第31話:100億ドルの男と、世界中が敵になる夜
そのメールが届いてから、わずか十分後。 メゾン・ド・サトウ203号室は、戦場よりも酷い状況になっていた。
「エヴァ! 状況はどうなってる!」
俺はPCに向かって怒鳴った。 額から冷や汗が滴り落ちる。指が震えてタイプミスをしそうだ。
『最悪です、マスター。ダークウェブ上の全ての闇掲示板、および裏社会の求人サイトに、貴方の顔写真と現住所が拡散されました。賞金額は100億ドル(約1兆円)。ビットコイン払い、即金です』
「1兆円だと……? 国家予算かよ!」
1兆円。 それは、裏社会の人間全員が人生を懸けて殺しに来る金額だ。 マフィアも、殺し屋も、チンピラも、隣の住人でさえも敵になり得る。
「ねえ、佐藤。外が……おかしいわ」
アリスが窓の隙間から外を覗き、息を呑んだ。 俺も恐る恐る近づく。
アパートを取り囲む路地に、無数の人影があった。 スーツ姿の男たち、迷彩服の集団、改造バイクに跨った暴走族風の男たち。 人種も装備もバラバラだが、全員がギラついた目で、このボロアパートを見上げている。
「……ざっと五〇人、いや一〇〇人はいるな」
レーザーポインターの赤い点が、部屋の壁や天井を無数に這い回っている。 まるでディスコの照明だ。ただし、当たれば死ぬ。
「お兄ちゃん……怖いよ……」 結衣がテーブルの下で耳を塞いで震えている。 セツナが獣のような低い姿勢で、結衣を庇うように立ちはだかる。
「……殺気、充満。全方位、敵だらけ」 「ボクのPCもダメ。回線がパンクしてる。世界中からアクセス攻撃が来てるわ!」 未羽が悲鳴を上げる。
完全に包囲された。 ここはもう、俺たちの知る「平和な城」じゃない。
パリンッ! 突然、窓ガラスが粉々に砕け散った。 何かが投げ込まれたのだ。 それは、床に転がり、シューッという音と共に白い煙を噴き出した。
「催涙ガスだ! 全員、口元を覆え!」
俺が叫ぶのと同時に、玄関のドアがドカドカと叩かれる。
「おい佐藤ォ! 出てこい! 1兆円よこせぇぇ!」 「俺が先だ! どけオラァ!」
外ではハンター同士の小競り合いまで始まっている。 ドアが歪む。チェーンロックが悲鳴を上げる。 この安普請のアパートが持つわけがない。
「……ちくしょう!」
俺は決断した。 ここに留まれば、全員死ぬ。いや、俺だけならまだしも、結衣たちを巻き込むわけにはいかない。
「逃げるぞ! ここを捨てる!」 「捨てるって……どこに!?」 アリスが涙目で叫ぶ。
「どこでもいい! とにかくここから離れるんだ!」
俺はPCのハードディスクを引き抜き、バックパックに放り込んだ。 そして、部屋を見渡した。 結衣のご飯を食べたちゃぶ台。アリスが文句を言った座布団。未羽とゲームをしたテレビ。セツナが丸まっていたソファ。 全部、置いていくしかない。
「……ごめんな、みんな。俺のせいで」
俺は唇を噛み締めた。 謝っている時間はない。
「セツナ! ベランダ側の壁をぶち抜け!」 「……了解」
セツナが頷き、助走をつけて壁に向かって回し蹴りを放った。 ドォォォォン!! 築四十年の薄い壁が、呆気なく崩落し、人間一人が通れる大穴が開いた。 そこは隣の空き部屋(大家のアリスが物置にしていた部屋)に繋がっている。
「裏ルートだ! そこから非常階段へ抜ける!」
俺たちは煙の充満する部屋を飛び出した。 背後で、玄関ドアが破られ、男たちが雪崩れ込んでくる音が聞こえる。 「いないぞ!」「隣だ!」「追え!」
非常階段を駆け下りる。 雨が降り始めていた。冷たい雨だ。
アパートの裏手には、アリスが手配していた黒塗りのリムジンが待機していた。 だが。
ドチュン! 乾いた音がして、リムジンのタイヤがパンクした。
「なっ……!?」
暗闇から現れたのは、重装備の傭兵部隊だった。 退路も断たれた。
「西園寺家のお嬢様だな? 悪いが、車は使わせん」 「ターゲットの佐藤悟を引き渡せ。そうすれば命だけは助けてやる」
銃口を向けられる。 セツナが前に出ようとするが、相手は十人以上。しかも全員が手練れだ。守りきれない。
「……万事休す、か」
俺は両手を挙げた。 1兆円の価値があるこの命。差し出せば、みんなは助かるのか?
その時。 ブォォォォォォォォン!!!! 腹に響くような、重低音のエンジン音が路地の奥から轟いた。
ヘッドライトの閃光が、傭兵たちを照らす。 突っ込んできたのは――巨大なキャンピングカーだった。 それもただのキャンピングカーではない。装甲板で補強され、窓には鉄格子、屋根にはパラボラアンテナを積んだ、まるで移動要塞のような車両だ。
キキーッ!! キャンピングカーは俺たちの目の前でドリフト停車し、スライドドアが勢いよく開いた。
「乗れェェェェッ! 早く!」
運転席から身を乗り出して叫んだのは、包帯だらけの氷室冴子だった。
「ひ、氷室さん!?」 「公安で押収した改造車両をくすねてきました! 説明はあと! 死にたくなければ乗りなさい!」
地獄に仏とはこのことか。 俺たちは転がるように車内へ飛び込んだ。
「全員乗ったな!? 舌噛むわよ!」
氷室刑事がアクセルをベタ踏みする。 ズドドドドッ! キャンピングカーは傭兵たちの包囲網を強引に突破し、雨の夜道へと走り出した。
***
一時間後。 首都高速道路。
ようやく追っ手を振り切り、車内には重苦しい沈黙が流れていた。 キャンピングカーの中は広かった。ベッドもキッチンもある。だが、揺れが酷い。
「……もう、追ってこないわね」 アリスが窓の外を確認し、ふぅと息を吐いた。
結衣は膝を抱えて座り込んでいる。 セツナがその背中をさすっている。 未羽は青ざめた顔でスマホを握りしめている。
俺は運転席へ行き、氷室刑事に声をかけた。
「……助かりました。でも、いいんですか? こんなことして」 「よくないに決まってるでしょう。懲戒免職どころか、私も指名手配犯の仲間入りです」
氷室刑事は苦笑いした。
「ですが……『Original Seven』。その名を聞いて、見過ごすわけにはいきませんでした」 「……知っているんですか」 「公安の極秘ファイルに、都市伝説として載っています。『かつて世界を裏から操った、七人の天才児たち』。……あなた、その一人だったんですね」
俺は黙って頷いた。 隠していても仕方がない。
俺は居住スペースに戻り、みんなに向き直った。
「話すよ。俺の過去と、これから戦う敵の正体を」
揺れる車内。 俺は十年前の記憶の蓋を開けた。
「俺は……『ナンバー1(アイン)』と呼ばれていた。世界中の天才児を集めて作られた、最強のハッカー集団のリーダーだったんだ」
日常は終わった。 これからは、逃げながら戦う日々だ。 メゾン・ド・サトウはもうない。 この鉄の箱が、俺たちの新しい家だ。




