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36話 オーバードーズ

彼は気付かぬ内に中層区画まで来ていた。


時刻はまだ夕焼けになる前の、帰宅ラッシュ直前の落ち着いた雰囲気の時間帯。


彼は辺りを見回したが、周囲の景色には見覚えがない。どうやら記憶が飛んでいた様だ。


彼は義足を引き摺るようにして歩き、通りに面した民家に寄りかかった。


そして、そのままストンと腰を下ろした。義足から力が抜けたのだ。


彼は無理に起き上がろうとはせず、下層区画とは比べ物にならない程に整備された通りを眺めた。


敷き詰められた石畳、重厚さとシックを兼ね揃えた建築群。下層区画の安っぽくて不衛生な街並とは雲泥の差である。


彼はそんな品の良い店舗の1つに目が行った。それは、ショーウィンドに多くのスピーカーとアンテナが飾られた、ラジオショップ。


気づけば、彼はこの街が故郷であるというのに、郷愁の念にかられていた。




彼が少年だった頃、ラジオブームが到来した。彼は両親に頼み込み、当時はまだ高価だったラジオを買ってもらい年中聴いていた。


そんな少年期の彼は、リスナーから投稿されたお便りを読む、1つの番組に熱中していた。その番組の司会者は驚くほど陽気で話のテンポがよく、人を笑顔にする天才だった。


だがその司会者も、彼が戦場から帰還したときには、番組からいなくなっていた。






981年3月、およそ1年ぶりに衛生兵が戦場に戻ってきた。


衛生兵は大分面子の変わった第三混合魔法分隊を見て、気まずそうに問うた。


「あの、機関銃手はどうしたのですか?」


後方にいた衛生兵でも、魔術兵と狙撃兵の事は聞いていたのか、其処に触れることは無かった。そして、彼女の質問に答えるように、新しく来た新人の機関銃手が口を開いた。


「前任者なら先月に」


通信兵は新人が最後まで話すことを良しとせず、口を挟んだ。曰く、機関銃手である彼女は、衛生兵と入れ替わる様に先月後方に行ったと。


その事に衛生兵は素直に喜んだ。これで機関銃手が死ぬことは無いと。そして、通信兵と機関銃手の未来を心から笑顔で祝福した。


帰ってきた衛生兵は変わらずに天使であり、通信兵は溢れ出す感情を抑えられず、涙を流した。


口を閉ざしていた曹長は話題を変えるべく、ニーズヘッグを直接見てきた衛生兵に質問をした。


「衛生兵、ディーラー達はどうだった?動いてくれそうな御方はいたかい?」


衛生兵は悲しそうに目を伏せ、首を振った。


「いえ、ディーラー達は相変わらずです。キャプテンは国際的な立場を理由に、直接的な参戦は見送るとの事です。ただ、海運は変わらずに続けてくれているので、実質的な味方ではあるのですが」


ディーラーの内、デュークは統治している支配領域外では脅威が半減する為、其処まで当てにならない。エントデッカーはキャプテンと同様に国際的な影響力に加え、出身地の問題で見送りを。超人とドクターには最初から期待していない。


動いてくれる確率が最も高かったキャプテンが動かなかった事を知らされ、場には重い沈黙が流れた。だが、いつも流れを変えるのは曹長だ。


「最終防衛ラインであるヴィームル河まで残り2キロ。突破されるのが先か、連合軍が音を上げるのが先か。勝負はこの1年で決まる」


深呼吸をした曹長は目に闘志を込め、宣言した。


「勝つぞ」







「おい、オッサン。ここはテメェみてぇな貧民がいていい場所じゃねぇんだけど?」


彼がラジオショップを眺めていると、柄の悪い格好に加え、武装をした3人の不良に絡まれた。


彼は気だるそうに若者達を見上げると、とある一点に目が離せなくなった。


「おい、ゴミ。聞いてんのか?なんとか言えよ、オラッ!」


話しかけて来た不良の一人は、顔をニヤけさせながら彼を蹴った。だが、彼の目には不良の一人が手にしたピストルしか映らない。あれは"Glisen M978"。連合軍の内、エーグル軍が制式採用していたセミオートマチックピストルだ。


彼は不良が殴る蹴るの暴行を加えてくる事など意に返さず、荒ぶる動悸と感情を抑えるため、ズボンから紙袋を取り出した。


「あぁ〜?なんだコイツ?ヤク中か?」


彼は錠剤をつまみ取るが、指が震えて零れ落ちる。何度かそれを繰り返した彼は、袋に手を突っ込み、錠剤を纏めて鷲掴む。


そして彼は、それを無理矢理口に押し込んだ。


ゴクン。







彼は思い出す。戦争が終わったあの冬を。

最終防衛ラインを、命を賭して守った、曹長を。

攻勢魔術に斬り裂かれた、衛生兵を。

死んでいった、多くの戦友達を。


そして、砲弾で亡くした、最愛の人を。






銃声が聞える。砲弾は着弾し、血と土を巻き上げ頭上に降り掛かる。攻勢魔術は空を赤く染め上げ、塹壕を灼熱の余波で蒸し焼きにする。周囲には泥と死臭が立ち籠め、現実感が薄れて行く。


3人の不良は銃弾に撃たれ、血の海に沈んでいた。


彼は久し振りに出した低く掠れた声で、静かに笑った。


「ハハハ、こうすれば良かったのですね、曹長。(みな)の声が聴こえます」


彼は立ち上がる。背筋は伸び、瞳は前を向き、左脚は最終戦線で失う前の、生身の様に滑らかに動いた。


彼は拾った。不良の一人が背負っていたアサルトライフルを。


そして彼は決意した。


「只今を持って、俺は、通信兵は、第三混合魔法分隊に復帰します」


連合軍を皆殺しにする事を。





壊れたラジオは語り、時計の針は逆行する。





啓かれた知識

夢遊病

彼の心は壊れてしまった。

過去も現在も、この夕暮れ時には夢現。

たった一人の兵士は、心に刻まれた想い出を頼りに、歩き出す。

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