龍吟虎咆 一
西の空に夜が消えようとしている。東から朝が立ち昇ってくる。黄赤色の光が、あたりを染め上げる。夏の熱さをもたらす光が、今日も生まれようとしている。
玉髄は新しい衣に袖を通し、革鎧をつけた。朱色の衣、赤い鎧――馴染みのある、紅龍隊の装備だ。籠手をつけ、剣帯をつける。
一角もまた、新しい衣をまとう。白衣の袖は長く、黒い布で縁取りをしてある。袴は脛当てで絞り、動きやすい格好になる。短い外套をつけ、銀の額当ての結い紐を締める。
「あたしはお師匠様に拾われて育ったんだよね。お師匠様は、こんなあたしでも愛しんで、琥符の術を教えてくれた……」
「ああ。俺のことも、目をかけてくれた……」
玉髄は黙り込んだ。夜光を死なせずに済んだ道があるのではないか――ふとした瞬間に、後悔が押し寄せてくる。責任を感じる。心が重くなる。
「ズゥちゃん」
一角が、玉髄のうしろにまわり、その背にぽんと身を預けた。
「……ズゥちゃん言うな」
「ん、いつもの玉髄だ」
一角の声が笑う。
「強いな、お前は」
「お師匠様のあとを継ぐの。だから」
嫌でも、強くあらなければ。
「おい、準備できたか!」
「はい!」
剛鋭の声に、二人は同時に答えた。
一角は、夜光の亡骸のまえに跪いた。
「お師匠様……行ってきます。お守りください」
一角は夜光の髪から、結い紐を外した。彼の右の鬢をまとめていた紐だ。手早く自分の髪をまとめ、その紐で結う。
「一角」
玉髄は簪を外した。団子にしていた髷がばらけて、ただ根元で結っただけになる。
「これ、持ってろ」
「え、これ……?」
「翡翠も辟邪の力を持っている。お前、武器持ってないから不安で」
「……ありがとう、玉髄」
一角は嬉しそうに簪を握り締めた。金茶色の髪は短すぎて、挿せない。外套の留め金を外すと、その簪で留めた。
そのとき、二人の前に青河が現れた。黙って拱手する。一角が彼女の前に立った。
「お師匠様を、頼みます。奪われるのだけは嫌です」
「……必ず」
青河は短く答えた。それで充分だった。
「王国軍青龍隊、陛下のご命令により参陣!」
「同じく、黒龍隊、白龍隊、参上いたした」
騎龍の数は、四倍ほどに膨れ上がっていた。知らせを受けた王国軍所属の騎龍たちが、援軍として参じたからだ。青、黒、白それぞれの色を基調とした装備で身を固めている。
「まずはあの結界を破ります」
一角が、騎龍たちに宣言した。
阿藍たちが潜む仙槎は、蟠湖に向かっている。その結界は健在で、いまも熱を失わない。
「そののち、あたしと玉髄で琥符を奪取します」
「ちょっと待て」
別の隊の将軍から異論が出る。
「突入するなら、ほかの騎龍もともに行けばいい」
「……お師匠様の、仇なんです。それに、奴らのやり口はあたしと玉髄しか知りません」
「俺が責任を持つ。こいつらの言う通りにしてやってくれ」
剛鋭が言った。
「わかった。剛鋭がそこまで言うなら」
「感謝するぜ。俺たちは支援に当たる。奴らが妖魅を外に繰り出してきたら、容赦なく撃ち落とせ!」
「崩国の妖魅については!?」
「奴が出たら、ともかく全方向から撃て。動きを牽制し、湖より外に出させないようにするんだ。あとは、コイツらが奴を封印する」
「虹家の兵らはいかがいたします?」
「控えだ。普通の人間の軍は役に立たん。数なんて関係ない相手だ」
剛鋭や古参の騎龍は、嫌というほど知っている。
十年前、突如として峰国を襲った大妖魅。王国軍は壊滅的な打撃をこうむった。人がまるで塵芥のように死んだ。それは騎龍の部隊も同じだった。
けれども、結局その戦いを治めたのは――たった二人の男だった。一匹の龍と一枚の琥符。その二つに、この国のすべてが救われた。
「よく聞け! ここで万一、封印に失敗すれば、この国は滅びるだろう!」
剛鋭が声を張り上げた。獅子吼と称される大声だった。
