第七章 Just the Beginning 3
「――っ! あの馬鹿者め、やはりこうなったか!」
血相を変えて、彼女は浴室へと向かい、乱暴に扉を開ける。
と、その瞳に最悪の状況が飛び込んできた。
悲壮な声で喚き散らす真紅の狼。その視線の先に居る――
両腕を湯船に浸け、体をぐったりとさせた、天馬。
湯は透明、ではなく、黒ずんだ紅に染まっていた。
「この、糞馬鹿垂れがッ!」
怒鳴りながら、香澄は天馬の両脇に腕を挿し入れ、体を引き上げた。
それからすぐ、彼の両手首を確認。かなり深く切り裂かれており、出血が酷い。
「香澄! 頼む! 天馬を、天馬を助けてくれ!」
「言われんでもそうする!」
浴室の床に栗髪の少年を仰向けに寝転がせ、香澄は己の異能、創造を発動。
その力で以て複数の医薬品と治療道具を出現させる。
それらを使って止血を行い、包帯を巻く。
「……脈はまだある。呼吸も止まっていない。おそらく、死にはせんだろう」
これで一安心。だが、この後ベッドに運んで寝かしてやろうとする程、彼女は甘くない。
「おい、馬鹿野郎。起きろ」
冷たい声を飛ばし、天馬の頬を張る。
その一発では目覚めなかったので、再度美貌に張り手をかましてやった。
それを五回繰り返すと。
「ぅ……い、てぇ……」
「それは手首か? それとも頬か? 後者であれば、当然だ。思いきり打ったのでな」
朦朧とした目を向けてくる天馬。しかしすぐに顔を逸らし、ぶつぶつと言葉を漏らす。
「お前が死んじまったと思った時、血の気が引いて、それで……全部、わかったよ。頭が冷たくなったからかな……オレ、ヒーローになんかなれねぇわ。だってオレ、人間でしかねぇんだもん。ヒーローってのは頭のネジが一〇〇本飛んでるような、そんな存在なんだ。でも、オレは違う。ただの人間でしかねぇ。……どっから間違ってたんだろうな。きっと、何もかも間違ってたんだろうな。あぁ、そうだ。義人殺して憎しみ消して、そんで死んだ後親に胸張るとか、あれは大間違いだった。誰か殺して、そんで胸なんか張ったら、母ちゃんにも親父にもぶん殴られちまう。……そんなことすら、オレはわかんなかった。いや、わかろうとしなかった。憎しみを晴らしたい。仇を取りたい。それしか考えてなかった。だから、そう、オレはハナっから信条に反してたんだよ。それも無意識のうちに。……こんなの、ヒーローがすることじゃねぇ。醜い人間がすることだ。だからもう――」
「この世界のヒーローは、誰だ?」
鋭い一声を、弱々しい言葉に割り込ませた。
それに対して、天馬は怪訝な顔をするだけで、何も答えようとしない。
香澄は深く深く息を吐き、彼の栗色の髪を引っ掴んで無理やり上体を起こさせ、顔を近づけた。
鼻同士がぶつかるような距離で、彼女は頼りない弟分の目を睨みながら、言う。
「以前のお前なら即座にこう答えていた。オレがヒーローだ、とな。それがお前の強さを証明していた。あらゆるものに立ち向かう。諦めずに戦い続ける。そんな確固たる意志、信念、心の強さがお前にはあった」
喋り終えると、香澄は彼の髪を乱暴に離した。そのせいか、天馬は上体を床にぶつけ、動かなくなる。
そんな彼を見据えながら黒髪の少女は立ち上がり、
「お前が過去に鬱陶しいぐらい勧めてきた特撮作品。それに登場するヒーロー達の共通点を、お前は理解しているか? お前が好む作品に出てくるヒーロー達はな、皆人間なんだよ。決して完全無欠ではない。どいつもこいつも毎回困難に見舞われ、何度も倒され、その度に苦しむ。しかし、決して立ち向かうことをやめなかった。いつだって立ち上がり、前を見て戦い、勝利した。お前はその姿を自分と重ねてきたんじゃないのか。自分もこうありたいと、そう思い続けてきたんじゃないのか」
美貌の眉間に縦皺を刻み、声に静かな熱を込めながら、言葉を重ねる。
