第12話:そのUSB、混ぜるな危険。そして逃避行へ
オメガ・タワーの一階ロビーは、避難した人々の安堵のため息と、遅れてやってきた消防隊のサイレン音で満たされていた。 スプリンクラーの水で床は水浸しになり、高級な大理石が泥で汚れている。
俺は息を切らしながら、人混みの中を彷徨っていた。 足がもつれる。肺が焼けるように熱い。 だが、止まるわけにはいかない。
「結衣! どこだ、結衣!」
俺の声は周囲の喧騒にかき消される。 スマホを握りしめ、エヴァに怒鳴る。
「エヴァ! カメラだ! ロビーの監視カメラを乗っ取って結衣を探せ!」 『了解。……正面玄関右手の観葉植物の陰。濡れた子犬のように震えている生体反応を確認』
いた。 俺は転がるように駆け出した。 巨大なパキラの陰に、うずくまる小さな背中を見つけた。 ずぶ濡れのワンピース。髪からは水が滴り落ちている。
「結衣ちゃん!」 「……あ、サトルお兄ちゃん!」
結衣が顔を上げた。 その瞳に涙が溜まっているのを見て、俺の胸がギュッと締め付けられた。 俺は躊躇わず、泥だらけのジャージの上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「ごめんな、遅くなって。怖かったろ」 「ううん……お兄ちゃんが来てくれるって、信じてたから」
結衣は気丈に笑おうとしたが、その手は小刻みに震えていた。 そして、その小さな手の中に握りしめられていたもの。 黒い、スティック状の物体。 赤い蛇のマークが刻印されたUSBメモリ。
(……これか)
俺が手を伸ばそうとした、その時だ。
『マスター、警告。三時の方向、距離15メートル。清掃員に変装した男二名。……懐に銃器らしき反応あり』
エヴァの声が脳に突き刺さる。 俺は反射的に結衣を抱き寄せ、柱の陰に隠れた。
隙間から覗く。 灰色の作業服を着た男たちが、鋭い眼光で避難者たちの顔を一人ひとり確認している。 手にはモップを持っているが、その動きは明らかにカタギじゃない。 奴らは探している。 この混乱の中で紛失した「何か」を。
「……結衣。そのUSB、俺に渡せるか? そっとだぞ」 「え、うん……」
結衣からUSBを受け取る。 ずしりと重い気がした。 俺はそれをジーンズのポケットの奥深くにねじ込んだ。
「いいか、結衣。今からゲームをする」 「ゲーム?」 「ああ。『かくれんぼ』だ。あの清掃員のおじさんたちに見つからないように、外にいるアリスたちのところまで行く。……できるか?」
結衣は少し不安そうな顔をしたが、俺の目を見て、コクリと頷いた。
「うん。お兄ちゃんと一緒なら、できる」 「よし、いい子だ」
俺は結衣の手を握った。 冷たい手だ。早く温かい風呂に入れてやりたい。 そのためにも、こんなところで捕まるわけにはいかない。
「エヴァ、ナビゲート頼む。敵の視界を切れ」 『お任せを。館内放送と照明をハックして、撹乱します』
バチッ! ロビーの照明が一斉に消えた。 同時に、館内放送から大音量で『蛍の光』が流れ始める。
「な、なんだ!?」 「また停電か!?」
人々がざわめく。 清掃員の男たちが「チッ!」と舌打ちをして周囲を警戒する。 その一瞬の隙。
「走るぞ!」
俺は結衣の手を引き、闇の中を疾走した。 エヴァがスマホの画面に矢印を表示してくれる。 右、左、そして正面突破。 男たちの脇をすり抜ける瞬間、俺の背中には冷や汗が流れたが、彼らの注意は明滅する照明に向いていた。
回転扉を抜け、夜風に当たった瞬間。 俺たちは広場へと転がり出た。
「佐藤!」
待ち構えていたアリスが、SPたちに指示を出して壁を作らせる。 俺たちはその内側へと滑り込んだ。
