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ざまぁされない殿下と、噛み合わない溺愛

作者: 五月ゆき


初夏の日差しが差し込む昼下がり。


王の末の子であるアレクの私室には、昨夜の宴の残り香が未だに漂っていた。酒と香水、それにほのかなおしろいの匂い。昨夜は王宮中の女たちを集めたような乱痴気騒ぎだったのだ。アレクについている侍女たちだけでなく、上のきょうだいたちの侍女や、メイドに下働きまで。


「女であれば誰でも通してやれ」という主人の命令に従って、私室を護る衛士たちは門を開けていた。彼らは皆一様に渋い顔をしていたが、なに、アレクがこのような宴を設けるのは今に始まったことではない。部屋を訪れる女性たちも慣れたものだ。


「……これは完全に二日酔いだ……」


アレクは呻きながらも、ベッドの上でだらしなく上半身だけを起こした格好のまま、用意された病人食をなんとか食べきる。それから食後の茶を飲んで、ほっと一息つく。


そこへ、侍女からすかさず一通の手紙が差し出された。

アレクはその手紙を見下ろし、そして眼をそむけた。


「またか……」

「殿下」


露骨にげんなりとした声を出してしまったからだろう。乳兄弟でもある侍女からは嗜めるように呼ばれる。


しかし公爵家の紋章入りの封筒に見慣れた筆跡ときたら、アレクの気分がずどんと重苦しくなってしまうのも仕方がないことだろう。麗しの婚約者殿から、またお小言の手紙だ。中身を読まなくともわかる。それはもう遠回しに婉曲に、貴族らしく言葉を飾りつつも『もっと自分の立場をわきまえて行動してください』という一点が書いてあるのだ。いっそ一言でよくないか? とすら思う。婚約者殿はネチネチと、それはもうネチネチネチネチと説教することについて多大な才能がある。


だいたい婚約者殿にいわれなくとも、アレクは十分に自分の立場を理解している。王の子の中でもアレクは歳が一番下だ。すでに立派な王太子が立っている王宮で、アレクに寄せられる期待などない。すり寄ってくる貴族すら少数だ。アレクが日々を自由気ままに好きなように過ごしていたところで問題はない。小言を浴びせてくる婚約者殿以外には。


「いい加減、婚約を解消したい……」

「それは先方にお断りされていたではありませんか」


侍女に再び窘める口調でいわれて、アレクは額を押さえた。どうしてこうなった。


確かに、かつて婚約者になることを望んだのはアレクのほうだった。

アレクが十五歳、相手が十三歳のときの話だ。

その頃の婚約者殿は今のようにネチネチ小言を言ってくることはなかった。むしろ非常に物静かで、無口で、ほとんど何も喋らなかった。


あれは育った環境が影響していたのだろうと、アレクにもわかっている。

公爵家は名門だが、当時の家庭内環境はよくなかった。婚約者殿の父親は表向きは真面目な人物だったが、屋敷の中では酒におぼれて暴力も日常のことだったらしい。そのためかはわからないが、母親は早くに亡くなってしまった。それから半年と経たずに父親は愛人とその子供を屋敷へ連れ込んで、実子をいっそう目の敵にしたのだという。


当時十五歳だったアレクは、公爵家の夜会を抜け出した先で、偶然、暴力の現場を目撃した。

そこからは細い手首を掴んで、公爵家から連れ去るようにして王宮へ駆け込んだのだ。そして両親に頼み込んで婚約者にしてもらい、王宮に部屋を用意してもらった。


『恩を着せるつもりはないし、きみと本当に結婚するつもりもない』


その話は、王宮に連れてきた最初の日にした。


自分は結婚して家庭を持つというのは考えられないし、この婚約は一時しのぎみたいなものだと。とりあえずの緊急避難だと思ってくれと。きみがあの親に真っ当にやり返せるようになったら公爵家に帰ればいいと。いくら愛人の子を可愛がろうとも、血筋からいって公爵家の跡取りは君だから、その点は心配いらないと。でもきみが公爵家を捨てたいというなら、それはそれでどうやって生きていくかを考えたほうがいい。まあしばらくはよく休みなさい。そんな話をした。


