プロローグ二 悩める狂人 1
この世界には、様々な悲劇がある。
それは大多数の場合、ベヒモスという怪物によって生まれるもの――ではない。
悲劇を生むのは、いつだって人間だ。
どのような変化、革新があろうとも、この星から争いがなくなることはない。
悲しいことに、それが厳然たる事実である。
この地域もまた、人間の性に塗れ続けていた。神の実在が判明し、ベヒモスという名の化物が出現してもなお、ここはなんの変革もなかった。
民族同士が憎しみ合い、互いの土地を我等のものと主張する。
故郷を返せ。そんなナショナリズムが、彼等を人外へと変えてしまう。
けれども、幼き少女ソニアには、そうした道理など理解できない。
彼女は不思議でならなかった。
大人達は他の民族を虫以下の存在だとか、殺さなければならないとか、散々なことを言う。それは両親にしても同じだ。
なぜそんなことを言うのだろう?
彼女の心は疑問で一杯だった。
他民族の子供と遊んだことがある。しかし、彼等を虫以下だとは思えないし、殺さなければならないような存在とも思えない。
彼等と自分達は、一体何が違うというのだろう?
肌の色は同じ褐色だし、喋る言葉も同じだ。食べる物だって変わらないし、見た目にしたって角や尻尾が生えてるわけでもない。
それなのに、大人達はなぜ彼等を憎むのだろう?
一度だけ、その疑問を親にぶつけたことがある。その時、彼等はソニアを殴りつけ、納屋へと閉じ込め折檻した。
結局答えはわからずじまい。ただ、聞いたら痛い思いをするということだけはわかった。だからもう二度と聞かない。
夜眠る時、彼女は他民族の友人を思い、願う。
いつか、誰もが笑い合える時が来ればいいな、と。
しかし――
幼きソニアの無垢な祈りは、暴虐によって踏みにじられた。
ある朝のこと。彼女は大きな音によって目を覚ました。
ダダダダダ、といったおかしな音が、絶え間なく聞こえてくる。
それがなんなのかはわからない。けれども、嫌な音だと直感的に思った。
瞬間、両親が部屋に入ってくる。慌てた様子だった。その顔は、人を不安にさせる色で塗りつぶされている。
親が怒鳴った。逃げるぞ、と。
よくわからないが、父母に従うことにした。
ソニアは華奢な体を起こし、ベッドから降りる。だが、その時点で完全に手遅れだった。
何かが壊れる音。それが家の入口から響いたものと理解した頃、既に侵入者は部屋の前に来ていた。
男の集団である。数は五人。
全員、恐ろしい目をしていた。その視線には、動物を捌く前のような冷たさがある。
集団の一人が父を殴った。
そして倒れこむ父を全員で囲み、踏みつける。
それから、男の一人が言った。
「ここじゃ狭い。連れていくぞ」
彼等は父と母、そして幼き少女を強引に外へと連れて行く。
家から出たことで、ソニアは立ちくらみを感じた。
道にかつて人だったモノが点々と転がっている。
地面は土の色に気持ちの悪い紅が混じり、気持ちの悪いまだら模様となっていた。
目の前にある現実に、ソニアは意図せず涙を流す。
だが、悲劇は始まったばかり。それを証明するかの如く、男が口を開いた。
「やるぞ。お前はこいつを抑えてろ」
集団の一人が、父の体を押さえつける。
父が叫んだ。
「やめてくれ!」
その応答は、暴力であった。
そして、母が髪を引っ張られ、押し倒される。
今度は母が叫んだ。
「娘にだけは! 娘にだけは手を出さないで!」
彼等は母のことも殴った。
何が起きているのかわからない。
男達が、なぜだかズボンを脱ぎ始めた。
彼等が何をしようとしているのか、彼女にはわからない。ただ、痛い思いをするということは、なんとなく理解できた。
だから。
「助けて……」
心底から吐き出された懇願。神への祈り。
その声に、男達は笑った。彼等の目が、その心情を雄弁に物語っている。
助けなど来ない。誰もお前を助けてはくれない。
都合のいい時に現れる救世主など、どこにもいない。
それは彼等にとっての真理。
だが――
“彼”にはそんなもの、関係なかった。
太陽煌く天空に、一筋の黒いラインが引かれる。
続いて突風を巻き起こしながら、彼は激烈に降臨した。
男達の思考を否定するかの如く。世界の道理を捻じ曲げるかの如く。
派手な着地音と共に、砂埃が舞う。
その只中にて、彼の全身に流れる血色のラインが一際強く輝いた。
漆黒の鎧。大きな大きな、恐ろしい形相をした何か。
彼は周囲を見回し――最後に、こちらへ紅い双眸を向けた。
ゆっくり、悠然と近づいてくる。そんな彼に対して、男達は叫ぶ。
「悪魔だ! 悪魔が来た!」
怒鳴りながら、手に持ったそれを構える。次いで、さっきソニアが聞いたダダダダダ、という音が響き渡り、男達の持っている何かから火が出る。
けれど、彼は止まらなかった。
何かがその体に当たっているのか、火花が総身から生まれ続ける。
しかし、それだけだ。
男達の顔が恐怖で歪む。迫り来る鎧の面貌、獣が牙を剥いているかのようなそれを畏れるかのように。
そして、男の一人が宙を舞った。
ソニアが認識できたのは、それだけ。瞬く間に他の物達も叩きのめされ、地面に倒れ伏せる。
これで全てが終わったのだろうか。
そう思い、安堵するソニアだったが――
次から次へと村にやって来る他民族の男達を見て、それはまだ先のことなのだと思い直した。
なれど、さっきまでの苦しい感情は、今の彼女にはない。
ソニアは彼を見つめた。父母もまたそうしながら、呟く。
「あ、悪魔……」
男達と同じことを言う彼等に、ソニアはムッとなる。
だが、彼は何も言うことなく彼女に近寄ると、そっと頭を撫でた。
それから、すぐに男達へと向かっていく。
大人は皆彼を悪魔と呼んだ。
しかし、幼き少女の目には、彼の姿がまっ黒な天使に見えた――
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