ストーカーからのキス
ふっとアイデアが浮かび、推敲前の原文は四時間で書き上げました
『お願いします…このことは絶対に警察にも言いませんから…だから私に付きまとわないでください』
『な、なんで…僕の気持ちを、き、き…君は分かってくれないんだッ!こんなにも愛してしまったというのに…!』
『いやぁッ!!…お願い!離してッ!』
『う、うふふふ…ぼ、僕は君が好きなんだよ!あのキリスト様だって人を愛する事は素晴らしいって教えてくれたじゃあないか!
何で僕を拒むの?…ふふふ、いけないなぁ……君がいけないんだよ…君が美しすぎるからッ!』
『お願いッ!やめてぇぇぇぇぇっ!!!』
『に、二度と逆らわないように…僕が君にッ…罰を与えないとねえええッ!!』
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
自分の悲鳴で跳ね起きる。嫌な夢を見てしまった
シーツを自分で剥ぎ取ったら冷たい朝の空気に肌が晒され一気に覚醒する。周りを見渡すとここは私の部屋だった、間違いない
レインコートに身を包んだ、背の高い痩せ気味の男が伸ばす枯れ枝のような指と汗の臭いがいまだにこびりついて離れない気がする
夢の中なのに夢とは違う、現実の私。男に襲われていない清らかな自分
絶望の女面に歪んだ顔の自分は本当の私ではない。とりあえずはほっと息を吐く
この私、斉藤さつきは傍らにあった携帯電話の電源を入れ、履歴を見る
そこには二十件近く【非通知設定】で着信が入っている。背筋に毛虫の這い回っているような悪寒を覚え、反射的に小さく悲鳴を上げて
携帯を放り投げた。最近の自分は間違いなくストーカーに追われているのだ
帰りの電車。ここ自宅に着くまで気配が追ってきている事が有る。相手は慣れているのか自分に姿を見せる事は無い
雨の日のことだ、一回だけ窓の外から自分の部屋を見上げるレインコートの影を見た事が有る
あれは間違いなく私を見ていたと断言しても良かった。欲望にまみれた歪んだ眼差しはあの時、私を捉えていた
しばらくシーツに包まって彼女は泣いた。此処二年近く、静かな追跡者の存在は私の生活を壊していった
なぜ自分だけがこんな目に遭わないといけないのか?その不条理を恨む、救済を与えない神をも憎む
まだ朝日が昇らない早朝の闇は暗く、光が見えないまま澱んだ群青色で上空を染めたままだ
絶望の夜は明けておらず、希望の光を伴った朝はまだ訪れていない
「どうしたの?さつき」
「せ…先輩!」
会社のオフィス。A4コピー用紙に資料をプリントアウトしているときだった
最近髪を黒く染めたばかりの先輩、市波由里は男にも負けない長身を屈めて心配そうに顔を覗き込んでいる
私は密かに彼女に憧れていた。課長にも物怖じしない堂々とした態度、そして凛とした眼差し
彼女は元暴走族だったらしい噂がある、あくまで噂だ。だが、ガタイの良い男性社員に物怖じせず堂々と物申す様は
現代社会の象徴を表しているようで、名前に反して姉御肌を見せる彼女の存在は他の女性社員からも憧れの存在である
私も入社当時右も左も分からないような状態で、由里先輩には仕事の要領を色々と教えてもらいつつ約三年の付き合いになる
「な、何でもないです」
「何でもなくは無いよ、プリントの位置がずれてるじゃあないか
今のボーッとしたあんたじゃ。そのまま持って行ったら、堅物だけが取り得の村井課長に大目玉食らうところだったよ」
「す、済みません…」
「ああ、ゴメン。言い過ぎちゃったね…でも今のあんたは普通じゃないよ。何かあったんなら相談してもいいんだから」
「由里先輩…」
思わず感情が込み上げてきてじっと、由里の顔を見上げる
ややつり目気味で、顔立ちは整ってはいるものの濃い目のメイクできつい印象がある彼女だが
確かな暖かさと優しさの色を宿した先輩の眼差しは傷ついた私の心を洗ってくれるようで嬉しかった
実の姉同然に慕っている彼女に話したら何か解決してくれるかもしれない。その考えが脳裏を過ぎり、私は考える
「とりあえず、これはアタシがやっとくからあんたはしばらく休みな
今日は定時で帰ってしっかりと休む事だね。無茶をするんじゃないよ」
由里の優しさが篭った言葉に心が動かされる。彼女は本気で自分を心配してくれているのが分かる
