友人の姉、僕を助けてくれた人、その素顔
(…非常に食べづらい…)
「あっ、ピザ落ちちゃうよ!」
「ふふっ、危なかったねぇ」
三人掛けのソファに餅宮姉妹が僕を挟んで座る。左右からアルコールの混じった甘い香りがする。両手に花だね、と茶化す餅宮は端っこの立ち位置を譲る気がないようで。無意識にもピザを掴んだ両手に強い力を込めてしまう。マッシュルームの食感に意識を集中させなくては、僕の平常心が一瞬で崩れてしまいそうだった。
「ふふっ、楽しいねぇ」
お酒を飲んだ寧々子さんはギャップどころの話ではなかった。
頬を赤らめて、隣に座る僕にしなだれかかってくる。彼女の甘い匂いが、髪が揺れるごとに漂ってきて気が気ではない。
「なぎなぎ、飲まないのー?」
「飲みませんよ。ていうか何ですか。なぎなぎって」
「なぎなぎはなぎなぎだよー」
会話が成立しない酔っ払いが爆誕してしまった。助けを求めて、お酒をちびちび飲んでいる餅宮の方を向く。
「餅宮、どういうことか説明して。というか君のお姉さんを引きはがしてくれ」
「駄目です、自力で何とかして下さい。その呼び方は「粉城凪」で「なぎなぎ」ってことじゃない?」
僕が助けを求めても、薄情者の餅宮は何も助け舟を出してくれなかった。それどころか、僕達の様子を写真に撮り始める始末だ。
肩に寄りかかる寧々子さんの酒気と香水の香りが同時に僕の鼻腔をくすぐる。理性を懸命に働かせて柔らかい感触を無視した。
ひとしきり撮影を終えて、カメラロールを満足げに確認した餅宮が、とても楽しそうに猫のような瞳を細めた。
「役得でしょ。お酒飲んだお姉ちゃん。本当に可愛い。粉城が羨ましいなぁ…」
「いや違う。…そうだけど、そうじゃない。さては、餅宮も酔ってるね。「なぎなぎ」呼びもそうだけど、ここまで変わるものか?」
お酒の魔力で、人はここまで変化するのかと戦慄する。すると、餅宮は破顔して手を伸ばし、前後に揺れている寧々子さんの頭を優しく撫でた。
「お姉ちゃんね。本当はおやじギャグとか駄洒落とか、そういうくだらない言葉遊びを言うのが大好きなんだよ。普段の人前では、大人っぽい猫を被ってるけどね」
だから、粉城のこと気に入ってるって言ったでしょと、餅宮が首を傾ける。あの言葉がこういう意味だったなんて予想できない。左肩の重みを確かめると、そこには上機嫌な満開の笑顔が目に入る。花が咲くような甘い香りが更に強まる。
彼女の酔い様は、出会った当初の余裕ある大人びた振る舞いの姿とはかけ離れていて、無邪気な少女のようなあどけない印象を僕に抱かせた。本当に少女なら飲酒はダメなんだけどね。
その赤く濡れた唇が音を紡ぐ。
「粉城君ってば、お酒を避けてるんだー。「酒を避ける」ねぇ。ふふっ、ふふふ」
「…えぇー、本当にどうしよう、この人」
完全に笑い上戸になってしまった寧々子さんへの対応に頭を抱えた。餅宮が小声で囁く。
「こういうお姉ちゃん、どう思う?」
「え…面倒だと思う」
「そんなに即答しないでよ!」
駄々っ子のように喚く餅宮も酒が回ってきているようで。それでも、と言葉を続けた。
「これが寧々子さんの素なら別にいいと思う。他人がどうこう口出すことでも無いし」
それに、と言葉を切った。喋りすぎて渇いた喉を水で潤す。餅宮が上目遣いで僕を見上げた。何かを期待するような顔だと思った。
「餅宮はさ。この寧々子さんの姿が好きなんだろ。どんなに普段とのギャップがあろうと」
「…うん」
飲み会の時、僕を介抱してくれた寧々子さんを思い返す。見ず知らずの僕を助けてくれたことへの感謝を。その感情は、今の彼女を見ても消えることなく、確かにあった。
「それなら僕も、友達の好きな人を馬鹿にしないよ。つまらない駄洒落に気を遣って笑うことはしないけど、自分の知らなかった素顔を馬鹿にして笑うこともしないよ」
素直な気持ちを口にすると、餅宮は目をぎゅっと瞑って絞り出すような声で言った。
「…やっぱり、粉城で良かった」
餅宮が少し潤んだ眦を指で拭った。僕はピザで汚れた指先をティッシュで拭って、それに気付かない振りをした。
「お姉ちゃんさ」
餅宮が僕の背をこつんと叩いた。その姿勢のまま、彼女の話を聞く。
「うん」
「美人だから。告白されたり、付き合ったりも多かったけど。全員、お姉ちゃんの素顔を知ったら、「黙っていたら美人なのにね」とか、「そういうのウザいから辞めてくれない?」とか酷い反応ばっかりで」
「…酷いな」
相槌ではなく、心からそう思った。
仮にも好きな人の知られざる一面を見ただけで、そういう酷い反応する人もいるのかと、周りとの関わりを避けてきた僕には、違う世界の話のようだった。
「お姉ちゃんも優しいから。恋人の前では素顔を出さなくなったけど、無理しているのは知ってた。結局、誰とも永続きせずに別れてきたけど。今でも、他人の前では猫を被ったままで」
「…それで僕か」
ある程度の事情は察した。餅宮が頷く。
「別に恋人になってあげて、とは言わない。ただ、私がいない間、お姉ちゃんが肩の力を抜ける場所であって欲しい。それが粉城なら私も安心できるから」
「…出来る限りなら」
「うん、それでいいよ」
話は終わり、というようにぽんと背中を叩かれた。餅宮が寧々子さんに声を掛ける。
「お姉ちゃん、そろそろ寝ようか」
うつらうつらと舟を漕いでいた寧々子さんが、餅宮の呼びかけに薄目を開ける。
餅宮の姿を確認して、彼女の顔が幸せそうに綻ぶ。ここまで餅宮が姉を慕う気持ちが分かったような気がした。
今夜はソファで寝るように、と言われていた僕は座ったままで二人を見守る。酔った寧々子さんに餅宮が肩を貸して歩き出す。ドアの前で寧々子さんが僕の方へ振り返った。
「なぎなぎ、寧央ちゃん、おやすミッキー!」
「うん、おやすミニー!」
「…えぇ…」
陽気に就寝の挨拶を交わす餅宮姉妹。この挨拶、巷でいうバカップルではないだろうか。
「…僕一人で、相手できるかなぁ」
僕の心の声が漏れた情けない呟きに、振り向いた餅宮が静かに笑った。