映画を観るだけ、二人で観るだけ
十一月も半ばに入って、紅葉もすっかり姿を消した。マフラーと手袋の両方を着けるべきか、身支度に悩む気温となる。
今、夜道を歩く僕は手袋をせず、防寒具はマフラーのみ首に巻いていた。冷たい夜風に直で晒される手を慰めるように、道端の自販機で買ったばかりの缶コーヒーで暖を取った。
「寒いなぁ」
暖かい缶を握りしめて一人寂しく歩くこと、十分ぐらいだろうか。一軒の平屋が目に入り、脳内カーナビが「目的地に着きました」と呟いた。
普段から孤独に過ごす僕は、こうして脳内でカーナビのような妄想を繰り広げることが多々ある。主演と小道具だけで成り立つ空想劇。
「ははっ…」
最近、その癖が加速しているのは、まさに到着したばかりの家の住人の影響もあるだろう。それは良い影響か、悪い影響か、どっちだろうねと溜息を吐いた。
そっと玄関の前に立つ。この呼び鈴を鳴らすのに心の準備が要らなくなるのは、いつになるだろう。
「どうぞ!」
弾んだ声が聞こえるのを待って、ドアノブをそっと回した。
缶の温度で暖まっていた手に金属の冷たさが染み渡った。明日からの外出には手袋を必ず着けよう、と心に誓った。
四歳差の友人のお姉さんと、一緒に夜を過ごす日々。そこにやましいことはなく…。
「うわぁ、結構あっけなく死んじゃったね。この俳優は最後まで生き残る人だと思っていたのに」
「メタ的な視点ですね」
寧々子さんと二人でソファに座りながら洋画を鑑賞する。今日のジャンルは、地球上に増殖したゾンビに襲われる人間を描いた血生臭いホラー作品だった。
この家には様々なジャンルの洋画が置いてある。餅宮がシャドーイングの練習に使用していたらしい。それに倣って、吹替ではなく字幕で鑑賞するのが常となっていた。
「あれ、もうピザいいの?」
「…はい」
ゾンビに襲われている際の緊迫した英会話を聞くのは新鮮で面白いが、この血生臭い洋画とピザの相性は悪いと思う。映画の中で犠牲者が出るたびに、ケチャップを視界に入れないように厚い生地を咀嚼した。僕が繊細なだけでピザが冷めてしまうのは可哀そうだ。
「んー?」
隣の寧々子さんを見ると、画面を覗き込みながら口一杯にピザを頬張っている。ケチャップの付いた無邪気な横顔に見惚れていると、僕の視線に気づいた彼女が首を傾げて微笑む。
「ふふっ、ありがとう」
少し目線を逸らして、机の上のティッシュを差し出した。その意図に気付いた彼女が頬を拭く。ケチャップに負けないほど赤い唇が艶やかだった。
「いえいえ」
こうしたやり取りにも、この家で過ごす時間にも慣れてきた。
ティッシュやテレビのリモコンの位置と収納場所。
充電コードで知ったスマホの機種。
教えてもらったWi-Fiのパスワード。
お風呂場やトイレの使い方。
ソファに並んで座る時の体の間隔。
餅宮が留学に行ってから二週間が経つが、その内の半数を僕達は一緒に過ごしている。
バイトや課題で忙しくない日は、彼女の飲酒に付き合うのが僕の日課となった。傍から見ても仲の良い妹がいなくなった寂しさを紛らわしたいのだろう。頻度を増す寧々子さんからの誘いを断る強い意志が僕には無かった。
この一緒に飲む時間は楽しい。自分の弱みを見せたくない僕は、ジュースしか飲んでいないけど。酔い潰れた自分の姿を見られたくないと思っている。
酔って上機嫌になった寧々子さんに相槌を打つ。一緒に映画を観ながら、リアルタイムで感想を言い合う。…たまに挟まる冗談には未だに固まってしまうこともあるけど。それも上手くさばけたら、楽しみが増えるんだろうなという予感があるから構わない。