入社して間もない頃、飲み会に無理やり出席させられた時、酒に弱かった私は泥酔しており記憶も曖昧でろれつが回らず、タクシーすら呼べなかった思い出がある
その時の彼女を自宅まで連れて行ったのはこの心優しい先輩だ。車内で吐瀉物まで吐いた自分をエスコートしてくれたのである
「由里先輩、実は…」
そう思うと決断は早い。私は最近自分につき纏う気配とよく見る夢の事と
夜中に何十回もかかってくる非通知設定の着信履歴について余すことなく話したのだった
「ごめん…気付いてあげられなくて、あんたに辛い思いさせちゃったね」
「いいんです。こうして先輩に話を聞いてもらっただけでもずいぶんとすっきりしましたから」
事実。何事も話せる知り合いがいるというのはひどく安心感の有る事をさつきは実感した
現に目の前の由里は憤りを隠せないように見える。自分の問題を我が事のように考えてくれる先輩の事が彼女は好きだった
話を聞いている最中、腰まで伸びた黒髪を撫でる由里の手は繊細ながらも精力に満ち足りていて
苦難を乗り越える力を自分に分け与えてくれる母のように力強く、元気を与えてくれた
「あたしがそいつ調べ上げてとっちめてやるよ。そうすればさつきもゆっくり寝られるだろ?」
「でも、そんな事出来るんですか?先輩」
「大丈夫。任せなって!」
そう言ってガッツポーズを決めた彼女の自信に溢れた表情は、私を安心させるのに十分な威力を持っていた
「さつき、大丈夫かい?」
「はい、先輩に色々と話しましたから」
一ヶ月後、先輩にストーカーの事を話してから幾分かは気が楽になっている
事実としてはまだ追われている気がするし、相変わらず夜中にかかってくる非通知履歴は多いが
一人で抱えてきた時よりもかなり心に余裕が生まれたのは確かだった
前のように夢にうなされて跳ね起きるような事は無かったし、睡眠時間も有る程度は回復したのは嬉しい事だ
何より、職場で一番自分が信頼出来る由里と体験が共有できたのは大きいと思う
「この前の件なんなんだけどさ…聞く?」
「まさか!犯人が分かったんですか?」
「まだあたしにも判らないんだな、これが。でも災いの基は断ちたいだろ?
だからさつきに少し協力してもらうんだ。全ては犯人を縄に付ける為に必要なんだ
だから頼みが有るの、今から私が話すことをちゃんと実行してくれない?」
そして由里先輩は私に耳打ちし、【策略】を話すのだった
彼女はあまり乗り気ではなかった。何故なら強引な手段はあまり取らせたくなかったし、下手をすれば由里自身にも被害が及ぶ可能性が有る
「でも、良いんですか?…そんな事」
「大丈夫だって。あたしを信じて」
小さくウインクをする由里先輩は自信に溢れ心強かったが、いくつか不安はあった
ここまで強気に言われれば私だけの問題ではなくなったような気がしたので、首を縦に振るしかなかったのである
「……」
帰宅電車の中、私は新聞に開いた小さな覗き穴から電車の中を見渡していた
普段の自分は新聞なんて殆ど読まない。情報はもっぱらニュースかラジオで得ていたが、たまにファッション誌ついでに週刊誌を購入する事も有る
こうしているのは無論、ストーカーを捕まえるためだった。しかし、私一人でそれが出来るとは思っていない
保険として隣の車内には由里先輩が控えている。彼女は力も強いので大丈夫だろう
私のような女性が何を言っても、相手にしらばっくられたら終わりだ
それに相手は男なのだ!もし、捕らえ損ねれば暴力を伴った逆襲に見舞われるかもしれない
私にとって異性は信用できなかった。女性の発言力や社会的地位はもっと上げるべきだとも思っている
大体、子供を生んで育ててやっているのは女なのだ。男は種を植え付けるだけに過ぎない
仮に近い将来、IPS細胞の研究が進んだらその役割も奪われる未来がくる。そうなれば雄などいよいよ用済みだ
胎内に命を宿す事も出来ない下劣なだけの野蛮人は死滅してしまえば良い
学生時代に受けた虐めと週刊誌の影響。ダメ押しにストーカーを受けた経験が殆どの男性に対する不信感を極限に引き上げていた
これはよく由里先輩が話していた事も混じっている。男性社員に物怖しない先輩ですらも、男は信頼できないと言っているのだから間違いないのだろう
そして時間が過ぎ、私はある男性の姿に視線を留める
(…あれは課長!なんで?)