「何としても、この琥師――一角娘を守れ!」
「はっ!」
騎龍たちが、琥師を助けるという。怨恨を忘れ、心がひとつになっている。
この国を守りたい。その何より強い一点だけが、全員の心をつなぐ。
「行くぞ、玉髄!」
「はい!」
龍の群れが、空へと飛び立った。
仙槎は蟠湖の上空に留まっていた。鳴蛇の熱と霊気で形成された結界を張ったまま、空中に浮いている。球体状の結界は、まるで太陽がそこに浮かんでいるかのようだ。
「やはり、彈は吸収されちまって破れないな。どうする?」
玉髄と一角は、剛鋭の龍に乗っていた。
「玉髄、あの結界を視て。もしかしたら、弱い部分がわかるかもしれない」
玉髄は瞳を閉じた。全身の神経を、集中させる。体中の血が眼球に集まるさまを想像する。
そしてカッと見開いた。鳴蛇の生気が見える。結界の上部に、鳴蛇の力が集まっている。
「下だ! 下のあたりは、力が弱い」
一角がうなずく。
「あたしの妖魅で、結界を破ります。少しでも穴があいたら、そこから飛び込んでください」
「わかった」
「琥符を奪取したら、俺の龍で離脱します」
「ああ。だが玉髄、手前の力は三百を数えるほどしか使えない。気をつけろ」
「はい」
玉髄が龍を出していない理由はここだ。彼の力には時間制限がある。
「我が友たる獣、ここに楽しみ来たり遊べ!」
琥符が空中に舞い上がる。黄金の光を放ち、巨大な黒い鳥に変じた。足が三本ある、カラスに似た鳥だ。翼が赤味を帯びた金色に光っている。
「金烏、行って!」
金烏は一声鳴くと、結界に向かって突っ込んだ。玉髄が視た力の薄い場所に激突する。火花が散り、金烏の体が炎に包まれる。
しかし止まらなかった。金烏は炎を得て、その体がますます大きくなる。結界を形成している霊気と熱が、その体に吸収されて歪み出す。
「開いた!」
水泡が弾けるように、結界が消失した。即座に剛鋭の龍が肉薄する。玉髄が一角を抱え、仙槎に向かって飛び降りた。それと同時に、ふたたび結界が張られた。剛鋭の龍がその結界に弾かれ、もんどりうつのが見えた。
「朱将軍……!」
「大丈夫だ、俺たちは俺たちのつとめを果たそう」
「うん!」
仙槎は、白玉だけで形成されていた。大きさはちょっとした屋敷ほどもある。半球状の塞がその上に乗っている。大きな入口には扉がなく、難なく中に入ることができた。
中は一室だけだった。部屋の中央に祭壇が築かれている。その壇に向かって、放射状に階段が続く。壁には無数の琥符が輝いている。これで外の鳴蛇を操っているのだろう。
祭壇には、阿藍の姿があった。隣に遷もいる。青玉は、無造作に床の上に転がされている。
「あら、夜光はどうしたのどうしたの?」
阿藍はまるで、ご機嫌うかがいのように尋ねてきた。
「死んだ」
「何ですって?」
「お師匠様は……琥師・夜光は、死んだ!」
一角は悲しみを振り払うように叫んだ。
阿藍は袖で口元を覆う。まばたきを数瞬しなかった。驚いていたのだろうか。
「そう……死んだの、彼が……フフ、フフフクク。馬鹿な男」
阿藍はやがて、心底おかしそうに笑った。一角は怒りで顔を歪ませる。
「崩国の妖魅が復活する。阿藍、あなたが造った琥符で奴を封印する!」
「封印ですって? そんなもったいないこと、誰がさせるものですか」
「黙れ!」
玉髄が剣を抜いた。
「遷!!」
阿藍の横に控えていた遷が、放たれた矢のように玉髄に斬りかかる。
玉髄もそれを予見していて、真正面から受ける。二人はもつれながら、塞の外へ飛び出した。剣花が散る。相手の足を払う。即座に体勢を立て直す。また切り結ぶ。
「玉髄!」
「一角、俺にかまうな! うしろ!」
一角はうしろから首を絞め上げられる。阿藍の手がかかっていた。
「クゥッ!」
一角はもがく。阿藍の力は信じられないほど強かった。
(はなしてッ!)