「それが今やどうだ。罪悪感と自己嫌悪に負けて、心が折れて、挙げ句の果てに死という形で逃げようとしている。それは、過去のお前がもっとも嫌ったことだ。……以前、お前は私にこう言ったな。これからオレの体はきっとどんどん壊れていく。でも、どんなことがあったって逃げない。戦うことをやめない。そんで、絶対に本物のヒーローになる。都合良く颯爽と現れて、誰かを救う。そんな存在に、絶対になってみせる。……そう語ったお前のことを、私は心から尊敬していた。ヒーローそのものだと思っていた。だからこそ、今のお前が許せない」
心の内側で沸々と湧き上がる怒気を息に乗せて吐き出すと、香澄は弟分に背を向ける。
そして。
「憧れのヒーロー達、一人一人の顔を想像してみろ。その者達がもし目の前に現れたとして、お前は顔向けできるか? 彼等は虚構でしかない。しかしその虚構は現実よりもなお、お前という人間を育ててくれた存在だ。そんな者達に、今のお前は胸を張れるのか? …………これ以上、私のヒーローを貶めないでくれ」
最後にそう言い残して、黒髪の少女はその場を去った。
倒れ伏せた状態で、天馬は浴室の扉を見つめ続けた。
立ち上がる気力すらない。何もする気になれない。
最愛の家族に叱られても、無気力な心は変化を見せてくれなかった。
そんな彼に、もう一人の自分が声を投げてくる。
「どうすんだよ、お前」
顔を見せながら問うてきた真紅の狼に、天馬は吐き捨てるような調子で返す。
「そんなの、わかんねぇよ」
「はぁ。なっさけねぇ野郎だな。高々一度大失敗したぐれぇでこのザマかよ。オレ様のパートナーは天下一のヒーローだと思ってたが、こりゃ考えを改めるべきかね」
「……うるせぇ」
「あぁん? なんだって?」
「うるせぇんだよ、馬鹿犬」
「ふん。ボロクソ言われて悔しいって思えるだけの気概は残ってんじゃねぇか。それなら上等だ。精々悩みやがれ、馬鹿ヒーロー。……オレ様は、信じてっからな」
そう告げると、相棒は姿を消した。
ヴァルガスと香澄を思いながら、天馬は目を瞑る。
やがてその目尻から雫が溢れ、零れ落ちた。
「……もう、どうしようもねぇんだよ、オレなんか」
自分達の部屋から出た後、香澄はすぐに専用端末で医療班を呼び、天馬の治療を頼んだ。
そうした後、彼女はくたびれたように脱力し、右手の親指と人差し指で両のこめかみを刺激する。
『お疲れ様、と言っておこうか』
「その台詞はまだ早い。義人が残っているからな。あいつも大分面倒な状態になっていそうだ。全く、どいつもこいつも……」
『くふふふ。ヌシの周辺におる男共は皆情けない。だからこそ、ヌシがしっかりしとらんとな。あの馬鹿二人を良い方向に導けるのは、ヌシを置いて他におらぬゆえ』
「普通は逆だろうに。たまには引っ張られてみたいものだ」
やれやれと肩をすくめてから、香澄は隣室へと赴いた。
部屋の前に立ち、一応インターフォンを鳴らす。で、予想通り一〇秒近く待ってもやって来そうにないので、ドアノブを回した。
鍵はかかっていなかったため、扉はすんなりと開かれる。
「邪魔するぞ」
応答を期待しない訪問宣言をしてから、靴を脱いで義人の部屋へと直行。
「入る」
堂々と断言し、ノックなど一切することなく室内へ。
果たして、彼はそこに居た。
ベッドの上で上体を起こし、こちらに濁った瞳を向けている。
まるで待っていたかのような姿勢に、香澄は早速ため息を吐きたくなった。
こっちの馬鹿も、予想通りか。
げんなりとする黒髪の少女をよそに、相手方はこれまた予想通りの言動を行ってきた。
「あぁ、良かった。生きてたんだね白柳さん。いやぁ、本当に良かったよ。これで告白ができるんだから」
そう前置きして、少年は滔々と語り出す。
