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住所不定無職、佐藤悟(28)。実は世界を救う伝説のハッカーですが、隣の女子小学生(10)に餌付けされて生きてます  作者: RIU


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第46話:エプロンの天使と、見えない「壁」

世界の危機が去ってから、二週間。  メゾン・ド・サトウ、203号室には、かつてない平和な朝が訪れていた。


 トントントン……。  キッチンから、小気味よい包丁の音が聞こえる。  漂ってくる味噌汁の香り。炊きたてのご飯の匂い。


「……んぅ」  俺、佐藤悟は幸せな微睡みの中で目を覚ました。  隣の布団ではセツナが丸まって寝ている。


「お兄ちゃん、朝だよ。起きて」


 襖が開き、エプロン姿の佐倉結衣が顔を出した。  朝日を背に浴びたその姿は、まさに天使。……のはずだが、今日の彼女はどこか元気がなかった。


「……おはよ、結衣。どうした? 顔色が悪いぞ」 「え? ううん、なんでもないよ! ご飯できてるから、顔洗ってきて!」


 結衣は努めて明るく振る舞い、パタパタと去っていった。  俺は少しの違和感を覚えながらも、洗面所へと向かった。


 食卓には、完璧な和食が並んでいた。  だが、食事中の会話は弾まなかった。


「……ねえ、未羽ちゃん。今度、新しいプログラム教えてくれる?」 「いいけど……結衣お姉ちゃんには難しすぎるかも。量子演算の基礎からやらないと」  未羽がタブレットを見ながら悪気なく言う。


「……セツナちゃんは、今日もトレーニング?」 「ん。マスターを守るため、もっと強くなる。コンクリートを素手で砕く練習」  セツナが真顔で答える。


「アリスちゃんは……」 「私は忙しいわよ。株価の変動が激しいから、資産運用を見直さないと」


 結衣は「そっか……」と小さく呟き、箸を止めた。  彼女の目には、寂しさと、焦りのような色が浮かんでいた。


 天才ハッカー。  最強の生体兵器。  大財閥の令嬢。  そして、世界を救った伝説の男。


 この部屋にいる全員が「特別」な人間だ。  たった一人、結衣を除いて。


 ***


 その日の午後。  俺たちがそれぞれの「特別な」用事で出払っている間、結衣は一人で商店街を歩いていた。


 買い物かごには、特売の野菜。  彼女の日常は、平和で、ありふれていて、そして――


「……私だけ、置いてけぼりだな」


 公園のベンチで、結衣はポツリと呟いた。  北極での戦い。彼女は何もできなかった。  ただ守られ、震えていただけ。  お兄ちゃんの役に立ちたい。隣に並んで歩きたい。でも、自分には何の才能もない。


「お悩みかな? お嬢さん」


 ふと、声をかけられた。  顔を上げると、優しそうな老紳士が立っていた。  仕立ての良いスーツに、ステッキ。穏やかな笑顔。


「あ、はい……ちょっと考え事を」 「ふむ。その顔は……『自分には価値がない』と思っている顔だね」


 図星だった。結衣はドキッとして顔を伏せる。


「君は、佐藤悟くんの……大切な『家族』だね?」 「えっ!? お兄ちゃんを知ってるんですか?」


 紳士はニコリと笑った。


「有名人だからね。……私は思うんだよ。彼のような『怪物』を繋ぎ止めているのは、君のような『普通』の存在だと」 「私が……お兄ちゃんを?」


「そうとも。だが……逆に言えば、君さえいなければ、彼はもっと自由になれるのかもしれないね」


 紳士の言葉に、棘が含まれ始めた。


「君は彼の弱点だ。君がいる限り、彼は狙われ続ける。君を守るために、彼は傷つき続ける」


 結衣の顔から血の気が引いた。  それは、彼女が一番恐れていたことだった。  自分のせいで、お兄ちゃんが危険な目に遭う。自分が足手まといになる。


「……どうすればいいんですか」 「簡単さ。……君が消えればいい」


 紳士がポケットから一枚のカードを取り出し、結衣に渡した。  そこには、地図と時間だけが書かれていた。


「今夜ここに来なさい。そうすれば、君を『誰も知らない場所』へ連れて行ってあげよう。佐藤くんのためを思うなら……ね」


 紳士は立ち去った。  残された結衣は、震える手でカードを握りしめた。


 ***


 夕方。  俺がアパートに帰ると、部屋は真っ暗だった。


「ただいまー。……結衣?」


 返事がない。  いつもなら「おかえり」という声と、夕飯の匂いが迎えてくれるはずなのに。  キッチンには、作りかけのカレーが冷たくなっていた。


 テーブルの上に、一枚の手紙が置かれていた。


『お兄ちゃんへ。  今までありがとう。  私、自分の道を探しに行きます。探さないでください。  ご飯、冷蔵庫に入ってるから、チンして食べてね。  さようなら。  結衣より』


「……は?」


 俺は手紙を握りつぶした。  家出? あの結衣が? ありえない。  あの子にとって、ここは世界の全てだ。それを捨てていくなんて。


「……マスター。微かに……知らない男の匂いがする」  セツナが手紙を嗅ぎ、鋭い目つきになった。


「サトル! 街の防犯カメラに、結衣お姉ちゃんが映ってる! ……黒い車に乗せられてるわ!」  未羽がタブレットを持って駆け込んでくる。


 俺の中で、何かが弾けた。  100億ドルの賞金首になった時よりも、北極でゼロと対峙した時よりも、遥かに冷たく、重い感情。


「……誰だか知らねぇが」


 俺はPCを開くこともせず、玄関を蹴り開けた。


「俺の『帰る場所』を奪った罪は……万死に値するぞ」


 結衣は俺の聖域だ。  ただの一般人の少女。守られるだけの存在。  だが、彼女がいなければ、俺はただの社会不適合者に戻ってしまう。


 ヒロイン奪還編の開幕だ。  今回の敵は、物理的な破壊者ではない。  人の心の隙間に入り込む、悪魔のような誘拐犯だ。

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