一角は胸元から簪を引き抜き、腕を大きく反らせて阿藍の首に突き出した。皮膚に当たる感覚と同時に、突き飛ばされるように解放された。翡翠の簪を取り落とす。
「い、い……」
阿藍の首に、赤い筋がついている。簪でついた傷だ。血が溢れている。
「痛いじゃないのォッ、この小娘があ!」
阿藍は激昂し、ふたたび一角に襲いかかろうとした。
一角はそれをかわし、琥符を取り出す。
「我が友たる獣、ここに楽しみ来たり遊べ!」
琥符が光を放ち、大虎が現出した。鮮やかな金色の毛並みに、黒の縞模様。前脚の付け根の毛は特に長く、まるで翼のようにも見える。牙を剥いて咆哮し、阿藍に対峙する。
「ク……!」
阿藍が我に返ったように歯噛みした。どうやら、琥符がないらしい。おそらくすべて鳴蛇の制御に使ってしまっているのだろう。金虎の威嚇に動くことができず固まっている。
一角はそのスキに、青玉のもとに急いだ。床に横たえられた青玉は、目を閉じたままピクリとも動かない。
「青玉ちゃん、青玉ちゃん!」
何度も呼びかける。青玉の前髪を掻き上げると、額に白いものが喰い込んでいる。玉髄の牙――常人よりも鋭くなった犬歯だ。
「これを抜けば、もしかしたら!」
その牙を指先でつまみ、ゆっくり慎重に抜く。かなり深く、しかもきつく喰い込んでいるらしく、指が何度も滑った。
「抜けた!」
その瞬間、青玉の瞳にカッと光が戻った。ゆるゆると起き上がる。
「一角……? わたし、いったい……?」
「青玉ちゃん!」
一角は思わず、青玉に抱きついた。
「玉髄は?」
「大丈夫、生きてる!」
「夜光殿は……?」
一角はうつむいた。青玉はそれですべてを悟ったようだ。
「――!」
そのとき、阿藍が駆け寄ってきて腕を振り上げた。翡翠の簪を握っている。
「一角、危ない!」
青玉がとっさに腕を上げ、一角を自分のうしろに引っ張り込む。青玉の白い腕に、簪が突き立った。遷の曲刀さえも防いだ皮膚が、翡翠の簪に貫かれている。
「痴れ者めッ!」
青玉が腕を振った。鞭のように阿藍の顔を打つ。阿藍は弾かれたように倒れ、階段を数段落ちた。
青玉は無造作に腕から翡翠を引き抜いた。
阿藍が打たれた頬を押さえて起き上がる。大虎のスキを見て、二人を襲おうとしたのだろう。青玉が間一髪で気づいたが。
「ここを撃たれて、いやなことを思い出してしまった」
青玉は額を指し示す。傷はすでにふさがっているが、小さな痕がある。
「阿藍、あなたは二十年前、わたしを騙して傷つけた」
――かつて、夜光が言っていた。
『龍師に手を出しおった』
その龍師を、青玉は知らないと言った。
「わたしは逃げて、玉仙に助けられたけど、二十年も眠ることになってしまった」
しかしそれは違っていた。二十年の眠りが、彼女の記憶を奪ったのだろう。
青玉が、祭壇の上から何かを手に取った。辟邪獣の面――彼女が玉仙に与え、そして玉髄にも受け継がれた面だった。
「あなたは欲が強すぎる。友を死なせ、妖魅を従え、死者を操り、それで崩国の妖魅も欲する?」
青玉の青い瞳が、まるで氷のように澄み渡っていく。
「崩国の妖魅は死なないといった。ならばそれは、神代より生き残りし者だ。あなた程度の小者に、どうこうできる者じゃない」
青玉がゆっくりと面を顔につけた。
面がパキパキと音を立てて、その縁をまるで木の根のように伸ばしていく。青玉の皮膚にその影が落ち、ぴったりと貼りつく。
面が透けた。額が青く輝いている。璧の輝きだ。青玉の額の中に吸い込まれていく。
「青玉……」
面が外れた。青玉が瞳を開く。いままでとは違う、強い光が宿っている。
「来い、我が龍よ!」
