第3話:天才ハッカーの安息を脅かす「ウサギ」の影
世界を救うことよりも、目の前のプリンの方が重要だ。 これは比喩ではない。今の俺にとっては、厳然たる事実である。
「……美味すぎる」
俺はスプーンに乗った黄金色の塊を、震える手で口に運んだ。 西園寺アリスが「手付金」として置いていった(実際には執事に届けさせた)、一個三千円の『極上・天使のプリン』。 滑らかな舌触りと、濃厚な卵のコク。そしてほろ苦いカラメルソースが、俺の脳内麻薬をドバドバと分泌させる。
「でしょでしょ! やっぱ高いプリンは違うよねー!」
向かいの席で、結衣が自分の分のプリン(スーパーで買った三連パックの一個)を嬉しそうに食べている。 この格差社会。申し訳ない気持ちはあるが、俺は大人なので遠慮なく高い方を味わう。
「ああ、このプリンの分子構造を解析して、3Dプリンターで量産したいくらいだ」 「変なこと言わないで味わって食べてよ。あ、サトルお兄ちゃん、口元に付いてる」
結衣がティッシュで俺の口元を拭いてくれる。 完璧な介護だ。俺はもう、彼女なしでは生きていけないかもしれない。
そんな平和な午後三時。 俺と結衣の「おやつタイム」を切り裂くように、部屋の照明が明滅した。
バチッ、バチチッ!
「キャッ! なに!?」 「……停電か? いや、違うな」
俺はスプーンを置き、瞬時に鋭い目つきで部屋を見渡す。 照明だけではない。 エアコンが勝手に冷房十八度の最大風量で作動し、テレビがザザザッというノイズと共に勝手についたり消えたりを繰り返している。 スマートスピーカーが、不気味な合成音声で笑い出した。
『アハハハハハ! ミツケタ! ミツケタ!』
「うわぁん、怖いよお兄ちゃん! ポルターガイスト!?」 「落ち着け結衣ちゃん。これは霊の仕業じゃない。もっとタチの悪い『客』だ」
俺はPCデスクへ滑り込む。 メインモニターには、無数のポップアップウィンドウが表示されていた。 そこに描かれているのは――ドクロマーク? いいや。
「……ウサギ?」
ピンク色の、生意気そうな顔をしたドット絵のウサギが、画面の中で跳ね回っている。 そいつがハンマーを振るうたびに、俺のPCのファイルが削除されかけては、防衛システムに弾かれている。
『Hello, Unknown. Let's play?』
画面中央に表示されたメッセージ。 俺は鼻で笑った。
「なるほど。スマート家電の脆弱性を突いたIoT攻撃か。古典的だが、このアパートのボロ回線を飽和させるには十分ってわけか」 「な、なに言ってるのか全然わかんないけど、お兄ちゃんどうにかして! 冷蔵庫から氷が飛び出してる!」 「三十秒待て。お仕置きをしてやる」
俺はキーボードを叩く。 相手の攻撃は荒削りだ。力任せのDDoS攻撃(大量アクセス攻撃)と、家電へのランダムなコマンド送信。 まるで、オモチャの機関銃を乱射しているような子供っぽさがある。 だが、その処理速度は異常に速い。並のハッカーなら、今頃PCを初期化されているだろう。
「コードネーム『ラビット』か。いい度胸だ」
俺は相手の攻撃を受け流し、その通信経路を逆走する。 相手は十重二十重にプロキシサーバーを経由しているが、俺の目には光の道筋が見える。 ニューヨーク、ロンドン、北京を経由し、最終的に信号が戻ってきた場所は――。
「……は? 日本?」
しかも、東京都内。 さらに言えば、この近所?
「おいおい、灯台下暗しにも程があるだろ」
俺は特定した相手の端末に、カウンタープログラムを撃ち込んだ。 名付けて『強制宿題タイム』。 相手のモニターをロックし、算数のドリルを百問解かないとブラウザが開かないようにする、教育的なウイルスだ。
エンターキーをッターン! と叩く。
その瞬間、部屋中の家電が大人しくなった。 エアコンの風が止み、テレビが消え、スマートスピーカーが沈黙する。 モニターの中のウサギが、「GAME OVER」の文字と共に爆散した。
「……ふぅ。片付いたぞ」 「す、すごい! サトルお兄ちゃん、やっぱり機械に詳しいんだね!」
結衣が尊敬の眼差しを向けてくる。 俺は「まあね」とあいまいに笑い、冷や汗を拭った。 (今の反応速度……ただ者じゃないぞ。最後の一瞬、俺の逆探知に気づいて回線を自ら切断しやがった)
もし今の相手が、組織的なサイバーテロリストなら厄介だ。 だが、あの『ウサギ』のアイコンと、悪戯のような攻撃内容。 どこか、稚拙なプライドが見え隠れする。
その時、PCの片隅に残ったチャットウィンドウに、文字が流れた。
『覚えてなさい、Unknown。次は絶対に負けない。ボクが世界一になるんだから!』
「……ボク?」
一人称がボク。 俺は首を傾げた。 世界一を目指す? 世界を救うとか、金を奪うとかじゃなくて? その動機は、まるで――。
「ゲームで負けて悔しがる子供みたいね」
いつの間にか背後に立っていた結衣が、的確なツッコミを入れた。 俺は苦笑する。
「違いない。……さて、プリンの続きを食べようか」 「うん! あ、でもその前に!」
結衣が仁王立ちになり、腰に手を当てる。
「お兄ちゃん、今月分の電気代、請求来てるよ? エアコン使いすぎ!」 「……うっ」
世界の危機(サイバー攻撃)を退けた英雄も、電気代の請求には勝てない。 俺は肩を落とし、ぬるくなりかけたプリンを口に運んだ。 甘さが、心に染みた。
***
一方その頃。 都内の超高級マンションの一室。 最新鋭のゲーミングPCが並ぶ要塞のような部屋で、一人の少女がキーボードを叩きつけていた。
「ムキーッ!! なんなのよコイツ! ボクの攻撃を全部いなすなんて!」
ヘッドフォンを投げ捨てたのは、フード付きのパーカーを目深に被った少女だ。 年齢は十歳前後。ショートカットの髪が、悔しさで震えている。 モニターには『算数ドリル:第1問 7×6=?』という屈辱的な画面が表示されている。
「Unknown……佐藤悟……! 絶対許さない! この『ラビット』様が、あんたの鼻を明かしてやるんだから!」
少女はランドセルから教科書を取り出し、不承不承ながらドリルを解き始めた。 そのランドセルの脇には、結衣やアリスと同じ学校の校章が輝いていた。




