第5話:はじまりの火種
誰にも期待されなかった。
怒鳴られた記憶も、褒められた記憶も、あまりない。
家に帰っても、テレビの音が流れているだけだった。
俺の存在は、空気より軽かった。
頑張る理由も、夢を見る理由も、どこにもなかった。
それでも社会は言う。
「働けば報われる」って。
「努力すれば、きっと」って。
……ふざけんなよ。
***
バイトは長く続かなかった。
真面目にやっても、少しミスすれば「代わりはいる」って言われた。
そのくせ、家賃と光熱費と飯代で、手元に何も残らない。
俺は、浪費に逃げた。
酒、ギャンブル、課金ゲーム。
短い快楽で、何かをごまかそうとした。
だけど、どれもすぐに飽きた。
残ったのは借金だけだった。
何かに期待される人生がほしかった。
けど、俺が期待されたのは——殺されるためだった。
***
殺人権を売ったのは、成り行きだった。
なんとなく登録して、軽い気持ちで「売却ボタン」を押した。
冗談みたいにすぐ、通知が来た。
「落札されました」
「指名されました」
スマホの画面に映る、自分の名前。
冷たい汗が背中を伝った。
支払われたのは、たしか六十数万。
借金を、半分ほど返した。
督促の電話が止まって、ほんの少しだけ息ができる気がした。
でも、それだけだった。
生活は何も変わらなかった。
むしろ、「あとは殺されるだけ」って思うと、何をしても色がつかなかった。
未来が見えないって、こんなにも空っぽなんだなって思った。
***
何日経っても、誰も来なかった。
一日、二日、三日……
その間に、体調は崩れた。
バイトも切られた。
けれど、死神だけは、来なかった。
街は今日も平和だった。
俺だけが、死と隣り合わせの日常を送っていた。
怖かった。
でも、もっと怖かったのは、「いつまでこれが続くのか」だった。
——もう、耐えられない。
その夜、俺は財布の中に残っていた小銭を握って、近所のコンビニに向かった。
タバコを買うためだった。
それが、最後の贅沢。
***
途中、小さな横断歩道の前で立ち止まった。
目の前を、ベビーカーを押した夫婦が通り過ぎた。
若い夫婦だった。
男が女に笑いかけ、女がそれに笑い返す。
子どもは静かに眠っていた。
——なんだよ、それ。
胸の奥で、何かが軋んだ。
自分にはなかったもの。
これからも手に入らないもの。
それを、何気なく持ってる奴ら。
——なんで、こいつらが生きてて、俺が殺されるんだ。
気づいたときには、ポケットに入れていた折り畳みナイフを握っていた。
足が勝手に動いていた。
頭は真っ白だった。
次の瞬間、
血の匂いが、鼻を突いた。
***
俺は走った。
叫び声が背後で響いていた。
でも、もう何も聞こえなかった。
泣きたいのは、こっちの方だった。
でも、もう止まれなかった。
止まったら、全部終わってしまいそうで。
誰も、俺を見ていなかった。
ずっと、そうだった。
だったら、
最後くらい、見せてやるよ。
俺のこの人生が、
どれだけ惨めで、どれだけ無価値だったか。
この血が、証明してくれる。