青玉の髪の毛の一部が、彼女から離れた。否、別のものが、青い毛をひるがえしたのだ。
龍が現出していた。純白の鱗におおわれ、その背になびくのは、青色のたてがみ。青玉と同じ、蒼穹のような色の大きな眼。世にも珍しい、二つの体色を持った龍だった。
龍が顎門を開いた。その鳴き声は、女の歌う声に似る。
青玉の瞳が、澄み渡っている。一角も同じだ。
「ひ……」
阿藍は後ずさった。青玉の手が閃いた。阿藍の太腿に、翡翠の簪が突き刺さる。
「ああああああッ!」
「我が眷族を、跪かせたお返し」
「うう……遷! 遷!」
阿藍は頼みの綱を呼ぶ。しかし遷は、玉髄と戦うことに夢中になっている。外で剣の打ち合う音がするばかりだ。
「あ……あ……」
代わりに、一角の大虎がうなりながら阿藍の背後に迫る。
「阿藍! 琥符の術を、解きなさい!」
「なぜ!?」
「玉髄や、遷や、可哀想な妖魅たちを、解放するの!」
「そんなことして、妾に何が残る!?」
阿藍が声を荒げる。
「誰も彼も妾を侮って! 妾は、妾は、この世の王になるんだッ!」
「悲しい女」
青玉が冷たく言い放った。
「あなたの仲間は、妖魅か死者。どうして人の、生者のうちで生きようと思わなかった?」
「黙れ! 龍師なんぞに何がわかる! 逃げたくせに! 妾の計画を邪魔したくせに!」
子供がわがままを言って泣くように、阿藍はわめいた。
「夜光にも逃げられた! もうやだ! どうして皆、邪魔をする!」
「阿藍……もう一度だけ言う。琥符の術を解いて」
「いやだいやだ!」
青玉が大きくため息をついた。
「あなたは、あまりに罪を重ね過ぎた」
青玉は祭壇の上から、金色の箱を取った。
否、箱ではない。琥符だ。玉髄の血を使って創られた、最高の琥符。青玉はそれを一角に持たせる。そして自分はぐっと手を握った。
「あなたが本当に夜光にしようとした方法で、琥符の術を解く」
手を開く。白い牙が転がる。玉髄の牙だった。ピン、と無造作に投げ上げる。
「撃て」
青玉の瞳が氷青色に澄み渡った。
純白の龍の周囲に、青色の霊気が渦巻く。そして一点に集約されて放たれ、牙に当たる。霊気が牙を包み込み、阿藍の額に撃ち込まれる。
そこで終わらなかった。阿藍の首が、青白い炎に包まれた。髪を焼き、皮膚を焼き、助けを求めて開かれた口にも火が入り込む。舌が焼けている。
阿藍の首が焼け落ちると、一角の大虎が襲いかかった。阿藍の体を噛み千切り、破壊していく。ただの死ではない。肉体をバラバラにし、首を落とし、舌も失わせる。
それは不死も、復活さえも許されない、完全なる死を意味していた。
「終わった……」
一角は大虎を琥符に戻す。顔が蒼くなっている。
青玉が彼女を抱き寄せた。
「よく、目を逸らしませんでしたね」
「うん……」
「彼女は、多くの魂を弄び過ぎました。これも当然の報いです」
「うん……うん……」
一角はしゃくり上げる。しかしすぐ両手で目をこすった。
「泣かない。泣いちゃだめ」
壁中の琥符が割れ、床に落ち始める。阿藍の死によって、琥符が無力化したのだ。
そして仙槎全体が揺れた。大きく傾く。白玉の壁にヒビが入っている。
「ここも危ない。脱出しましょう。琥符を持って!」
「で、でも玉髄がまだ!」
玉髄が戦っている。あの死者の戦士、遷と対して。
「大丈夫、勝ちます」
青玉が微笑んだ。何かを確信している。
「もう、彼を痛めつけるものはありませんから」
青玉は自分の龍を呼び寄せ、一角を乗せる。自身も辟邪獣の面を持って、龍にまたがる。
「行って!」
純白の龍は、青いたてがみをなびかせ、仙槎から脱出した。
初出:2010年庚寅10月17日
掲載:2016年丙申02月20日