少し離れた向かい側の席に座り、ハードカバーの本を読む初老の男性。それは私達の上司である村井忠弘だった
彼の事は自分も良く知っている。新入社員の頃、私を厳しく指導した事も
村井は真面目で融通が利かないが、必要な事はきっちりと教えてくれた事ははっきりと覚えている
若い頃には会社の拡大にも貢献したとされ、十年すれば社長になれると噂されている有力者だ
そんな村井課長を男嫌いの先輩は疎ましく思っていたようだが、わたしは尊敬の念を抱いていたのに…
課長には家庭を持ち愛妻家だとも聞いている。そんな村井が何故、私と同じ電車に乗ってこんな場所にいるのか?
(……やっぱり男なんて、誰も信用できない!)
村井は唐突に本を閉じ、携帯を取り出していた。その顔には何故か困惑と動揺の表情が読み取れる
私はようやく悟った。彼は自分が新聞を見て視界が塞がれているのを良い事に、あろう事かカメラで堂々と隠し撮りをしようとしていたのだろう
卑劣かつ下品な村井の本性に吐き気がする。あれだけ尊敬していたのにあの人もまた只のオスだったのか
カメラが自分の方に向けられる、私の中で何か熱いマグマのような激情が膨れ上がっていく
絶対に許せなかった。彼の紳士めいた真面目な風貌も、目を通している経済書も全ては周りを欺くためのフェイクだったのだ
会社の経歴だってきっと詐称したに違いない。裏ではきっと汚い事に手を染め、コネの力でのし上がって来たのだろう
この男を告発する。己の意思で醜いベールを剥いで法の下で裁く
決意を決めた彼女は、先輩の言った通りに新聞を畳み村井の前まで歩いていった。犯人を釣る為だ
「君は…斉藤君、いったいどうしたんだ」
村井は私の姿を見てあからさまに動揺した。私の中の知性が告げる、間違いなくこの男が犯人である可能性は極めて高いと
私は犯罪者に死刑を言い渡す裁判長になった気持ちで上司に言う。言葉は澱みなく口から滑り出てきたのが不思議だった
「貴方がストーカーの犯人だったんですね」
「何を言っている?馬鹿な…根拠があって言っているのかね?」
村井は弁解するがこの言い草を私は知っている。追い詰められた犯人による責任逃れだ、ドラマや映画で見たようにワンパターンな台詞だった
そして、この男は私の姿を認めてあからさまに携帯を隠したのだ
それが私にとっての全てだった。状況証拠だけでこの男は間違いなく犯人だと断言できる
普通に考えてストーカーの対象にいきなり、それもこんな衆人環視の中で詰め寄られたら誰だって冷静を失うに決まっている
絶対に村井の仮面を剥がしてやる。決意し、弾劾の口調は更に強くなる
「私の知る限りでは貴方はこの列車に乗らない、マイカー通勤だったはずですよ
それに何で隠した携帯、疚しい事が無ければ見せてもらえますよね?」
「何を馬鹿な、私は息子への誕生日プレゼントを買いに言っただけだ。根拠の無い言いがかりはよしてもらおうか!」
冷静さを幾分か取り戻した村井が言う。大したポーカーフェイスだ、自分の子息までも言い訳に使うとは何処までも卑劣
しかし、この男は愚かにも下劣な本性を現している。私の気分は犯人の偽証を次々と暴くドラマの私立探偵そのもので爽快感すら伴っていた
そんな事があろうともこの男の悪事は必ず暴く、逃がすような事はしない
「貴方がいくら言い訳を並べ立てても、周囲の人達は納得するでしょうか?
