第47話:普通の女の子の価値と、東京全域ハッキング
白い部屋。 窓はなく、あるのは座り心地の良さそうなソファと、低いテーブルだけ。
「……紅茶はいかがかな?」
老紳士が優雅にティーカップを差し出した。 結衣は膝の上で拳を握りしめ、首を横に振った。
「……帰り、たいです」 「帰る? どこへ?」
紳士は穏やかに微笑んだ。
「君があの部屋に戻れば、佐藤悟はまた『弱点』を抱えることになる。世界最強のハッカーが、君ひとり守るために神経をすり減らし、判断を誤る。……それは世界の損失だとは思わないかね?」
結衣は唇を噛んだ。 反論できなかった。 北極での戦い。自分はお荷物だった。みんなが戦っている間、震えていることしかできなかった。
「君は優しい子だ。だからこそ、身を引くべきだ」
紳士はテーブルの上に、一冊のパスポートと航空券を置いた。
「新しい名前と、新しい人生を用意した。行き先はスイスの全寮制学校。そこで平和に暮らしなさい。……佐藤悟のことは、きれいさっぱり忘れてね」
それは、悪魔の囁きだった。 自分さえいなくなれば、お兄ちゃんはもっと自由に、もっと強くなれる。 結衣の手が、震えながらパスポートへと伸びる。
***
一方、メゾン・ド・サトウ。 部屋の空気は凍りついていた。
「……クソッ! 見つからねぇ!」
俺、佐藤悟はPCデスクを拳で叩いた。 モニターには、東京中の防犯カメラの映像が何百枚も表示されている。
未羽が隣でキーボードを叩きながら、悲痛な声を上げる。 「ダメ……。結衣お姉ちゃんを乗せた車、Nシステム(車両ナンバー読み取り装置)を避けてる。完全にプロの手口よ」
セツナが窓際で鼻を鳴らす。 「……雨の匂い。雨が降れば、匂いも消える。追跡不能になる」 彼女の野生の勘も、都会の雑踏と悪天候には分が悪い。
アリスが腕を組んで壁に寄りかかっていた。 「警察、探偵、西園寺家の情報網……全部動かしたわ。でも、神隠しにでも遭ったみたいに痕跡がない」
俺は椅子に深く沈み込んだ。 部屋の中を見渡す。 キッチンには、結衣が使いかけたボウル。 ソファには、彼女が畳んだ洗濯物。 この部屋の空気の全てが、結衣で構成されていたことに、今更ながら気づかされる。
「……私のせいかも」 未羽がポツリと言った。 「ボクたちが才能の話ばかりしてたから……お姉ちゃん、寂しそうだった」
「……私も」 アリスが俯く。 「『普通』であることがどれだけ尊いか、私たちが忘れすぎていたわ」
俺は顔を上げた。 そうだ。あいつは「普通」だ。 だからこそ、俺たちみたいなイカれた天才たちのブレーキになり、帰る場所になってくれていた。
「……俺には、結衣が必要だ」
俺はPCに向き直った。 目つきが変わる。ニートの目は消え、かつて世界を震え上がらせた『Unknown』の目が戻る。
「未羽。都内の全信号機、全コンビニの防犯カメラ、全ドライブレコーダー……利用可能な全てのレンズにハッキングをかけろ」 「えっ!? そんなことしたら、サーバーがパンクするわよ!?」 「構わん。俺のPCの全リソースを使う。アリス、西園寺家のスパコンも貸せ」 「……ふふ。いいわよ。ぶっ壊れても請求しないであげる」
俺はキーボードを叩き始めた。 倫理規定? 法律? 知ったことか。 結衣を泣かせる奴がいるなら、俺は東京という街そのものをひっくり返してでも見つけ出す。
カチャカチャカチャカチャッ!!! 超高速のタイピング音が部屋に響く。
モニター上の映像が次々と切り替わる。 路地裏、地下駐車場、高速道路の非常口。 AIによる画像認識が、結衣の特徴――『背格好』『髪型』そして『商店街のレジ袋』を探し回る。
「……見つけた」
俺の手が止まった。 一枚の不鮮明な画像。 一時間前。港区の湾岸エリアにある、会員制の高級メディカルセンターの裏口。 そこに吸い込まれていく黒塗りの車と、一瞬だけ映った、うなだれる少女の姿。
「ここだ。『聖・マリアンヌ療養所』。……表向きは富裕層向けの保養所だが、裏では要人の『身元洗浄』を行っている施設だ」
俺は立ち上がった。 椅子が倒れる。
「行くぞ。……結衣の作ったカレーが腐る前に連れ戻す」
「……了解。敵は全員、骨を折る」 セツナが手袋を締め直す。
「ボクがセキュリティを全部ダウンさせてあげる」 未羽がタブレットを構える。
「車は回してあるわ。……さあ、家族を取り戻しに行くわよ」 アリスが先頭に立って歩き出す。
俺たちは部屋を飛び出した。 Original Sevenなんていらない。 俺たち四人――「チーム・サトウ」がいれば、どんな要塞だろうと陥落させてやる。
外は冷たい雨が降り始めていた。 待ってろ、結衣。 お前がいないと、飯が不味くてしょうがないんだ。