「僕はね、君のことが好きなんだ。だから、天馬のことが大嫌いだった。殺したくてしょうがなかった。君の家族をね、僕は心の底から憎んでたんだよ。だってあいつ、君のこと思いっきり独占してるんだもの。その他もろもろひっくるめて本当に虫唾が走るようなクソ野郎だと思ってた。でもね、力を得てからは意識が変わったよ。スポーツで圧勝して、組手でボッコボコにしてやって。だから劣等感が消えて、逆にあいつが哀れに感じるようになったんだ。その後は、そうだな、君の気を引くことができた。君と顔を合わせられる毎日は、本当に幸せな日々だったなぁ。あ、特に君と組手した時は最高だったよ。気づいてなかったようだから教えてあげるけど、あれ、僕はわざと負けたんだ。そもそも、あの組手において僕は勝ち負けなんかどうでもよかった。君の体が目当てだったからね。胸もお尻も触り放題、体は押し付け放題、匂いは嗅ぎ放題。こんな最高すぎるイベント、じっくり楽しまなきゃ損じゃないか。その後は君の体の感触を思い出して何度も抜かせてもらったよ。本当に気持ちが良かった。ありがとう。あ、気持ちがいいと言えば、天馬を殺そうとしたあの直前も気持ちが良かったなぁ。君が邪魔さえしなきゃ、今頃――」
言葉の途中、香澄はつかつかと彼に近寄り――握りしめた右拳を顔面目掛けて振るった。
が、その一発は彼に到達する寸前、顔面の前に出現した黒い壁によって防がれる。
鈍い音が室内に広がった直後、義人のすぐ隣に一人の少女が現れ、
「わたしのものに触れるな……!」
邪悪の権化が如き表情で、こちらを睨めつけてきた。
人間離れした可憐な顔立ちだが、宿した怨念のせいで台無しになっている。
その視線は凡庸な者が受ければ全身から汗を噴き出していたことだろう。されど香澄は長い黒髪を掻き上げ、どこ吹く風とばかりに鼻を鳴らすのみ。
そんな態度に少女は盛大な舌打ちを浴びせかけると、その姿を消滅させた。
『極めて厄介な奴がフェアリーをやっているな。想像を絶するような捻じくれ方をしておるぞ、あの小娘』
相棒に同意してから、香澄は義人を凝視する。
「邪魔が入ったけど、まぁ、気にしないでよ。さっきの続きだけど――」
「甘ったれるな、馬鹿者」
少年の発言をぶった切って、彼女は続ける。
「悪印象抱かせるようなことをベラベラと喋り続け、私の怒りを買い、結果として断罪してもらう。そうすれば自分で自分を許せる、か? ふざけるな馬鹿垂れ。私はお前を断罪してはやらんし嫌ってもやらん。望んだ救いなど与えてもらえんと思え」
「……じゃあ、さっきなんで殴ろうとしたのさ? 僕のことが嫌いになったんだろう? 君は僕のことが嫌いになって、気持ち悪いと思って、怒りを感じたから、僕を――」
「私の心をお前が勝手に決めるな。もう黙っていろ。ただ聞いてるだけでいい。次何か喋ったらセカンドになってでも口を止めるぞ」
そう前置いてから、黒髪の少女は言葉を紡ぐ。
「確かに、私は憤っている。腸が煮えくり返るような思いだ。しかしな、それはお前の言葉に惑わされたからではない。お前が弱さに負け、自分の中にある光を闇で曇らせているからだ。つい数日前、お前は私に戦う理由を話したな。あの時、私は確信した。こいつは人類にとって救世主になりうる存在だ、と。決して世界を滅ぼす化物などではない。その心は間違いなく守護者そのもの。我々の同胞として迎え入れるべき人間であると、私は心底思った。だからこそ、命を賭してでもお前を守ると決めたのだ。お前はまだ、自分が何者なのか理解しておらん。いいか、お前の本質は光だ。自分の中にある輝きを見失うな」
少々短く感じるが、しかし、これ以上は不要だ。ここから先、例え万の言葉をぶつけようとも、結末にはなんら影響を及ぼすまい。
どうなるかは全て、義人次第だ。
そう判断したがため、香澄はこう言い残して、部屋を出た。
「私が欲しくば、光の周りを覆う鬱陶しい闇を取り払え。それができたなら、再び思いをぶつけに来るがいい。その時、私はそれに応えよう」
明けぬ夜はない、と人は言う。さりとて、いつ夜明けを迎えるのかは定かでない。
特に、二人の少年が抱えた夜闇は一朝一夕でどうこうなるものではなく――
なれど、運命は残酷にもそれを迎え入れる。
誰彼の事情など構うことなく、最後の日、最後の試練は、粛然と訪れるのであった。
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