第8話:ネットカフェの片隅で
数日ぶりに、まともに眠った気がした。
けれど、目覚めた瞬間から、胸の奥が重い。
何かが、もう戻らない場所に来ている。
そんな感覚だけが、確かにあった。
亮のメッセージが、頭を離れなかった。
あいつの、妙に湿った言い回し。
過去の思い出を唐突に持ち出してきた、あの気持ち悪い言葉の並び。
妹に何かあったら、俺は……。
もう、怖がってる場合じゃない。
怯えて動かないうちに、全部終わる。
そう思った俺は、その日から“行動”を始めた。
***
手始めに、殺人権の取引プラットフォームの過去ログを引っ張り出す。
そこから、バイヤー「m32_wright」の過去の動きを洗っていく。
照合ツール?監視ソフト?
そんな高度なもんは持ってない。
スマホ一台。
無料のネット掲示板。
不便な検索機能。
それでも、俺は“知ろうとする”ことをやめなかった。
仕事終わりに、そのままネットカフェへ行く。
一晩中スクロールして、目を擦りながら文字を追う。
睡眠時間は3時間。
飯はコンビニのカップ麺と、プロテインバーだけ。
シャワーもろくに浴びていない。
それでも、身体の疲労よりも、「間に合わないかもしれない」という焦燥感のほうがずっと勝っていた。
***
ある深夜、ようやく一つの書き込みに辿り着いた。
【過去ログ】
No.882 :名無しさん@匿名取引所 :
m32_wrightってアカウント、2年前に一回だけ反応もらえたことある。
プロファイルコードっていうの送ったら、自動返信で英語の暗号っぽいの返ってきた。
内容は意味不明だったけど、向こうから反応があるってのはガチ。
コードは「N-J_4519alpha」だった。多分、毎回違うかもしれんけど。
プロファイルコード。
……聞いたことない単語だ。
試しに、そのコードを自分の取引用アカウントから、m32_wrightに送ってみた。
……反応は、ない。
予想通りだ。
今さら俺一人の送信に反応するほど、単純な仕組みじゃない。
それでも、やれることはやる。
俺は別の掲示板、SNS、古いデータキャッシュ……使えるものは全部使った。
プロファイルコードに関する書き込みは少ないが、確かに“過去に存在していた”。
直人——中村直人という、ただの配達員がやるには、無茶な行動だった。
でも、それ以外にできることがなかった。
***
世の中は、静かに壊れ始めていた。
ニュースではまた新たな事件が報じられていた。
ある資産家の屋敷に火炎瓶が投げ込まれ、門の前に「殺人権制度をやめろ」というスプレーが残されていた。
暴動の火は、無作為な暴発から、徐々に「富裕層」へと矛先を変え始めていた。
そして——
殺人権の高額取引が、徐々にニュースで取り上げられるようになってきた。
少し前までは、売主や加害者の名前が報道に出るのが当たり前だった。
それが最近では、「売主:匿名希望」「購入者:非公開」といった表記が目立つようになってきた。
まるで、誰かが背後から情報を操作しているかのように。
【ニュース】
「殺人権、過去最高額での取引。買主は政治関係者の親族か」
「匿名間取引のリスク拡大。規制強化の議論進まず」
名前が出ない。
誰が売って、誰が買ったのかすら、もう分からない。
「……なんで、こんなタイミングで急に匿名取引なんて?」
疑念が、喉の奥でゆっくりと膨らんでいった。
情報が伏せられていく今こそ、何かが動いている——その証拠のように思えた。
***
銃を手にしていた犯人の顔が、ふと脳裏をよぎる。
一ノ瀬議員を殺したあいつ。
あんなやつが、どうやって銃を手に入れたのか。
もしかすると——バイヤーが手引きしたのかもしれない。
ただの情報屋じゃない。
ただの仲介人でもない。
意図的に社会を壊す歯車を、ばらまいている。
それが、m32_wrightの正体だ。
***
妹のことを考えるたび、胸が締めつけられる。
あの子は、まだ14歳だ。
俺が何も知らないふりをしていたら、
気づかないうちに、あいつに巻き込まれて、
取り返しのつかないことになるかもしれない。
何があっても、それだけは避けたい。
だから俺は、今日もキーボードを叩き続ける。
震える指先で、画面の奥にある”意志”を引きずり出すために。