あれから七年。婚約は未だに解消されていない。


ちなみに公爵家の家庭環境最悪問題に関しては、婚約者になってから三年後に、当主の様々な醜聞が明らかになるという形で代替わりを果たした。


公爵家の名誉は地に落ちたが、跡を継いだ若き婚約者殿が方々へ頭を下げ、真摯に謝罪したことにより、新たな当主へは同情が集まった。さらには婚約者殿の巧みな話術と類まれな美貌、そして魔道具開発における桁外れの才覚を示して莫大な富を築いていくと、社交界の人々はたちまち手のひらを返して公爵家を褒め称えた。


めでたしめでたし、一件落着である。


しかし婚約は未だに解消されていない。


婚約者殿の小言は年々増加の一途をたどっている。昨夜のような女性たちを集めた宴についても説教をしてくるが、最近は特に、アレクが聖女と名高い男爵家の令嬢と親しくしていることが気に食わないらしい。『ご自分の立場をわきまえて行動なさってください』から始まる小言が止まらない。アレクもいい加減、聞き流すことに関しては一流の技術を身につけているが、それはそれとして婚約は解消したい。円満な婚約解消こそが婚約者殿にとって最善である。


「わたしに問題があっての婚約解消だと父にも母にも伝えるし、きちんと慰謝料も払うといったのに、どうして……!」


「公爵家の財力と、あの方の数々の発明品が生み出した莫大な富を考えますと、殿下の提示した慰謝料は微々たるものだったのではないかと」


「いつ正論が聞きたいといった?」


憮然として睨みつけると、侍女はそっと目をそらした。


アレクの婚約者殿は、二歳年下だというのに、すでに数々の斬新な魔道具を開発し、国内外にその名をとどろかせている。


特に有名なのは、大地の浄化を行うことのできる魔道具だ。

魔物の放つ瘴気は人間だけでなくその土地や動植物まで病ませてしまうため、魔物本体を倒した後でも、その土地にはしばらく住めなくなってしまうという困難な状況も往々にして起こっていた。

教会には浄化を行う神官や聖女がいるが、土地そのものを浄化できるほどの高位の能力を持つ者は限られていて、主要都市以外では派遣を要請することも難しいのが現実だった。


大地の浄化機能を持つ魔道具は、その状況を一変させる画期的な発明だった。


無論、魔道具にもまだ難しい面はある。性能の良い物ほど量産は難しいのも事実だ。しかし、それでも新たな希望が差したといっても過言ではなく、婚約者殿の名声は大陸中に轟いた。


さらには婚約者殿の容姿は月の化身と詩に称えられるほど麗しく、長い黒髪はまるで夜空を映す湖のように輝き、その瞳は星をはめ込んだかのように美しい。


名門公爵家当主という地位に権力に頭脳に財力、さらに美貌までも兼ね備えているとあって、王家の末っ子のアレクなどよりよほど引く手あまただ。

揃って夜会へ出たときなどは、釣り合っていないといわんばかりの視線を向けられることも多々ある。婚約してからもう七年になるというのに、今でも公爵家には国内外から釣書が届いている。国外はともかく国内はいいのかそれで。王家の面目丸つぶれだとは思わないのか? 少々疑問である。


「殿下が七年も婚約のまま放置されているからでしょう」


アレクの心を読んだように侍女が嘆いた。


「お二人は不仲で、婚約破棄も間近ではないかと常々噂されておりますよ」


「噂もたまには的を射るものだな」


「もっとも、夜会でそのような話を振られるたびに、あの方がきっぱりと否定なさっているそうですけど。溺愛しているのだと仰っているそうですわ」


「嘘を広めるな嘘を。結婚しないままもう七年だぞ? わたしはともかく婚約者殿はそろそろ結婚しないとまずいだろう」


「殿下のほうがまずいと思いますわ」


「わたしはいいんだ。わたしは好きに生きると決めているから。陛下も認めてくださっている。あぁ、思い起こせば十年前、魔物が攻めてきたという知らせを前に、わたしは立派な騎士になると叫んで剣を抜いて王宮を飛び出したものだ……。あれ以来両親はわたしに何もいわなくなった……」


