第7話:公安の女刑事と、鉄壁の「ダメ人間」アリバイ
平日の昼下がり。 それはニートにとって、社会の喧騒から切り離された最も安らかな時間帯だ。 俺、佐藤悟はベランダで日光浴をしながら、のんびりとあくびを噛み殺していた。
「……平和だ」
昨日の商店街の騒動が嘘のようだ。 世界の危機もいいが、今の俺には「今日の昼飯をカップ麺にするか、袋麺にするか」の方が重大な問題である。
だが、俺の野生の勘(という名の被害妄想)が、不穏な気配を感知した。 アパートの下から、コツ、コツ、という鋭いヒールの音が近づいてくる。 大家のアリスではない。彼女ならレッドカーペットを敷かせるし、もっと騒がしい。 この足音は、規律正しく、冷徹で、そして躊躇いがない。
(……集金か? いや、NHKにしては殺気が強すぎる)
ピンポーン。 インターホンが鳴る。 俺は忍び足でドアに近づき、魚眼レンズのドアスコープを覗き込んだ。
そこにいたのは、スーツに身を包んだ長身の美女だった。 キリッとした目元、後ろで束ねた黒髪、そして胸元には――チラリと見える警察手帳のようなもの。
(……公安!?)
俺は心臓が止まるかと思った。 ついに来たか。商店街の件で足がついたか? それとも過去のハッキングか? 逃げるか? いや、今ベランダから飛び降りても、下には張り込みがいるかもしれない。
「佐藤悟さん。いらっしゃるのは分かっています。警察です。少しお話を」
凛とした声が響く。 居留守は通用しないタイプだ。 俺は覚悟を決め、深呼吸をしてからドアを開けた。
「……はい、どちら様でしょう? セールスならお断りですが」 「警視庁公安部の氷室です」
女性――**氷室冴子**は、鋭い眼光で俺を見下ろした。 その視線は、俺のジャージ姿から、奥の散らかった部屋、そしてPCモニターまでを瞬時にスキャンする。
「単刀直入に伺います。あなた、ハンドルネーム『Unknown』をご存じですね?」
直球すぎる。 俺は心拍数を一定に保ちながら、首を傾げた。
「アンノウン? えっと、新しいアイドルの名前ですか?」 「とぼけないでください。昨日、この周辺から高度なハッキングの痕跡が検出されました。発信源を逆探知した結果、このアパートが浮上したのです」
氷室刑事は、一歩足を踏み入れてくる。威圧感がすごい。
「佐藤悟。経歴は……高校卒業後、職を転々とし、現在は無職。しかし、あなたのPCの消費電力は一般家庭の十倍近い。ただのニートにしては、装備が過剰ではありませんか?」
鋭い。 言い逃れできない証拠はないが、状況証拠(と俺の怪しさ)だけで詰めに来ている。 このまま署までご同行願われて、PCを押収されたら一巻の終わりだ。
その時だった。
「ただいまー! お兄ちゃん、お腹すいたー!」
ドタドタドタッ! 階段を駆け上がってくる足音。 学校が終わったらしい結衣が、いつものように飛び込んできた。 さらにその後ろから、「今日は私の奢りよ!」とアリス、「また新しいコード書いたから見せなさいよ」と未羽まで続いてくる。
三人のJSが、玄関で固まっている氷室刑事を見て立ち止まった。
「……誰? この人」 未羽が警戒心を露わにする。
氷室刑事は少し驚いたように彼女たちを見たが、すぐに職業的な表情に戻った。
「私は警察の者です。彼に少し事情を……」 「警察!?」
結衣が叫んだ。そして、俺の前に立ちはだかり、両手を広げた。
「ダメです! サトルお兄ちゃんを連れて行かないで!」 「ま、待ちたまえお嬢ちゃん。私は別に彼を逮捕しに来たわけでは……」 「だって! お兄ちゃんは何もできないんです!」
結衣の必死の訴えが始まった。
「お兄ちゃんはね、一人じゃ朝も起きられないし、ゴミの分別もできないし、靴紐だって私が結んであげないと転んじゃうようなダメ人間なんです! そんな人が、悪いことなんてできるわけありません!」
……結衣ちゃん? 擁護してくれてるのは嬉しいけど、俺の社会的評価がマイナス方向に限界突破してる気がするんだが?