「はぁ……はぁ……死ぬかと……思った……」 「無事なのね!? 佐倉さんも!」 「う、うん。西園寺さん……」
結衣がアリスの姿を見て、ようやく安心したのか、へなへなと座り込んだ。 アリスがすぐに自分の高級ブランドのショールを外し、結衣に巻き付ける。 未羽も駆け寄ってきて、無言で結衣の背中をさすった。
「……で、佐藤。何があったの? ただの避難にしては、顔色が悪いわよ」
アリスの鋭い指摘。 俺は周囲を警戒しながら、小声で答えた。
「奴らがいた。『掃除屋』だ。……ブツを探してる」 「ブツ?」
俺はポケットを叩いてみせた。 未羽がハッと息を呑む。
「まさか、テロの目的は破壊じゃなくて……データの運搬?」 「ああ。混乱に乗じて内部協力者に持ち出させる手はずだったんだろうが……運悪く落としたらしい。それをウチの『幸運の女神(結衣)』が拾っちまった」
最悪の状況だ。 奴らは顔を見られたかもしれない。 いや、このビル周辺には無数のカメラがある。俺たちがUSBを持っていることは、時間の問題でバレる。
「ここに長居は無用だ。アリス、車を出してくれ。送迎用の一番スモークが濃いやつを頼む」 「分かったわ。……私の屋敷に来る? セキュリティは鉄壁よ」 「いや、西園寺家は目立ちすぎる。それに、もしこれが公になれば、お前の家のスキャンダルになりかねない」
財閥令嬢をテロ組織との抗争に巻き込むわけにはいかない。 俺は首を振った。
「帰るぞ。いつものボロアパートへ」 「はあ!? 正気!? あんな紙みたいな壁の部屋で防げるとでも?」 「灯台下暗し、だ。それに……」
俺はニヤリと笑った。虚勢だが、今は笑うしかない。
「あそこは俺の『城』だ。ネットに繋がってさえいれば、ホワイトハウスより安全にしてやるよ」
***
一時間後。 メゾン・ド・サトウ、203号室。
結衣はシャワーを浴びて、俺のブカブカのTシャツに着替えてベッドで眠っていた。 精神的な疲労が限界だったのだろう。 その寝顔を見守りながら、俺たち――俺、アリス、未羽の三人は、PCデスクを囲んで緊急会議を開いていた。
テーブルの中央には、あの赤い蛇のUSBが鎮座している。
「……解析結果は?」
アリスが固唾を呑んで尋ねる。 未羽がキーボードから手を離し、青ざめた顔で俺を見た。
「……とんでもない代物だよ、これ」 「ああ」
俺も頷く。 エヴァと共に中身をサンドボックス(隔離環境)で解析した結果、分かったことは一つ。 これは、単なるデータではない。
「これは『鍵』だ」 「鍵?」 「世界中の銀行、軍事施設、インフラ……あらゆるセキュリティを無効化できる、マスターキーの生成コード。ヨルムンガンドが数年かけて開発した、ネット社会の終焉を招く『禁断の果実』だ」
部屋が静まり返った。 エアコンの音だけが空しく響く。
そんなヤバいものが、なぜか日本の、しかも俺の部屋にある。 笑えない冗談だ。
「奴らはこれを取り戻すために、手段を選ばないだろうな」
俺は天井を見上げた。 結衣の寝息が聞こえる。 平和な寝息。 だが、その平和は今、薄氷の上に成り立っている。
『マスター。アパート周辺の防犯カメラに、不審な車両を確認。……包囲されつつあります』
エヴァの無機質な報告。 俺はPCに向き直り、指を鳴らした。
「上等だ」 「佐藤……どうする気?」 「決まってる。――籠城戦だ」
俺は画面にアパートの見取り図を表示させ、ありったけのトラッププログラムを起動させた。
「ニートの引きこもりスキル、ナメんじゃねぇぞ。この部屋からは、一歩も入れさせないし、一歩も出させない」
俺たちの夜は、まだ始まったばかりだった。