最近では、ねだったら騎士団まで創ってくれた。

由緒正しき第一騎士団、第二騎士団に加えて、アレクを騎士団長とする第三騎士団の新設である。

現在、他の騎士団から落ちこぼれた面々による少人数で活動中であり、周囲からは『殿下のお遊び騎士団』という蔑称をほしいままにしている。いいのだ、大所帯だと好きに動けなくなるから。国内をフラフラ出歩くには、軽んじられているくらいがちょうどいい。こちらには野心も裏もないというのに、下手に警戒される方が面倒だ。


「国王陛下も王妃様も、本心では、殿下に身を固めて落ち着いてほしいと願っておられますよ」


「わたしは十分落ち着いているだろう」


「では、ロフェ男爵家のリティ様がお見えになっておりますが、お通ししなくてもよろしいですね?」


「バカをいうな。わたしが呼んだんだぞ。礼を尽くしてリティ嬢をお迎えするように」





ロフェ男爵家のリティ嬢は、柔らかそうな桜色の髪をした可愛らしい令嬢だ。希少な光魔法の使い手としても名高く、その高い浄化能力によって教会から聖女の認定を受けている。


ただ、ロフェ家は歴史が浅く、社交界では成り上がりの男爵家と蔑まれることも多かった。教会においてもそれは同じだったそうで、その立場の弱さから、リティ嬢は教会上層部にいいように使われてしまうことがたびたびあった。この国を思っての発言や提案さえ聞き入れてはもらえなかった。


そこで彼女はアレクを頼ってきたのだ。


アレクは彼女の話を信じた。

聖女である彼女がいうところによれば、魔物の出現は事前に予測することが可能だという。初めて聞いたときはアレクも『これは誰も信じないだろうな』と思った。魔物というのはいつどこに現れるかわからない存在だ。教会では、魔物の存在は愚かな人間へ対する神の罰だと唱える人々もいる。ちなみに結構な多数派だ。


しかし桜色の髪の聖女が話すところによれば、魔物の出現前には必ずその土地の空気が淀むのだという。彼女は何度もそれを感じてきたのだと。その淀みを明確に立証することができたら、魔物の被害は大きく減らせるだろうと熱心に語られて、アレクは信じた。


聖女の熱意に心を打たれたのだ。

決して彼女の潤んだ瞳に落とされたのではない。断じて違う。


それからアレクは、両親に頼んで自分の騎士団を作ってもらった。“空気の淀み”を調査するためだ。周囲の理解を得ることは難しいだろうとわかっていたので『殿下のお遊び騎士団』という認識を正そうとは思わなかった。真実はいずれ調査と研究の結果が出たときに明らかになるだろう。まあ今のところ、めぼしい成果は得られていないのだけど、こういうことは気長にやっていけばいいのだ。


