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勘解由小路琢磨《かでのこうじたくま》様の幸福

作者: イエロウ

 我が君勘解由小路琢磨(かでのこうじたくま)様は、その朝私にこう申しつけられました。

「じい。今日は学校にゆくぞ」

 私は恭しく低頭して申しました。

「車引きに命じて参りましょう」

「その必要はない」

 私は若君の玲瓏(れいろう)たる尊顔を拝しつつ、答えました。

「牛車は只今修理中にて。花子にも数日の暇を出しております。今頃彼女は御用牧場そばの草地にて、青草を…」

「花子のことは、よい」

「左様にございますか」

「俺には俺の、足があるではないか。花子や久平を煩わせるほどのこともなかろう」

 花子は牛、久平は馬にございます。琢磨様のご学友ではありませぬ。そのあたり、誤解なきよう胸にお納めいただきたいのでございます。

 私め…不肖・米月小五郎はさらに低頭して申しました。

「お御足で行かれますとな。外は雨にこざいます」

「だから、よいのだ。じい」

「はっ」

「俺が舶来物の傘を手に入れたことを、知っておろう」

「父君勘解由小路格之進かでのこうじかくのしん様の、外遊土産でごさいますね。無論のこと、承知いたしております」

「その傘を、使ってみたいのだ」

「ははあ」

「じいは番傘を持ちて供をせよ」

 私めに異論とて有るはずもなく、若君に付き従う支度を整えたのでございます。

 番傘とは、丈夫な和紙に柿渋など塗り重ねて濡れぬよう加工を施したものにございます。

 軽くて丈夫で、破れぬ限りは風雨に耐えうる堅牢さも備えてごさいます。

 屋敷には無論、多くの番傘が整えられてごさいます。来客あらば差掛け、付き従うことも使用人の務めでございました。

 我が君は新しき傘の使い心地など試され、ご学友に誇りたい気持ちなど少々おありになったのでしょう。

「じい、早くゆくのだ」

 と、私めを急かす言葉にも、嬉しさが零れておいででした。

 私はいつもの番傘を持って参じたのですが、若君が立ち止まりこちらを見ていらっしゃいます。

 そして、軽やかに仰せになるのです。

「良いぞ、舶来の傘は。じいも入れ」

「畏れ多きことにございますれば」

「いいから、入ってみよ」

 万事開明(ばんじかいめい)の折、若君はご自身のことを麿ではなく、俺と申されます。庶民に近き響きありて、最初は如何なるものかと思ったものでした。

 今や若君は、新しい一人称に馴染んでおいでです。少し自慢そうに鼻を高くして仰るのです。

「濡れんだろう」

「左様でございますな。若は良き贈り物を受け取られました」

 若君は破顔され、水たまりをあちらこちらと覗いておられました。

 私は逐一付き従い、傘からはみ出す肩に番傘を差掛けたのでした。若君の気付かぬように。

 ご学友の反応でしたか。

 それはもう…とお伝えしたいところですが、私共の自慢の若君は夕刻まで水たまりでお過ごしになり、ついに学校へは行かれずに終わったのでごさいます。

 ご安心なさいませ。

 格之進(かくのしん)様の命にて、様々の方面に通じたる学者の皆々様が直々にお屋敷へ参られます。

 若君の御教育については、何ら心配のないよう取り計らってあるのでした。


 勘解由小路琢磨(かでのこうじたくま)様は、水遊びを大変好まれます。

 夏のことにて、静養先にも選ばれるほど清涼なるこの地には様々の訪問者が寄せてこられるのです。

 あれは若君が十をいくつか越えられた時分のことに御座いましょうか。

 格之進(かくのしん)様の縁にて、御令息ご令嬢が当屋敷にて夏を過ごされることも、珍しくはなかったのでごさいます。

 若君はその日、裏手の井戸にて凉をとっておいででした。

 湧水ゆえ、夏でもかなりの冷たさがあるのです。瓜など浮かべておけば、大層おいしく感じられるのでした。

 若君は半身をさらし、お体を晒しで擦っておいででした。

 乾布摩擦とは健やかなる肉体を育む秘策にて、励行されたし。

 学者の某が奏上したことを、生真面目に日課としておいででした。

 他家のご令嬢方など、客人用の離れにてお過ごしいただいているはずが、たまたま迷っておいでになったのでしょう。

 女人の絹を裂く声が、蝉の唱和を破ったのでございます。

 私めも、即座に駆けつけました。

 間違いなどあってはなりませぬ。

 勘解由小路琢磨(かでのこうじたくま)様は、健やかなる上半身を晒しで磨いておいででした。

 光るような肌が目に眩しく、女人が叫ぶも是非もなく。私はよろめきながら申しました。

「若君」

「なんだ、じい」

「せめて下帯はつけられませ」

「いやだ」

 天に寵愛されし自然児とはかくの如し、首を縦には振りませぬ。

 ご令嬢は、絹を裂き続けていらっしゃいます。

 女中が参り、女人には目の毒と諭しつつその場を離れます。

 若君は敢然と、健やかなる肉体を日にあてておいででした。

「今のはなんだ、じい」

「女人の前で、御姿を晒されてはいけませぬ」

「何故」

「……その、大変申し上げにくき事にて…」

「申してみよ」

「畏れながら、人は比べずにはおられぬ性質あり。お(しるし)の尺など、他家の公達と比ぶるに誹られる恐れありかと」

「…じい」

「…はっ」

「その気掛かり、捨ておけ。少しも心配いらぬゆえ」

「何故に…ございますか」

「天上天下に唯一。この勘解由小路琢磨(かでのこうじたくま)、他者に引けをとることも無しと思えば。その望月の、欠くることなし。…ちがったか」

 私は黙して頭を垂れました。

 若君はかくの如し健やかなる、天に寵愛されし自然児にて。如何なることも、風の如き涼やかさで受け流されるのでごさいます。

 使用人は若君の資質をよく心得、足並み揃えてお仕えしておりますれば。

 我が殿格之進(かくのしん)様とご令室朱鷺子(ときこ)様も、家内安全一家団欒つつがなくお過ごしになられるのです。

 これもひと夏の小話にて。では、ご機嫌よう。(


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