第46話:エプロンの天使と、見えない「壁」
世界の危機が去ってから、二週間。 メゾン・ド・サトウ、203号室には、かつてない平和な朝が訪れていた。
トントントン……。 キッチンから、小気味よい包丁の音が聞こえる。 漂ってくる味噌汁の香り。炊きたてのご飯の匂い。
「……んぅ」 俺、佐藤悟は幸せな微睡みの中で目を覚ました。 隣の布団ではセツナが丸まって寝ている。
「お兄ちゃん、朝だよ。起きて」
襖が開き、エプロン姿の佐倉結衣が顔を出した。 朝日を背に浴びたその姿は、まさに天使。……のはずだが、今日の彼女はどこか元気がなかった。
「……おはよ、結衣。どうした? 顔色が悪いぞ」 「え? ううん、なんでもないよ! ご飯できてるから、顔洗ってきて!」
結衣は努めて明るく振る舞い、パタパタと去っていった。 俺は少しの違和感を覚えながらも、洗面所へと向かった。
食卓には、完璧な和食が並んでいた。 だが、食事中の会話は弾まなかった。
「……ねえ、未羽ちゃん。今度、新しいプログラム教えてくれる?」 「いいけど……結衣お姉ちゃんには難しすぎるかも。量子演算の基礎からやらないと」 未羽がタブレットを見ながら悪気なく言う。
「……セツナちゃんは、今日もトレーニング?」 「ん。マスターを守るため、もっと強くなる。コンクリートを素手で砕く練習」 セツナが真顔で答える。
「アリスちゃんは……」 「私は忙しいわよ。株価の変動が激しいから、資産運用を見直さないと」
結衣は「そっか……」と小さく呟き、箸を止めた。 彼女の目には、寂しさと、焦りのような色が浮かんでいた。
天才ハッカー。 最強の生体兵器。 大財閥の令嬢。 そして、世界を救った伝説の男。
この部屋にいる全員が「特別」な人間だ。 たった一人、結衣を除いて。
***
その日の午後。 俺たちがそれぞれの「特別な」用事で出払っている間、結衣は一人で商店街を歩いていた。
買い物かごには、特売の野菜。 彼女の日常は、平和で、ありふれていて、そして――
「……私だけ、置いてけぼりだな」
公園のベンチで、結衣はポツリと呟いた。 北極での戦い。彼女は何もできなかった。 ただ守られ、震えていただけ。 お兄ちゃんの役に立ちたい。隣に並んで歩きたい。でも、自分には何の才能もない。
「お悩みかな? お嬢さん」
ふと、声をかけられた。 顔を上げると、優しそうな老紳士が立っていた。 仕立ての良いスーツに、ステッキ。穏やかな笑顔。
「あ、はい……ちょっと考え事を」 「ふむ。その顔は……『自分には価値がない』と思っている顔だね」
図星だった。結衣はドキッとして顔を伏せる。
「君は、佐藤悟くんの……大切な『家族』だね?」 「えっ!? お兄ちゃんを知ってるんですか?」
紳士はニコリと笑った。
「有名人だからね。……私は思うんだよ。彼のような『怪物』を繋ぎ止めているのは、君のような『普通』の存在だと」 「私が……お兄ちゃんを?」
「そうとも。だが……逆に言えば、君さえいなければ、彼はもっと自由になれるのかもしれないね」
紳士の言葉に、棘が含まれ始めた。
「君は彼の弱点だ。君がいる限り、彼は狙われ続ける。君を守るために、彼は傷つき続ける」
結衣の顔から血の気が引いた。 それは、彼女が一番恐れていたことだった。 自分のせいで、お兄ちゃんが危険な目に遭う。自分が足手まといになる。
「……どうすればいいんですか」 「簡単さ。……君が消えればいい」
紳士がポケットから一枚のカードを取り出し、結衣に渡した。 そこには、地図と時間だけが書かれていた。
「今夜ここに来なさい。そうすれば、君を『誰も知らない場所』へ連れて行ってあげよう。佐藤くんのためを思うなら……ね」
紳士は立ち去った。 残された結衣は、震える手でカードを握りしめた。
***
夕方。 俺がアパートに帰ると、部屋は真っ暗だった。
「ただいまー。……結衣?」
返事がない。 いつもなら「おかえり」という声と、夕飯の匂いが迎えてくれるはずなのに。 キッチンには、作りかけのカレーが冷たくなっていた。
テーブルの上に、一枚の手紙が置かれていた。
『お兄ちゃんへ。 今までありがとう。 私、自分の道を探しに行きます。探さないでください。 ご飯、冷蔵庫に入ってるから、チンして食べてね。 さようなら。 結衣より』
「……は?」
俺は手紙を握りつぶした。 家出? あの結衣が? ありえない。 あの子にとって、ここは世界の全てだ。それを捨てていくなんて。
「……マスター。微かに……知らない男の匂いがする」 セツナが手紙を嗅ぎ、鋭い目つきになった。
「サトル! 街の防犯カメラに、結衣お姉ちゃんが映ってる! ……黒い車に乗せられてるわ!」 未羽がタブレットを持って駆け込んでくる。
俺の中で、何かが弾けた。 100億ドルの賞金首になった時よりも、北極でゼロと対峙した時よりも、遥かに冷たく、重い感情。
「……誰だか知らねぇが」
俺はPCを開くこともせず、玄関を蹴り開けた。
「俺の『帰る場所』を奪った罪は……万死に値するぞ」
結衣は俺の聖域だ。 ただの一般人の少女。守られるだけの存在。 だが、彼女がいなければ、俺はただの社会不適合者に戻ってしまう。
ヒロイン奪還編の開幕だ。 今回の敵は、物理的な破壊者ではない。 人の心の隙間に入り込む、悪魔のような誘拐犯だ。