アレクは寝台から降りて彼女を迎えに行った。


室内は人払いをしてあり、彼女と二人きりだ。


彼女はアレクの手を両手で握りしめると、そのまま寝台へといざなかった。

アレクは大人しく彼女についていって、二人でベッドの上に座り込む。


「忙しいところをすまない。少し二日酔いでね」


「殿下のお呼びとあればいつでも駆けつけますわ」


リティ嬢が愛らしく微笑む。

アレクは大袈裟なほど感嘆の息を吐いた。


「あぁ、貴女の優しい言葉とその微笑みは特効薬だな。このしつこい頭痛も胸の痛みもたちまち和らいでしまったよ」


「まあ、殿下ったらお上手なんですから」


リティ嬢はくすくすと笑って、アレクの額にそっと手を当てた。

その細くか弱い手を通して、彼女の温かさが伝わってくる。婚約者殿の説教のこもった手紙の後では、その温もりに心まで癒されるようだった。


アレクは、愛らしい彼女に勧められるままに、寝台に身体を横たえた。

桜色の瞳が上からアレクを覗き込んでくる。リティ嬢はひとしきりアレクの身体に触れた。


寝台の上で事が済むと、リティ嬢はサイドテーブルに置きっぱなしだった手紙に気づいて表情を硬くした。


「殿下、その手紙はもしかして……」


「あぁ……。麗しの婚約者殿から、いつも通りのお小言だよ」


リティ嬢はそっと目を伏せて、どこか怯えた様子でいった。


「実は先日、あの方がわたしを訪ねていらっしゃったのです」


「えっ……、すまない、君に何か失礼な真似をしただろうか?」


「それが『日頃から殿下が世話になっていることへの礼』だと仰って、大金を渡されましたの」


「うわ……。いや、すまない。本当にすまない。わたしたちはただの友人だと何度もいっているんだが、どうも疑い深くてね。しかし今度こそ言って聞かせるから」


「殿下、わたくし、もう友人といい張ることは難しいと思いましたのよ」


リティ嬢はひどく心配そうな瞳でアレクを見上げていった。


「たとえ殿下が結婚されても、わたくしの心は変わりませんわ。わたくしを呼んでくださるなら、いつでもお傍に参りますから。どうか、あの方に本当のことを話して、わたくしとの関係を認めてくださるようお願いしていただけませんか……?」





リディ嬢との癒しのひと時の後は、婚約者殿との憂鬱なお茶会だ。


というか呼んでもいないのに婚約者殿がやって来た。リディ嬢が帰ってからすぐにだ。タイミングがよすぎて怖い。


アレクは重苦しい空気の中、無言でひたすらに紅茶を飲んだ。


お茶会といっても中庭などではなく王宮の一室だ。外へ出るのは侍女に反対されたし、かといってさすがに婚約者殿を寝室に招くわけにもいかない。アレクは愛でる花すらない室内で、婚約者殿と向かい合っていた。


「ロフェ男爵家のご令嬢がいらっしゃっていたそうですね」


「友人だからね。ちょっとした世間話をしたんだ」


「そうでしたか。世間話で顔色が良くなるとは、殿下も珍しい体質の持ち主でいらっしゃる」


「きみこそ、彼女にずいぶんと礼儀正しく振舞ってくれたみたいじゃないか。わたしの大切な友人だと、何度も伝えたはずだが?」


「ええ、何度も聞かされましたね。彼女はただの友人で、婚約者に明かせないようなことはなにも無いのだと。ご存じですか、殿下? 愉快なものですよ。子供騙しの作り話を大人になってから何度も聞かされるというのは」


「きみの遠回しな言い回しを愉快に思えたことはないね。いいたいことがあるならハッキリいってくれ」


「では……」


婚約者殿が立ち上がった。無言で傍へやってくる。


アレクは顔をしかめた。


長身の婚約者殿に傍に立たれると、それだけで威圧感がある。


婚約者殿の長い黒髪は一つに纏められていて、光沢のある白のシャツに首元のクラバット、それに繊細な刺繍の施されたウエストコート姿は、その名前を知らない者であっても一目でそれとわかるほどの高貴さを漂わせている。


若き公爵家当主として完璧だろう。その怒りの滲む闇のような瞳を除いては。


婚約者殿は、射殺すような強さでアレクを見下ろして、口を開いた。




「それでは、はっきりと申し上げます、()()()()()()()殿()()




あ、これは長いお説教が始まるなと、アレクは悟った。


この婚約者が愛称のアレクではなく『アレクサンドラ』と呼ぶときは、怒りが限界近くまで溜まっているときだ。スーパーネチネチタイムの始まりを告げる鐘である。アレクは即座に聞き流す態勢へ移行した。


