龍吟虎咆 三
「ズゥちゃん! ズゥちゃんってば!」
「……一角、ズゥちゃん言うな!」
「よかった、いつもの玉髄だ!」
しばらく気を失っていたようだ。玉髄は一角の声で目覚めた。
とたんに、腥い空気にむせた。おまけに全身がぬるぬるしている。龍も消え去っている。
「うわっ気持ち悪っ! 何だこりゃ!?」
「妖魅の体液です。毒はありません」
青玉だった。青い髪を、強い風になびかせている。
「青玉……大丈夫、だったか?」
「はい。ありがとう」
玉髄はそう言うのがやっとだった。もっといろんなことを、と思ったが言葉が出なかった。
「ここは……」
三人は小山のような、茶色くぬるぬるとした地面の上にいた。周囲には岩山や枯れ木に見えるものがあちこちに突き立ち、陰気な沼地にいるようだ。
「これは鯤、まさしく神代の妖魅です」
「!?」
玉髄はあたりを見回す。湖の中心に小山ができて、その上にいるようにしか見えない。
「水の中から頭を出して、それから動きがありませ……」
ありません、と青玉が言いかけたとき、地面――否、鯤が動いた。
「うおっとっと!」
「きゃあっ!」
何せ足元はぬめぬめとした体液に覆われていて、すこし傾斜が増しただけで滑る。
玉髄が踏ん張ると、そこに一角と青玉が反射的にしがみついた。
「だ、大丈夫か?」
玉髄は改めて思う。この二人を守らなければ。
青玉があたりを見回す。地面の揺れはおさまっていた。
「どうやら、復活直後でかなり鈍化しているようですね」
「そうだな、こいつが……国を崩す妖魅、なのか?」
「絶好の機会です。一角、早く封印してしまいましょう」
「うん! やるよ!」
一角は手に持っていた琥符をパン、と鯤の皮に押しつけた。
「……あれ?」
ぬるぬるぬる、と鯤の体液が噴き出してくる。
琥符は皮にめり込むことなく、その体液に押し戻されて虚しく滑る。
「あれ? ま、待って、ちょっと待って!」
危うく琥符が滑って流されるところだった。あわてて拾い上げる。
「おい! まさか、琥符が使えないんじゃ……」
「ち、違うよ!」
「体液に阻まれて、琥符が皮まで届かないようですね」
「どうする?」
「邪魔ならば排除すればいいのです。龍の力ならば、できる」
たがいに視線を合わせ、うなずきあう。言葉はなくとも、心が通っている。
「来い、我が龍よ!」
玉髄がおのれの龍――漆黒の応龍を呼び出す。二人の少女を乗せ、ともに鯤から離脱する。
応龍は高度を上げた。
「でっかー……」
小山にしか見えなかった鯤の姿がようやく見える。
蟠湖は峰国に数多く存在する湖の中でも、大きい方だ。その湖の半分を埋めて、巨大な頭部が水面から持ち上がっている。体中に、古木や岩が張りついている。十年湖底に沈められ、蓄積され続けてきたものだろう。
『玉髄、無事だったか!』
玉髄の頭の中に、思念が響く。剛鋭の声だ。
「将軍、琥符の奪取に成功しました。しかし、体液にはばまれて撃てません」
玉髄は口で発声しながら、それを思念として送る。一角や青玉にも状況を伝えるためだ。
「彈で頭部を集中して攻撃してください。体液をそれで蒸発させ、琥符を皮に撃ち込みます」
『わかった。全部隊に通達!』
剛鋭の思念が、空に浮く騎龍たちに伝えられる。
「一角、攻撃が始まる。収まったらすぐに鯤を封印するぞ」
「うん!」
「青玉は、彼女を助けてやってくれ」
「はい、必ず」
晩春の朝日がどんどん高くなっていく。空気が張り詰める。
『撃て――!』
龍から一斉に彈が放たれた。赤、黄、青、緑、紫――おおよそこの世を覆う鮮やかな色彩が、雨霰と降り注いだ。
彈は次々と鯤の表皮に着彈する。そのたび、水が蒸発して白い煙が上がり、皮はボロボロになってささくれ立つ。岩や枯れ木も弾き飛ばされる。
「よぉし、行くぞ!」
カッと鯤の口が四つに割れた。――その瞬間、山がひとつ消し飛んでいた。
玉髄らがそれを認識したときには、暴風と土煙が大気をかき混ぜ、応龍はまるで木の葉のように流される。ほかの龍も同様だ。
「きゃあああっ!」
「うおおッ!?」