僕が聞き上手かどうかはさておき、話し上手な寧々子さんとの時間は居心地が良い。
ただ一つだけ、僕が困っていることがあるとすれば。
それは、映画のエンドロールが流れてからだ。時計の針が深夜零時に到達するか否やの場所で、僕の困りごとは存在感を示す。もたれてくる隣の存在感が重みを増した。
「…そろそろ寝ますか」
「…」
「起きてください!寧々子さん!」
寝息を立てながら、僕の肩の内側に小さな頭をもたせかかる寧々子さんを揺さぶる。
完全にパーソナルスペースを割っている安らかな寝顔。お酒か香水か、系の匂いが香る密着した距離は、僕にとってしんどい。
「…今日もこれか」
右肩を塞がれた不自由な姿勢でリモコンを手に取り、テレビの電源を落とした。
エンドロールを真剣に眺めているかと思えばこれだ。餅宮が「二人そろってソファで寝落ちしちゃったこともあってね」と苦笑していた記憶が蘇る。
この距離は姉妹間なら許されど、僕との間で本当に正しいのだろうか。
こういった時、他に参考に出来る人間関係の経験が無いのは辛い。僕のコミュ力が雑魚の弊害が出ている。もっと、他人と関わってくれば正解を知れたのだろうか。
ただ、僕は間違えたくないのだ。
雑魚であることを自虐しても、狼になることを自虐する人間にはなりたくないのだ。
正しい行動なんて知らないけれど。
「ん、うぅ、粉城くん?」
寧々子さんの肩を何度か揺さぶることで、彼女が意識を取り戻す。この好機を逃すと寝落ちコースだ。半分夢の中の彼女に、慌てて話しかける。
「ほら、ベッド行ってください。僕はソファで寝ますから」
僕の意識は良好だし、本当は自宅に帰りたいのだが、そうすると餅宮に怒られる。
泥酔した状態の姉を一人に残すと戸締りが不安だから、と過保護な妹はそう言っていた。
それを言われると弱い。情けなくも弱いとこばかりの僕である。
「はぁい、分かったぁ」
くすっと笑う寧々子さんから、思わず目を逸らした。初対面から思っていたことだが、僕はこのお姉さんの突然の笑みにも弱い。
了承は口だけで、立ち上がる様子を見せない寧々子さん。僕が無言で手を差し出すと、彼女は素直に握ってくる。心臓まで掴まれる感覚。
「…行きますよ」
柔らかい手の感触を意識しないように、なるべく無心で寝室まで歩く。目的地の寝室のドアを開けて立ち止まった。
「ありがとぉ」
寧々子さんがふらつきながら寝室へ入る。
「じゃあ、僕はこれで」
「おやすミッキぃ…」
かの人気キャラクター。その着ぐるみを被った者ならば、喜んでファンサービスしてくれる所だろうが。ここはディズニーホテルでも、僕は百戦錬磨のキャストでもない。
「…」
無言で振り返る。ベッドに腰掛けた寧々子さんが、僕に何かを期待するかのように微笑している。
「…言いませんよ」
「えぇー、言ってくれないの?」
薄暗い間接照明の下、怪しく猫のように光る瞳。潤んだ眼で見つめられて、猫の前の鼠のように身動きが取れない。酸素を求めて深呼吸し、息を大きく吐き出した。そして返答する。
「言いません。おやすみなさい」
「はぁい、おやすみ。ふふっ、お互い夢の国で会おうねぇ」
悪戯気に微笑む寧々子さんが手を振る。ぎこちなく僕も手を振り返す。背を向けると、彼女が布団に入る衣擦れの音が聞こえた。それをかき消すように、それでいて静かに、そっと寝室のドアを閉めた。
リビングに戻った僕はソファへと仰向けに寝転んだ。来客用として借りている毛布にくるまり、眠気を主張する瞼を下ろす。瞑る寸前の視界に、先程まで観ていた洋画のパッケージが映った。
「…僕の理性がハザードしませんように」
僕の呟いた空虚な戯言と溜息が闇に溶けていった。