みんな女である私に味方すると思いますよ。これ以上騒がれたくなかったら携帯を見せれば済む事です。さあ、早くしてください」
「く…分かった。話を聞こう、少し待ってもらえないか?」
村井は観念したようだった。勝利の喜びが胸の中に湧き上がる
この男の人生は終わりだ。確信した瞬間、麻薬のような甘美な感覚が私を支配した
他人の罪を暴くというのはどうしてこうも甘美をなのだろうか?それは私にも味わえる極上の美酒だった
村井はゆっくりと携帯を取り出す。遅々としたその動作が時間稼ぎに思え、ひどく苛立ちを煽る
その証拠に彼はまだ諦めてはいないようだった。その証拠に列車が止まりドアが開くとこの男は素早く立ち上がり走ったからだ
ドアに向かって彼は駆ける。一歩遅れて私も駅に飛び出すが、若い頃に運動していたのか初老とは思えない足の速さで徐々に距離を開いてゆく
何故か、走れメロスを思い出した、止まれば命運が尽きる命のマラソン
私は走る。逃げるあの男を突き出し牢屋に監禁しなければ、報復を食らうのは必死なのだ
しかし、冷めた空気が脳を少し覚まさせる。社会的地位があり妻子を養う人間がそこまでしてリスクが潜む行動を行うのか?…と
私の横をあっという間に追い抜く影は速い、圧倒的だ。あの男よりも俊敏な走りはまるで風のようだった
彼女の正体を知る私は思わず歓声を上げてしまう。先輩はこの地球上で何よりも信用できる味方なのだから
「先輩!」
村井は追いつかれ、立ち止まっていた。逃げられるはずも無いだろう
前方には由里先輩。後方には私が追いついているのだからいくら村井の体力が残っていても、二十代の女性二人に囲まれては無理だろう
「大人しく自首したほうがいいよ。村井さん」
「何の事だ!私は知らない。市波君の方からも斉藤君に何か言ってくれ!」
不敵に笑う由里先輩は村井の手に握られたままだった携帯を掴もうとする。身を捻ってかわそうとする彼だったが
先輩によって腹に一撃打ち込まれ、うめき声を上げながら崩れ落ちる
膝を折って崩れ落ちる村井から強引に携帯を奪い、由里先輩は画面を私に見せた
「さつき。こいつはね、こんな物を撮ってたんだ」
「これは…」
私は驚愕した。なんとそれは例の飲み会で私が酔いつぶれたときの写真だったのだ!
服は胸元をはだけ、太ももを剥き出しにして上気した頬で真っ赤に染まっている自分の画像
それは自分で見ても嫌らしく、どこぞの三流週刊誌に掲載されているような卑猥な姿に見えて恥ずかしい
紛れも無く誰にも見せたい格好ではなかった。恥ずかしさで顔が熱くなる
「違う。それはさっき―――」
必死に抗弁しようとした村井の側頭部に先輩はダメ押しと言わんばかりの滑らかな蹴りを叩き込む
「往生際が悪いよ課長。いや…今は村井容疑者だったかな?」
豹のような眼光で課長を見下ろす由里先輩の瞳はまるで汚物を見るかのように冷酷な光を放っていた
私のなかに疑問が湧き上がる、彼の表情は必死で自分の罪を認めようとはしていない誠実な光が宿っている
何かがおかしい、しかしそれは些細な疑問だ。この男を社会的に抹殺できれば全ては解決するのだと信じるしかない
「頼む…金はいくらでも払う……私がいなければ息子が…妻が…が……」
「さつき、あんたは早く駅員さん呼びな。この薄汚い犯罪者はあたしが見張っとくからさ」
縋るような村井課長の必死の訴えを黙殺し、無常に切り捨てるように先輩は鋭く私に告げた
「…分かりました。先輩」
私は考える事を止めて。駅員を呼びに一歩踏み出す。背後から課長のすすり泣きの声が聞こえて心を揺らす
微かな罪悪感から恐怖に染まった男面を振り返らないようにして私は再び走った
これで全てが終わる。穏やかな日常が戻ってくると信じていたかったから
「さぁ、さつきの新しい門出を祝って乾杯!」
「乾杯…」
二年近く私を悩ましてきたストーカーを捕まえて二日後の金曜日だというのに、心が晴れる事は無い
先輩の行きつけのバー【Despair】店内のクラシック調の音楽が響く中でカクテルの入ったグラスを揺らすと、自分の浮かない顔が鏡のように酒の水面に映る
由里先輩は私の祝杯だといって自分のおごりでここに連れてきてくれたのだ。本来ならば好意に甘え、喜んだほうはいいかもしれない