玉髄はとっさに身を伏せ、一角の手をつかんだ。にもかかわらず、彼女の体が大きく舞い上がる。琥符がその手から離れる。
「しまった!」
「来い! 我が龍よ!」
青玉が応龍から飛び降りた。衝撃波の中に、青玉の白い龍が現出する。龍が青玉を受け止める。青玉は、琥符をしっかりと捕まえていた。
「あ……あぶな……!」
どっ、と玉髄は冷や汗をかく。琥符を撃つどころではない。
崩国の妖魅――その力を目の当たりにした。あたりは一転、巻き上げられた土と水、そして風が渦巻く戦場となる。
鯤が口を閉じた。頭部からは白い煙が上がっている。そこから割れ目が入った。茶色い皮が裂ける。全身にその裂け目が広がっていく。
「何だ!?」
風に引きずられるように、ずるずると鯤の皮が剥がれ落ちていく。中から黄金の光がほとばしり、新たな鯤の体が生まれる。口はくちばしに、ヒレは翼に、尾は尾翼に。
「し、しまった! 鯤が目覚めます!」
青玉が珍しく狼狽した。
「鯤は目覚めて、生きながらにその生を鵬に変える……!」
まさにその通りのことが起こった。巨大な魚は、巨大な鳥へとその生を変えた。
鵬の全身は、瑠璃色だった。そしてその体の頭から背、尾にかけてを、白い一筋の縞が貫いている。円錐型の嘴は、鈍い銀色に光っている。炯々と光る眼は、それだけで雷さえも呼び起こしそうだ。
翼は孔雀の尾羽を広げたような形で、六枚ある。うち前方の二枚はひときわ大きい。
最も大きい翼は、真横に広がったまま動いていない。だが、そのうしろについている四枚の翼が、細布のはためくようにゆっくりと動いている。ぬらりと光っている。
それを見た龍たちが吟じた。強大な敵を見つけた、生命のうなりだ。倒すべき敵だと、龍たちは鳴いた。
鵬もまた咆哮した。水面に巨大な波紋を呼び、大地を震わせる。
「うわっ!」
玉髄と一角は思わず耳を手で塞いだ。その咆哮だけで、暴風が起こった。しかもその風は、肺腑が腐りそうなほどの臭気を帯びている。思わずせき込む。
風の中を、龍の彈が斬り裂いた。
鵬は、騎龍たちの攻撃などものともせず、今度は翼を広げ、ゆっくりと羽ばたかせる。
暴風が起こった。騎龍らがその風に流される。攻撃の手がゆるむ。風に流された仲間に彈が当たるのを懸念して、撃てないのだ。
「どうする、このままじゃ封印どころか……止められないぞ!」
ただでさえ強く吹いていた風が、大きく乱れている。その乱れた空気に、龍たちは胴を流され、尾を取られ、須とたてがみをかきまわされている。
玉髄の龍も例外ではない。翼を風に取られ、何度も体勢を崩しかけている。
「玉髄! 力を合わせましょう。鵬を押さえるだけの力を出さなければ、琥符も撃てません」
「どうやって!?」
「すべての龍の力を合わせます」
青玉は辟邪獣の面を取った。自分の顔につける。
「一角、玉髄にしっかりつかまって」
「う、うん」
一角は玉髄の背につかまった。
『騎龍の皆さん、聞こえますか?』
青玉の声が、はっきりと頭の中に響き渡った。
『我が名は青玉、身に一千の龍を飼う龍師です』
青玉の思念は、まるで水晶のように澄んでいた。頭の中に、彼女の表情さえも浮かび上がりそうな明朗さを含んでいる。
『いまより、鵬を押さえることのできる龍を現出させます。あなたがたのやることは一つ。白い大龍が現出したのち、そこに彈を撃ってください』
自分たちを彈で撃て――青玉はそう言っていた。
誰かが抗議の思念を上げるかと思ったが、不思議とそれはなかった。青玉の意思に迷いがないことを感じ取ったのだろう。
「玉髄、やりましょう」
「ああ、いつでもいいぜ」
「応龍!」
漆黒の応龍と、純白の龍が垂直に伸び上がった。跨る青玉と玉髄は落ちないように太腿に力を入れる。一角も必死にしがみついている。
黒と白の龍が、たがいの尾を絡み合わせる。青玉が腕を伸ばす。玉髄もそれに応じた。
手をつかんだ瞬間、玉髄は自分の中に力が流れ込んでくるのを感じた。否、流れて、出て、また戻ってくる。手から入った流れが、玉龍を経て、足に下りて応龍に流れる。応龍から白龍に注ぎ込み、それが青玉に戻る。