「殿下は私が何も気づかない愚か者だと思っているのでしょうか? それとも愚か者であってほしいという願望ですか? どちらにしろお応えすることはできませんね。貴女とあの男爵家の聖女が陰でこそこそ何をしているか私が知らないとお思いか? 貴女は十二歳で安寧を捨てて民を守るために騎士団へ入り、散々馬鹿にされ蔑まれ邪魔者扱いされながらも、功績を上げて人望を得て、実力で副騎士団長まで登りつめたのですよ。それをあんな女の話を鵜呑みにして何もかも捨ててしまって! あの女が訪ねてきたその日に騎士団を辞めると団長へ話をしたそうですね? 私が何も知らないとお思いか? あいにくですが、騎士団長の弱みの一つや二つ握っているんですよ。当然でしょう、貴女の傍にいた男なのですから。貴女は随分あの男を尊敬していたようですが、あの男は仕事ができるだけで女性関係のだらしなさは最悪でしたよ。仕事ができればいいというものではありません。その点、私でしたら、その、女性に丁寧だと社交界でも評判なのですよ。私のような男を夫にしたいと考えるご令嬢や貴婦人は大勢いるのです。殿下は御存じないでしょうが、我が公爵家には未だに多くの釣書が届いています。それもこれも私の夫としての有望さを示す証拠でしょう。ゴホン、とにかく、あの男が貴女を不当に扱ったときの保険として握っていた情報を、まさかあんな女の話を聞きだすために使うことになるとは思いませんでしたが、私は知っているんですよ」



今日も話が長いなあと思いながら、紅茶を一口飲む。王宮の紅茶は冷めてもおいしい。


話の大半は聞き流したが、元上司である騎士団長の話をしていたような気がする。


あの人は本当に女性関係が派手だった。仕事ができた上に容姿もよかったからだろう。自分も面食いなので女性たちの気持ちはわかる。



「いいですか、殿下? 私が問題視しているのは、貴女が騎士団を辞めたことではありません。貴女が辞めたいと思ったならいつ辞めてもいいのです。しかし、あの聖女の胡散臭い話を聞いたその日に辞める決意を固めるというのはいかがなものでしょうか? まず身近な人間に相談してみてもよかったと思いませんか? 魔物や浄化の話であるなら、なおさら、そういったことに詳しく、優秀で有能で、魔道具作りの天才と謳われる男が貴女の傍にいるではありませんか。私は婚約者ですよ? 真っ先に貴女に相談を受ける権利があると思うのですがいかがですか? 騎士団長には相談しておいて私にはなぜ事後報告なのですか? 非常に理解に苦しみます。殿下は昔から婚約というものを軽視なさっておいでですが、婚約とは婚姻における契約であり、社会的にも重要視される関係なのです。軽い気持ちで解消などできるわけがないでしょう。残念でしたね。こうなるのが嫌だったら貴女はあの屑を刺し殺そうとする私を止めるべきではなかったし、王宮へ連れて帰るべきでもなかったんですよ。公爵家で親殺しが起ころうと見て見ぬふりをすればよかったのに、貴女はよりにもよって婚約という首輪で私を繋いだのですから、責任は取っていただかないといけません。いいですか、殿下? 昔からいうでしょう。拾った犬の面倒は最後まで見ろ、と。ええ、ですが殿下、私は貴女の足を引っ張るような男ではありません。公爵家は掌握しましたし、魔道具開発によって富と名声も得ました。貴女が保護するべき犬ではなく、実績と能力を兼ね備えた貴女の未来の夫です。貴女が悩み事を抱えたときに『相談したいな』と感じるには最適の相手であると自負しています。にも関わらず、貴女は、騎士団を辞めた件については事後報告しかしてくださらなかった。あの軽薄な騎士団長には話をしたというのに。もしや殿下は、私が未来の夫であることをお忘れでしょうか? まさか未だに婚約解消ができると思っていらっしゃる? ははっ、貴女は本当にそういうところが忌々しいほど甘いですね。これは国王陛下が認めた婚約です。今さら逃げられるはずがないでしょう」



話はほとんど聞いていなかったが、婚約者殿がいきなり低い声で凄んできたので、アレクもさすがに顔を上げて彼を見た。


婚約者殿の闇色の瞳は、ぎらぎらと、こちらを食い殺さんばかりの激情を湛えている。


『すまない、話が長くて聞いていなかった』ともいえずに、アレクは誤魔化すように微笑んだ。婚約者殿が怯んだ顔をしたので、さらにニコニコ笑ってみせる。


別に作り笑いをしなくとも、婚約者殿を前にすると自然と笑みが浮かぶ。なんといっても眩い美形だからだ。婚約者殿はスーパーネチネチタイムですら、月の化身と称えられる美貌は揺らがない。アレクは面食いなので婚約者殿のことは普通に好きである。


