第2話:ブラックカードを持つ少女
『見つけたわよ、Unknown』
スマホの画面に表示されたその文字列を見て、俺は背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒を覚えた。 バレた? 俺の正体が? まさか。俺のセキュリティは完璧だ。通信経路は地球を三周分くらい迂回させているし、発信元の偽装も万全のはず。
「……迷惑メールか? 最近の詐欺は手が込んでるな」
俺は現実逃避を決め込み、そっとスマホを裏返した。 だが、現実は俺の逃走を許さない。
ブォォォォォォン……! キキッ! キキッ!
突然、アパートの外から重低音のエンジン音が響き渡った。一台ではない。複数台だ。 築四十年のボロアパート『メゾン・ド・サトウ』が、地震のように揺れる。
「な、なになに!? 地震!?」
キッチンで食器を洗っていた結衣が、泡だらけの手で飛び出してきた。 俺は窓際へ這い寄り、カーテンの隙間から恐る恐る外を覗く。
「……マジかよ」
そこには、非日常的な光景が広がっていた。 狭い路地に、漆黒のリムジンが三台、強引に縦列駐車している。 まるで映画のワンシーンだ。そして、車から降りてきたのは、黒いスーツにサングラスをかけた屈強な男たち(メン・イン・ブラック)。
彼らは一糸乱れぬ動きでアパートの階段を駆け上がってくる。 目標は――間違いなく、ここ(203号室)だ。
「サトルお兄ちゃん! なんか怖い人たちが来てるよ!? お兄ちゃん、また借金したの!?」 「失礼な! 俺の借金は結衣ちゃんへの『おやつ代』だけだ!」
俺が言い訳をしている間に、玄関のチャイムが鳴らされることもなく、ドアがノックされた。 いや、ノックではない。あれは「開けなければ破壊する」という合図だ。
「……開いています」
俺が裏声で答えると、ドアが恭しく開かれた。 黒服たちが左右に展開し、レッドカーペットでも敷きそうな勢いで道を作る。 その奥から現れたのは、予想外の訪問者だった。
プラチナブロンドの髪を縦ロールに巻いた、西洋人形のような少女。 身につけているワンピースは、俺の年収(ゼロ円だが)を遥かに超えそうな高級ブランド品。 年齢は結衣と同じくらいだろうか。
少女は俺の部屋――散らかった雑誌、脱ぎ捨てたジャージ、空き缶の山――を見渡し、可愛らしい鼻に皺を寄せた。
「臭っ。何この掃き溜め」 「……初対面でいきなり部屋の衛生状態をディスるとは、いい度胸だな、お嬢ちゃん」
俺が引きつった笑みを浮かべると、少女は青い瞳で俺を射抜いた。 そして、ポケットから一枚のカードを取り出し、俺の顔の前に突きつける。
「単刀直入に言うわ。あなたが『Unknown』ね?」
心臓が跳ねた。 結衣が「あんのうん?」と首を傾げている横で、俺は必死にポーカーフェイスを作る。
「人違いじゃないかな。俺は佐藤悟。ただの善良なニートだよ」 「しらばっくれても無駄よ。このアパートの大家を買収して、あなたの部屋のネット回線のログを物理的に解析させてもらったわ」 「物理的!?」 「ついでに、このアパートごと買い取ったから。つまり、今から私があなたの大家よ。家賃、三ヶ月分滞納してるわよね?」
ぐうの音も出ない。 金の暴力だ。ハッキング技術とかそういう次元の話じゃない。
「……あ! 西園寺さん!?」
その時、結衣が声を上げた。 少女――西園寺と呼ばれたお嬢様が、ちらりと結衣を見る。
「あら、佐倉さんじゃない。こんなゴミ屋敷で何をしているの?」 「ゴミ屋敷じゃないもん! サトルお兄ちゃんのお世話をしてるの! 西園寺さんこそ、なんでここに?」 「私はビジネスの話に来たのよ。庶民は下がっていなさい」
どうやらクラスメイトらしい。 西園寺アリス。日本経済を牛耳る西園寺財閥の令嬢だ。名前くらいは俺でも聞いたことがある。
アリスは汚れた座布団を避けるようにして、持参したハンカチを敷いてからソファに座った。
「佐藤悟。あなたに依頼があるの」 「……断ると言ったら?」 「即座に退去命令を出すわ。あと、あなたのPCの履歴を警察のサイバー犯罪対策課に転送する手はずになっているわよ」
完璧な脅迫だった。 俺は深いため息をつき、観念してあぐらをかいた。
「……分かったよ、大家さん。で、何の依頼だ? 国家予算の横領か? それとも政敵のスキャンダル捏造か?」 「そんな品の無いこと頼まないわよ」
アリスはふん、と鼻を鳴らし、一枚の写真を取り出した。 そこに写っていたのは、純白の毛並みを持つペルシャ猫だ。
「この子が消えたの。名前はエリザベス三世」 「……は?」 「今朝、庭で遊ばせていたら居なくなったのよ。警察にも言ったけど、『たかがペット』扱いして動こうとしないの。無能よね」
いや、警察の判断は正しい。 だが、このお嬢様にとって「無理」という言葉は辞書にないらしい。
「世界最高のハッカーなら、東京中の監視カメラをハッキングして、猫一匹くらい見つけられるでしょう?」
俺は天を仰いだ。 俺の技術は、核ミサイルの発射を阻止したり、独裁政権のプロパガンダを書き換えたりするためにあるはずだ。 それが、猫探し?