青玉の衣服が消滅する。白い体に長い髪、両足の金環と、左腕の腕輪だけの姿になる。足首の金環は浮きあがって回転し、鈴に似た音を立てる。
青玉の体から光が放たれる。その体が、爪先から脚、腰、胸――と順々に、青く光る菱形に覆われていく。全身を鱗に包まれていくようにも見える。
そしてその菱形は、一枚一枚異なる色に変化していく。白、灰、赤、黄、翠、青、紫――同じ系統の色でも、ひとつとて同じものはない。光が織り成す色のすべてを、ここに描いているようだ。雨上がりが起こす、虹のように。
虹色の輝きに、その澄んだ美貌まで包まれて、無機質になった彼女は、唱える。
「来い、我が龍たちよ」
言葉が散った瞬間、彼女の体からいっせいに鱗がはがれる。彼女らから一定の距離を取って、銀河のごとき輝きが大気に浮かぶ。
青玉が面を外し、投げ上げる。その瞬間、絡み合った二匹の龍の周囲に、数百頭の龍が現出した。投げ上げた面を追うように、まるで組紐のようにたがいに絡み合っていく。どの龍からも光が放たれ、あたりを輝きで満たす。
そして龍たちは応龍と白龍をも取り巻き、その光を増していく。光が増すたびに、バラバラだった龍の色が淡くなり、白に近づいていく。
白い光が、二匹を包み込む。玉髄らもその中に内包される。
青玉の手が、玉髄から離れる。その姿が光の中に消える。あらゆる色の光が同化し、白さはますます高まる。
さらに、外から流れ込んでくる力がある。ほかの龍たちの力だ。
『行って』
青玉の声がした。途端、玉髄は外に放り出される。
「――!」
玉髄の目に入ったのは、巨大な白龍――鵬と同等の大きさを持つ龍だった。
(これが……龍師の……いや、青玉の力!)
応龍はその白龍から急速に距離を取る。
それと同時に白龍が動いた。鵬に巻きつく。白い光の体が、紺色の大鳥を締め上げた。
鵬のくちばしが八つに割れた。まるで花が開くようだ。また山を吹き飛ばすか。
「――!」
しかしその前に白龍が動いた。鵬の口を、巨大な口で噛みつき、押さえ込む。その口から放たれようとした力が行き場を失って暴発する。湖岸が大きくえぐれ、落雷よりも凄まじい轟音を上げて土と水を巻き上げる。
そこまでだった。白龍は完全に鵬を押さえた。鵬の翼が止まり、風が弱まる。
その機会を待っていたかのように、応龍――玉髄が動いた。鵬に迫る。
「一角! できるな!」
「やってみせる!」
「よぉし、撃て!」
玉髄が腕を振り上げた。応龍の周囲に、翡翠色の彈が浮かび、鵬を撃った。頭部に着彈し、その体液が蒸発する。
「玉髄、これを!」
一角は琥符を鵬に向かって投げつけた。玉髄がふたたび彈を撃たせ、援護する。
翡翠色の彈が琥符を乗せて、鵬の頭に激突する。鵬が悲鳴のような声を上げた。しかし琥符は落ちずにそこにある。喰い込み始めている。
「よし!」
一角は玉髄から離れ、応龍の上に立ち上がった。玉髄が支える。応龍は空中でとどまり、一角の安定が保たれるように体を水平に伸ばした。
「我が名は一角娘、師は九陽門主・夜光!」
両手を広げ、天地に宣言する。金茶色の髪が風とみずからの霊気で巻き上がる。
「黄帝が琥の術を用いて、ここに妖魅を封ず!」
銀色の額当てが輝く。
「亀足の山が崩れ、東海が埋もり果てるまで、この場所を出ること罷りならぬ!」
見開いた瞳に、決意が浮かぶ。この国の守護者となる覚悟――かつて彼女の師がそうであったように。一角は、その呪文を叫ぶように唱えた。
「封琥!」
鵬の叫びが上がった。
琥符を基点として、黄金の光が幾筋も鵬の全身に回る。翼を束縛し、口を塞ぎ、浮力を封じて湖底に引きずりこむ。水が大波となり、崩れた湖岸の土砂が流れ込む。
「白龍が!」
鵬が沈んでいくのに引きずられるように、白龍もまた湖に沈んでいく。しかし鵬と違い、その体が徐々に霧散していく。純白だった蛇体が、虹色を帯びる。それぞれの龍が、それぞれの色を取り戻し、解けて消えていく。
「……青玉!」
玉髄はその名を呼んだ。
龍はすべて消え去り、彼女の姿はどこにもなかった。
初出:2010年庚寅10月17日
掲載:2016年丙申02月23日