しかしどうにも引っかかるのだ。未だに村井課長の啜り泣きの声が耳に残っている
あの人はストーカーで私は被害者。客観的に見ても非があるのはあの人の方だ、証拠もある。だが―――
『違う。それはさっき――――』
彼はあの時何を言おうとしたのだろう?それが気になって私は聞いてみる事にする
「先輩。一ついいですか?」
「何、さつき?」
由里先輩はにっこりと微笑を浮かべる。この人はカクテルとはいえ私の何杯もグラスを呷っている筈なのに全く酔った様子が見えない
酒に強い人なのだろう。私は二杯飲んだだけで顔が真っ赤になっているというのに
「あの人は最後に何を言おうとしてたんでしょう?」
「…犯罪者特有の言い訳さ」
ふふ…と先輩は妖しげに微笑む。彼女の全身から溢れる猛烈な色気に私は惑わせられる
この人は凄くボーイッシュで姉御肌だけどスタイルは抜群だし、心身ともに本当に自立した大人の女性なんだなと思う
それとも私が酔っているだけなのか?真相は分からない
「さつき、もっと飲みなよ。明日は休日だよ」
「済みません。奢って貰っているのに…今日はあまりそういう気分じゃないんです」
「いいから早く飲んじゃいな。酔って楽になったほうがいいよ…後は私が何とかするから」
先輩はいきなり私にグロスの塗られた口を押し付けてくる。戸惑ったまま唐突なキスを受けてしまい
私の口の中に何かが流し込まれた。このきつい匂いは水割りしていないお酒だ、吸い付いてくる唇に抵抗できないまま眠気が増していく
獣のように貪欲な口付けとお酒は私の意識を闇の彼方へと引き釣り込もうとしていた
その反面、由里の舌が自分の口内を這い回り、その動きが、脳内物質を刺激し信号が強烈な刺激を与えて幸せな気分にさせる
(あれ…この感じ?どこかで…?)
頭の片隅で疑問が明滅するも、吸い込まれてゆく意識の中では考察を許される時間はあまりにも微小だった
「う……ん」
暗闇の中、目が覚めた。自分が酔っている事は自覚できる、頭が重い。頭痛が痛い
ここは自分の部屋なのだろうか?送ってもらったとしたら由里先輩にまた迷惑をかけてしまった事になる
あれしきのお酒で潰れてしまうなんて情け無い。これでは再びあそこに行くたびに酔ってしまうのでは彼女に迷惑がかかる
普段から鍛えて置かなければならない。プライベートでもチューハイ位は毎日飲めるようにしておこう
とりあえず明日から休日だ。まずはゆっくり寝て、アルコールを体から抜いて…
「気が付いた?」
由里先輩の声が聞こえた。なぜだろう?ああそうか自分が酔っているからだ。あはは…
白い光が部屋に満ちる。周りの光景を見てようやく気付く、ここは自分のマンションの部屋ではないと
そして壁を見て目を剥いた。部屋一面に貼り付けられたもの…それは私の写真だった
見覚えの有るものもある。村井課長が持っていたものも…それだけではない。様々なアングルから写された私のあられの無い姿の数百枚はあろうかという画像…
「もう起きたの?意外と早いね」
酔いは一気に覚め、私は状況を理解した。ストーカーは村井課長ではなくこの人だったのだ
由里先輩は課長の携帯の中身をあらかじめ知っていた…いや、メールに画像を貼り付け送りつけたのだろう
恐らくその瞬間を私は見ていた。受信したのは恐らく着信に気付いた彼が本を置き、画面を確認して動揺した少し前だったのだろう。それを私はたまたま自分に携帯が向けられてしまったので勘違いしてしまった
私が村井課長に気付くタイミングを隣の車両から観察し、好機を見計らって送信したはずだ。蛇の様に狡猾で邪悪な企みである
しかし、思考が追いつかない。何故彼女がそんな事をするのか分からない…動機が掴めない
「先輩……なんで?」
顔を上げようとして体が自由にならないことに気付く
「あんたが好きだったの。それにあの男は気付き、あたしに注意してきたんだ」
「騙したんですね…無罪だったのに」
「騙されるほうが悪いのよ。世の中ってそういうものじゃない?嘗てのあたしもそうだったのだから」
そう言って彼女は遠い過去を見るように目を細めた。過去に何があったのか知らない