「……っ、わかっています、貴女が、どうしても、絶対に、私との婚約を解消したいというなら私は……、ですがっ、私はまだ殿下の婚約者です。貴女が瘴気に当てられて苦しんでいるなら、私には知る権利があり、貴女を助けるために動く義務があるのです。わかりますか、殿下? これは婚約者の義務であり責務です。これを蔑ろにしては国王陛下の私への心証も悪化することでしょう。私が苦しむ貴女の元へ駆けつけてできる限りの手を尽くすというのは、これは断じて私の願望ではなく、果たすべき義務なのですよ。だというのに殿下、婚約者である私には知らせの一つもないままあの聖女を呼び出すというのは、いったいどういうお考えなのでしょうか? よろしいですか、殿下? 殿下があの聖女の話を聞いて、魔物の出現を事前に防げるかもしれないという可能性に、ご自身の人生を賭けるだけの価値があると判断されたことについては、私は何も申し上げません。殿下がそう決められたのなら、私は婚約者としてお支えするだけです。ええ、それが婚約者の義務ですから。ですが殿下は、この良くいっても夢物語のような、悪くいえば気が触れたような計画に、公爵家当主である私を巻き込むことはよろしくないと考えられたのでしょう? 王女とはいえ八番目の末の子であり、昔から問題児扱いされていた自分はともかく、とね? 殿下の短絡的な思考など手に取るように分かります。殿下から婚約解消を持ち掛けられたときには、この絶望のままに世界を滅ぼしてやりたいとすら思いましたが、殿下が私の立場を憂慮されたのだろうことはすぐに気づいたので、作りかけていた破壊兵器も処分したのですよ。しかし殿下、あまりにも言葉が足りなすぎるとは思われませんか? 殿下が口にするべきは「婚約は解消しよう」ではなく「きみの力を借りたいんだ」であるべきであったとは思われませんか? 「わたしを助けてほしい」や「きみが必要だ」や「きみは頼りになる」や「きみを信頼している」や「きみと早く結婚したい」であるべきだったと思いませんか? 私は思いますね。殿下は私に事情を説明して助力を請うべきです。なぜなら私は殿下の婚約者ですので。この世に二人といない貴女の婚約者です。未来の夫なのですよ。さらには地位も権力も実力も兼ね備えています。これほど頼る相手として最善の選択肢はありません。にも関わらず殿下は、未だに私に何の話もせず、『殿下のお遊び騎士団』などという悪評が私にも通じると考えていらっしゃる。信じがたい話です。これは大きな過ちです。どうして婚約者たる私が貴女の口から何も聞けずに、己の情報網から情報を得て判断するしかないという境遇に追いやられているのですか? これはあまりにも不遇です。私は人生でこれほどの不遇をかこったことはありません。殿下は私を巻き込みたくないとお考えなのでしょうが、そのような配慮は未来の夫たる婚約者相手には相応しくないと、どうしてご理解いただけないのでしょうか? 常々申し上げておりますが、殿下にはもう少しご自分の立場をわきまえて行動していただきたい。この”行動”の内容について具体的に申し上げますと、有能で優秀な婚約者を頼るなどになります。特に、調査先で魔物に遭遇し、瘴気に当てられてしまったときは、真っ先に私に連絡をするべきです。いいですか、百万歩譲って、部下たちの前では強い騎士団長であろうとしたことについては何も申しません。まだ新設の騎士団で、部下たちも寄せ集めの者ばかりとなれば、貴女が強くある必要もあるでしょう。平気な振りをしたまま王宮へ戻ってきて、留守中の状況を把握するために宴を開いたことについても、五億万歩譲って目をつぶって差し上げましょう。本心を申し上げるならさっさと休んでくれとしかいいようがありませんが、王宮内の女性たちしか知らぬことが数多くあることは私とて承知しております。しかし、しかしです、殿下。なぜ翌日に呼ぶのがあの女なのですか? 確かにあの聖女は人体に対する破格の浄化能力を有していますし、現在の一般的な魔道具ではあの女ほどの効力は持ちえないのも事実です。しかし、それはあくまで一般的な話です。貴女の未来の夫である私は財力を持った天才です。人体の浄化に高い効果を発揮する魔道具をかき集めることもできますし、私自身が開発した物もいくつもあります。私は決して大地の浄化専門ではないのです。騎士団にいた頃の貴女が、瘴気に侵された土地やそこに住めなくなった人々について心を痛めていたから、婚約者として解決策を探っただけです。何なら今後は人体の浄化を専門としてもよいと考えています。殿下にとって最も頼りになる相手が誰であるかおわかりですね? そう私です。貴女にとって私こそが最も有能で優秀で優しくて格好良くて頼りになる最高の男であり、人生を共にする相手としてふさわしいはずです。あの女癖の悪い騎士団長や、か弱いのは見かけだけのしたたかな女狐聖女などより、私こそが貴女を護り支えることのできる人材です。いかがですか、殿下? いい加減、私の話をご理解いただけたでしょうか?」



