第10話:何も変わらないふりをして
風が強かった。
ビルの上にある病院の屋上は、外気にさらされていて、そもそも患者が出ていい場所じゃない。
けど、未央はこの場所が好きだった。
「風、気持ちいいね」
車椅子の背もたれにゆるくもたれかかって、毛布にくるまれたまま、未央は空を見上げて言った。
こんな天気で、そんなセリフ出てくるのかよ、って思ったけど、俺はうなずくしかなかった。
「……そうか」
最近、こいつがこうして穏やかな顔をするのは久しぶりだった。
ニュースやSNSで流れてくる陰鬱な事件の数々を、なるべく見せないようにしてる。
“殺人権”とか、“暴動”とか、“社会崩壊”とか、そんな言葉とは無縁でいてほしかった。
「たまには外もいいよ。病室って、時間止まってるみたいだもん」
そう言って笑う未央の横顔が、なんだか壊れ物みたいに見えた。
今、この時間がずっと続けばいいのに、なんて。俺にしてはらしくないことを思ってた。
「そういえばさ、先生変わったんだよ」
不意に出たその一言に、俺は一瞬だけ思考が止まった。
「……先生?」
「うん。前の、ちょっと変わった喋り方の人。いきなりいなくなって、新しい人が来たの。若くて優しいんだけど、なんか不慣れっぽい感じ」
俺は反応に困った。
医者が異動になるなんて、別に珍しいことじゃない。
けど、このタイミングで、“いきなり”ってのが引っかかる。
「なんか言ってた?その、理由とか」
「ううん。みんな何も言わないの。でも……看護師さんも減ってる気がするんだよね」
嫌な予感がした。
もしかして、その医者——
いや、考えたくはないけど、今の状況ならありえる。
殺人権での指名。
もしくは、殺人権すらない“無敵の人”による暴走。
どっちにしても、“医者が狙われる”ってのは、完全に一線を越えてる。
もう、「社会的地位があるから安全」っていう前提は崩れてる。
未央の病院も、そのうち何か起きるかもしれない。
そのうち、じゃないな。……もう、起きてるのか。
***
病院のエレベーターを待ちながら、スマホを開いた。
ニュースアプリには、朝からヤバい見出しが並んでる。
「富裕層、殺人権の買い占め加速。市場は過去最高額を更新」
「“親族間プロテクト”が新トレンド。互いを指名して防衛網形成か」
「医師襲撃事件、犯人は精神疾患で不起訴の見通し」
どう見ても、もう崩壊の入り口。
人を殺すのに“権利”がいる社会で、その権利を守るために人が殺されてるって、なんだよそれ。
エレベーターのドアが開いた。
乗ってきた男が二人。
私服だけど、妙に落ち着かない様子。
ただの見舞い客には見えない。目つきが違う。
——自警団か、もしくは何か武器を持ってる可能性すらある。
病院の中で、だぞ?
心のどこかで、「もうここは安全じゃない」ってわかってたけど、こうして目の当たりにすると、現実感がエグい。
正面のガラス越しに、病院の敷地の外が見えた。
道路沿いに若いやつらが数人、たむろしてる。
タバコ吸ってるやつ、コンビニ袋をぶら下げてるやつ、笑い声がやけに大きい。
……なんだろうな、あの空気。
ただ騒いでるだけの若者、じゃない。
どこか張り詰めてて、でも退屈そうで。
「何かあればすぐ暴れるぞ」って雰囲気が滲んでる。
もう、“異常”はすぐそこまで来てる。
誰が殺されてもおかしくない。
未央も、俺も、あの医者も。
順番なんてない。ただ、タイミングの問題。
社会ってのは、ある日いきなり壊れるんじゃない。
壊れ始めてるのに、それに気づかないまま、日常を続けてしまうから手遅れになる。
でも俺は、もう気づいてる。
そして、それが一番怖い。