氷室刑事が少し毒気を抜かれた顔になる。 「い、いや、しかし彼は高度なPCスキルを……」
「プッ」 アリスが鼻で笑った。
「刑事さん、買いかぶりすぎよ。この男は私の『ペット』兼『おもちゃ』よ。PCなんて、ただのゲーム機に過ぎないわ」 「ペット……?」 「ええ。私が恵んであげるお小遣いで課金して、私が暇な時に対戦相手をさせるだけの存在。そんな甲斐性なしに、国家を揺るがすハッキングなんて無理に決まってるじゃない」
アリスの援護射撃(フレンドリーファイア付き)だ。 さらに未羽が、トドメとばかりに前に出る。
「そうだよ。コイツのPC、ボクが組んであげたやつだし。中身はエロゲーとレトロゲームのエミュレーターばっかり。セキュリティなんてザルだよ。ねー、サトル?」
未羽がニヤリと俺に目配せする。 『話を合わせろ』という合図だ。
俺はプライドを捨て、最大限に情けない顔を作った。
「あ、あはは……そうなんです刑事さん。俺、この子たちに遊んでもらってるだけで……。ハッキングなんて、怖くてとてもとても」
氷室刑事は、俺と三人の少女を交互に見た。 「生活力のないダメ男」 「それを世話する小学生」 「金で飼っているお嬢様」 「PCの師匠をしている子供」
その奇妙すぎる構図を前に、彼女の「公安のプロ」としての理性が揺らいだらしい。
「……そ、そうか。私の勘違い……だったのか?」
氷室刑事は眉間を押さえた。 伝説のハッカー『Unknown』の正体が、こんな小学生に養われているヒモ男だとは、常識的に考えて信じたくないのだろう。
「……失礼しました。どうやら、誤報だったようです」
彼女は手帳をしまった。 しかし、帰り際に鋭い視線を俺に残す。
「ですが、一応マークはしておきます。最近、この付近で不審な通信が多いのは事実ですから。……あと、未成年との付き合い方には気をつけなさい。事案になりますよ」 「は、はい! 肝に銘じます!」
氷室刑事は、カツカツとヒールを鳴らして去っていこうとした。 が、アパートの階段の一段目で、ツルッと足を滑らせた。
「きゃっ!」
ガタガタガタッ! 派手な音を立てて、数段滑り落ちるエリート刑事。
「……い、痛くない! なんでもない!」
彼女は真っ赤な顔でスクッと立ち上がり、逃げるように去っていった。 ……どうやら、かなりのドジっ子らしい。
嵐が過ぎ去った後。 俺たちは顔を見合わせ、ドッと疲れを吐き出した。
「……助かったよ、みんな」 「もう! お兄ちゃんがだらしないからだよ!」 「お礼は『天使のプリン』でいいわよ」 「ボクには新しいグラフィックボードね」
少女たちは当然のように対価を要求してくる。 俺は苦笑しながら、去っていった刑事の背中を思い浮かべた。
(氷室冴子……か。厄介なのが来たな)
彼女は諦めていないだろう。 ドジっ子だが、あの目は本物だ。俺が少しでもボロを出せば、今度こそ逃がさないはずだ。
俺のニート生活は、綱渡りの様相を呈してきた。 しかし、目の前で「今日の夕飯はカレーね!」と笑う結衣たちの姿がある限り、そう簡単に捕まるわけにはいかない。
「よし! 今日は祝いだ! 俺の秘蔵の高級レトルトカレーを開放する!」 「「「やったー!」」」
アパートに平和な歓声が響く。 だが、その裏で。 氷室刑事の報告書が、警視庁の上層部へ提出されようとしていた。 そして、その報告書を見たある人物が、不気味な笑みを浮かべることになるのだが――それはまた、別のお話。




