与えたろう? 私が抱いたのは絶望とすら呼べぬものであり、彼女のそれは、夜の井戸の底よりも、砂漠に積もる砂よりもなお深かった。私はその表面を両の手で掬っただけに過ぎなかったのだ。フローラは鷹揚に振り向いて私と目を合わせた。

 私はそこに、鮮烈な赤を見た。とびきりうつくしい血の華を。炎の猛りを。

 クリストフ、信じられるか? それともお前は笑うかね。ついにとち狂った老人の妄言だと。記憶すら曖昧になったもうろく爺の戯言だと。もちろん信じるも信じないもお前次第だ。

 その色は他のなによりも彼女を気高く彩った。私があれほど望み焦がれた笑顔など比べ物にもならないほどに。ああ、きっと、彼女はそのとき薔薇であったのだ。野の花であることを捨て去り、代わりに鋭い棘を纏った紅蓮の薔薇。私にはその薔薇を手折ることなどできなかった。ましてや、彼女の棘を引き裂いてしまうことなど。だから代わりに、共に来いと、そう言った。失ったものは埋められぬだろう、零したものは拾えぬだろう。だが空になったお前になにも与えられぬままで、私はバルヒェットの名を継ぎたくはない。

 彼女が何を思ったかは知らない。私に分かるのは、あれから彼女が一度とて声を上げて笑わなくなったことだけだ。拠り所を失ったフローラは私の妻となり、お前を産んで、やがて死んでいった。私は彼女の肖像を描かせたが、その瞳を青く塗りつぶすことだけはできなかった。画家もたいそう戸惑っていたものだ。

 

 長くなってしまったな。ひとりで抱えるには少しばかり、荷が重すぎたのだ。やっと胸のつかえが取れた。これでもう、あとはお前のことだけだ。……すまない、クリストフ。ここに呼び戻した理由は分かっているな。

 そうだ、陛下が崩御なされた。サンドリアはもう長くない。我らが爵位は剥奪され、名声は地に落ちる。すぐにこの国は呑まれてゆくだろう。

 どうした、泣いているのか、クリストフ? ならばその涙はお前自身のためだけに流しなさい。滅びゆく国や老いぼれのために、お前が涙を落とす必要はないのだから。わたしはこれから王都へ向かい、国と命運を共にしよう。もうお前が忠義立てすべきものはなにもない。支度を整えたらすぐにでも国を出なさい。私はお前の壮健をいつまでも願っていよう。

 クリストフ。クリストフ、ありがとう。すまなかった。

 お前に紋をやれなかったことだけが、この父の最後の心残りだ。

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