ただ、この人は自分の為に他人を巻き添えにしたのだ。私の事はともかく、赦されるべきじゃない
この女、市波由里は彼女が忌み嫌っている男性を批判する権利も無い程の、只の他人を巻き込む悪党だと確信する
彼女の主張に耳を貸すべきじゃなかった。お人好しを装った偽善の仮面を信じるべきではなかった
性別問わず、屑な人間は屑なのだともっと早く気付くべきだった。しかし、全ては遅い
「自首してください。そして村井さんの無罪を証明して…」
「ああ…あんたのそういう純粋な所…すっごく好きよ。はぁ…蕩けてしまいそう…
あたしの罪を暴きたいのならやってみれば?まぁ、出来ないでしょうけどね」
すっかり上気した顔で由里は両手を広げる。部屋中に張り付かれた写真を見せ付けるように
それを見て私は彼女の言おうとしている事が分かった。つまるところ脅迫なのだ、これは
「ごめんなさい。例の飲み会のとき酔い潰れた貴女があまりにも可愛くて、子猫のようだったから此処に連れて来て――――――
………しちゃった。さつきは気付かなかったけどね、あの日から貴女の存在に私は心奪われたのよ
あんたかわいいけど天然だから、たぶんあれが始めてだったのね。汚い男に奪われる前に味わえて良かった…とても、美味しかったわ」
「そんな…」
「でももうあたし達は一心同体。そうでしょう?同じ罪を背負った仲間同士ですもの…
邪魔者が消えたこれから貴女は私の奴隷…だって此処にあるもの全部同じものが私のパソコンや携帯の中に残っているのだから
そのデータを全て消去しない限り、さつきはあたしの言う事を何でも受け入れるしか無いの」
彼女は自分の唇を舐めた後、妖艶な笑みを浮かべつつ私に再びキスをした。それで口を無理やり開き、その中に舌を捻じ込み口中を掻き回しつつ舌を絡めて行く。優しさの欠片も介入しない獣の様に獰猛で貪るようなくちづけを
由里の本性を見抜けなかったのは迂闊だった。人前で酔いつぶれてはいけないと母さんにあそこまで注意されていたのに…
絶望に染まっていく私は再度思う。こんな形でしか人を愛せない市波由里が尤も惨めで哀れな存在であると
そして、彼女のような人間の屑の奴隷に成り下がってしまった私は、更に愚かであると彼女に弄ばれる苦痛と快楽の中で認めるしかなく、悔しさに胸を焦がす
恐怖と絶望に彩られた夜は明けるどころか…今、始まったばかりだということに私はようやく気付いた
今年の終わりに近づき、寒くなってきましたね。短編ですが久しぶりの新作です、楽しめていただけたでしょうか?
実を言うとこの話はプロットも無しで推敲含め六時間程度でさっさと書き上げた物です。題材と構成の密度感を考えたら連載にしても良かったのですが、救いようの無い話なのでモチベーションが下がる前に一気に書き上げました
正直な所書き始めた当初は本当に男性を犯人にするつもりだったのですが、短編でそれだと意外性が薄くインパクトに弱い感じがして性別を変えました
冒頭のストーカーはさつきの夢の中の妄想であり推理小説おなじみのミスリードです。すみません(笑)
ぶっちゃけある人物の苗字を訓読みにすればネタバレなのと、途中に色々とヒントを残しておいたので勘の鋭い方は途中でストーカーの正体に気付いたと思います
割と複線が入っているので読み終えた後、もう一度じっくり目を通して頂けると新たな発見があるかもしれません(本音・アクセス数が欲しい)
他にも色々と自分勝手な主張と、あるゲームに関するタイムリーな小ネタをいくつか入れさせていただきました。判る人は「ああ、そういう事か!」とニヤリとするでしょうし、気付かなくても話を楽しんで戴くには全く問題ないギミックです
今作は短い分量の中にしっかりと起承転結を入れられたのでかなり満足度の高い作品です。連載だとどうしても時間がかかり、間延びや矛盾が出てきてしまうので書き手としても楽ですからね
まあ、正直短い時間で書き終えたので後から見ると色々と粗があると思います
感想・評価も大歓迎です。超マイナー作家ですので…
勿論、新作の連載物もきっかり準備しております。計三つ書いているのですがうち二つ中の一つは早ければ今年中に公開できるかもしれません
それではまた、機会がありましたら会いましょう!