紅茶のお代わりが欲しいなと思っていたアレクは、婚約者殿から発せられる音声が終了したことに気づいて、ハッと意識を現実に戻した。


凄みのあるオーラを放っている美貌の婚約者殿を見上げて、ここで何も聞いていなかったといったら鶏のようにキュッと締められるかもしれないと真剣に考える。婚約者殿は優雅さと高貴さを兼ね備えているが、実は結構過激なところがあるのだ。


婚約者殿の未来の妻になる人は大変だなと思うが、そのくらいの苦労はしてほしいとも思ってしまう。アレクは婚約者殿が好きであるし、いつか彼に愛を囁かれるのだろう誰かに嫉妬心もある。率直にいって羨ましい。自分なんて婚約者殿から長い長い説教しか囁かれたことがない。おかげですっかり聞き流すことと誤魔化すことが得意になった。


ひとまずアレクは婚約者殿を見上げて、にっこりと微笑んでごまかしの台詞をいった。


「ああ、よくわかったよ」


「───っ、本当ですか!? 今度こそ本当ですよね? 信じますからね? 責任を取ってくださいね?」

「わかった、わかった」

「今度こそ、ご自分の立場をわきまえて行動してくださいますね?」

「ああ、善処しよう」

「そっ……、それとですね。結婚式はいつになるのかと、陛下からせっつかれておりまして。いえ、私はいつまででもお待ちできますが、陛下がですね」

「わかった、父にはわたしから話をしておこう」


婚約解消する予定だとは何度も伝えてあるのにな、とは思いつつも、アレクは大きく頷く。


父のことは任せてくれという眼で見上げると、婚約者殿の白皙の美貌が朱に染まった。どうしたのだろうか。妙に嬉しそうだ。


「殿下」


婚約者殿はにいっと唇を引き上げて笑った。


「言質は取りましたからね」


婚約者殿はときどき怖い笑い方をする。




そんなことを呑気に考えていたアレクは、その数日後、公爵家が結婚式の準備を進めているとの噂を耳にして「え、誰と?」と呟いてしまうことになるということを、まだ夢にも思わずにいた。






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― 新着の感想 ―
そこはやっぱり、跪いて「貴女を愛しています」と言わなくちゃ駄目ですよね。屁垂れ公爵野郎様、肝心なセリフが抜けています!って誰か教えてあげればいいのに。
[良い点] 騙されたぁー(笑) の後の、スクロールしてもしても終わらない長いセリフ(笑) そのほとんどが愛の告白なのに聞いてない王女殿下(笑) 殿下聞いてあげてーー!!!(笑) [一言] めっちゃく…
[一言] ノンブレスの愚痴という名の惚気が凄い…!! そして確かにこれだけ醜聞があっても問題ないな確かに、と思いました。やりおる。 回りくどいけど『俺を頼って!甘えて!それだけの力は蓄えてるし?他の女…
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