「……あのな、監視カメラのネットワークに侵入するリスクがどれだけ高いか、分かってるのか? 足がついたら俺は刑務所行きだぞ」 「成功報酬はこれよ」
アリスがスッと差し出したのは、光沢を放つ黒いカード。 ブラックカードだ。しかも限度額無制限クラスの。
「これで好きなゲーミングPCでも、課金アイテムでも買いなさい」 「やります」
即答だった。 プライド? そんなものは猫に食わせろ。エリザベス三世にな。
俺はPCの前に座り、キーボードに手を置いた。 結衣が心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫なの? お兄ちゃん」 「問題ない。猫探しなんて、朝飯前だ」
俺は指を走らせる。 ターゲットは東京都内の防犯カメラ、Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)、さらには低軌道にある民間の観測衛星。 あらゆる「目」をジャックし、画像解析AIを走らせる。
『Target: Persian Cat. Color: White. Size: Small』
画面上に無数のウィンドウが開き、東京の地図が赤く染まっていく。 俺の脳内とネットワークが直結する感覚。 情報の海を泳ぎ、エリザベス三世の特徴と一致する個体を検索する。
「……ビンゴ」
開始からわずか三十秒。 一つの映像がメインモニターに拡大表示された。 場所は、西園寺家の屋敷から二キロほど離れた公園。 野良猫の集会に混ざり、ふてぶてしい顔でボス猫の餌を奪っている白いペルシャ猫が映っていた。
「こ、これよ! エリザベス!」 「場所は近所の『ひだまり公園』だ。GPS情報をあんたのスマホに送ったぞ」 「……早いわね。さすがはUnknown」
アリスは少しだけ感心したように目を丸くし、すぐに得意げな表情に戻った。 彼女は黒服たちに指示を出し、撤収の準備を始める。
「約束の報酬よ」 アリスはブラックカードをテーブルに置こうとした。
「待った」 俺はその手を制止した。 「そのカードは受け取れねぇよ。足がつくからな。俺は現金主義なんだ」 「現金? 面倒ね……じゃあ、後で口座に振り込むわ」 「いや、口座もバレるからダメだ」 「じゃあどうしろって言うのよ!」
アリスが苛立ち始めた時、結衣がポンと手を叩いた。
「あ、そうだ! 西園寺さん、駅前にできたケーキ屋さんの『極上・天使のプリン』知ってる?」 「ええ、知ってるわよ。一個三千円もするやつでしょ? 予約三ヶ月待ちの」 「それ! サトルお兄ちゃん、甘いもの大好きだから、それでいいよね?」
結衣が俺にウィンクしてくる。 三千円のプリン。予約不可の幻のスイーツ。 ブラックカードに比べれば安すぎるが……俺の正体を守るため、そして何より美味そうだ。
「……分かった。現物支給で手を打とう」 「なっ……! 国家機密を盗める技術への対価が、プリン!?」
アリスは信じられないものを見る目で俺を見た。 だが、すぐに「フッ」と不敵に笑う。
「いいわ。面白い男ね、佐藤悟。気に入ったわ」 「気に入らなくていいから、二度と来ないでくれ」 「それは無理ね。だって私、このアパートのオーナーだもの。また依頼を持ってくるわ。――ごきげんよう!」
アリスはスカートを翻し、嵐のように去っていった。 残されたのは、静けさを取り戻したボロアパートと、疲れ果てたニート一人。
「……結衣ちゃん」 「なに? お兄ちゃん」 「俺、引っ越そうかな」 「ダメだよ。西園寺さんにすぐ見つかっちゃうよ。それに……」
結衣はエプロンの紐をぎゅっと握りしめ、少し赤くなった顔で言った。
「私が通える距離じゃないと、ご飯作りに来れないでしょ?」
その言葉に、俺は脱力して椅子にもたれかかった。 どうやら俺は、最強のハッカーでありながら、この二人の小学生の手のひらで転がされる運命にあるらしい。
――だが、俺はまだ知らなかった。 この猫探しが、やがて国家を揺るがす巨大な陰謀へと繋がっていくことを。




